十一題話 8/16
題:アパート、バーニャカウダ、男梅、浅漬、ぬいぐるみ、ハイヒール、労働基準法、トランポリン、たまりんこ、さくらんぼ、鍵
こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。
カーテンの隙間から差し込む朝日が天井を舐めていくのをぼんやりと見上げながらつぶやくと、鼻に擦りつけるようにまたタオルケットを引き上げた。
あとどれぐらいこうしていたら目覚まし時計が鳴り出すのかを確認する気持ちがわかないし、もはや起床時間はとうに過ぎていて、次に聞こえるのは出社確認の電話なのかもしれないけれど、その不安すらも塗りつぶすぐらいに何も出来ないでいる。
どうやら今朝はいい天気のようだし、別に体調の不良も感じない。気はする。ひょっとしたら平熱よりかは高いのかもしれないけれど、きっとそれは理由ではない。おそらく。
いつのまにか地球の重力が倍になっていたのかもしれない。私の身体は普段よりも深くベッドに沈み込んでいるはずだ。もうあとしばらくでもこのまま横になっていれば、ずぶずぶびりりとマットレスを突き破っていって、いつもギシギシうるさいこのアパートの床と天井を4階分貫いて、そのまま地面にめり込んでめり込んで。
ああ、私はそのままマグマにじゅうと溶かされてしまうんだろう。
益体もない事を考えながら、重力倍増なんて事実がないことを証明するようにごろりと横に寝返りをうった。
こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。
いつの頃からかなんとなく思い描いていた社会人二年目の夏は、もう少しだけ美しいものだった。
まだまだ慣れたとは言えないけれども、ほんの少し自信を持って仕事をしていたりして。ちょっぴり失敗したりもするけれど支え合える友人でもある同僚達と、仕事には厳しいけれど人間として尊敬出来る素敵な先輩を遠い目標にしていたり。ワーク・ライフ・バランスなんかに少し悩みながらも平凡だけど充実した平日を乗り切った週末には、ちょっとだけ奮発した自分時間なんかを作っちゃったり。お風呂上がりに冷やした白ワインを傾けつつニンニク抜きのバーニャカウダでもつまみながら撮りためた恋愛ドラマを観て。ベッドサイドの可愛らしいぬいぐるみにため息でもひとつこぼしてみたりなんかしたりしていて。
ぼうっとした視線の端。八畳ワンルームの和室で場違いに据えられたガラスローテーブルの上で男梅サワーのロング缶が半分握りつぶされて所在なさげにうなだれている。ちょっとだけ奮発して買ったいつもより二〇円高い浅漬けの素は、柚がほんの少しだけ香って美味しかった。母がよく作っていた大根の葉の浅漬は少し辛くて青臭くて、実家に居た頃は苦手だったけれど今でもわざわざ少し遠い八百屋さんで葉付きの大根を買ってまで作ってしまう。
こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。
大学の友達が労働基準法やらハイヒールやらと戦っている間、私は大した失敗をすることもなく、どこかで恐れていた五月病も訪れず。古ぼけた輪転機から移った指先のインク汚れを落とす為の石鹸が少し強くて、肌荒れをごまかすためのハンドクリームの匂いが鼻に染み付いたことだけを悩んで過ごしていただけだった。
私はそんな平坦な日々の中をゆっくりと落ちていって落ちていって、だけれど何かが優しく受け止めては、トランポリンのようにぼやぁんと私を宙に放り返す。一瞬だけ圧力に息が詰まるような不快感はあるけれど、私はこの部屋を突き抜ける事もなく地面に沈み込む事もマグマに焼き尽くされることもなく。ぼやぁん、ぼやぁんと同じ場所を漂うのだ。
そしてジリリと目覚まし時計が鳴り。
扉の鍵をかける音って、なんでこんなに大きく聞こえるんだろうか、なんだかいつも音を出さずに鍵をかけようとして失敗している気がする。別に泥棒じゃないんだから気にする必要なんてないのに。ジャリジャリ、ガチャンとやたら大きく聞こえる音を合図にして、なんだか踵が地面にくっつくような気がするのだ。そうしてべったりとくっついた足をなんとか交互に出しては駅へと続く街路をたどっていく。そういえば、この並木の桜は実をつけないのだと去年はじめて知ったのだった。
実家の辺りの桜は花が落ちるとたまりんこと可愛らしい実をつけていたものだから、なんだかここがやはり自分の知らない場所なのだと改めて思い知らされたような気がして。だけど、それはなんだか落ち着く感覚でもあった。
知らない場所で、知らない毎日を、なんだかふわふわと漂って。
結局マグマに溶けなかった私は、そうしてこんなはずじゃない一日をまた続けることにした。
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