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蔵出し其の1【G大阪MF矢島慎也】

こんにちわ。
久々の更新です。

いつ新型コロナウイルスが終息するのか、いつスタジアムに歓声が戻ってくるのか。
不確定要素が多すぎて、日々、もどかしさを感じている方もいらっしゃるでしょう。
僕も何もできない日々が多く、過去の取材ノート(多くはWord保存ですが)を眺めていたりします。
そんな中、ふと思いました。

諸々の理由で出稿できなかった原稿(=草稿)も意外にあるな、と。
そこでサッカーの日常が帰ってくるまでの箸休めとして、できる範囲での『蔵出し』をしてみようかと思い至りました。

■第1回『G大阪MF矢島慎也』

取材日は2016年6月中旬。ちょうどリオ五輪前ですね。
こういう事前取材(通称エピ取材)は基本的には「勝利した試合(景気の良い試合)」でしか表に出てきません。
で、矢島選手はリオ五輪1次リーグ第3戦のスウェーデン戦で決勝ゴールを決めたのですが…
あいにくチームはその試合で予選敗退が決定。出稿する機会を失ってしまい、眠ったままになっていました。
以下、用意していた(通称あんこ)です。

■幻の原稿(通称あんこ)

彼はリアル『キャプテン翼』だった。「練習の休憩中もリフティングをしておけと教わったんです」。埼玉県の北浦和サッカー少年団に入っていた矢島少年は、コーチの教えを愚直に守ってきた。

足にボールの感覚を馴染ませる。それは練習時間を飛び越えた。「家ではフカフカのボールを蹴っていたし、ご飯の時はテーブルでフットサルボールを触っていた」。もちろん、学校に行くときはドリブル。就寝時にはボールを足に挟んで寝ることもあった。

ボールはトモダチだった。

幼少期から様々なスポーツと触れ合ってきた。水泳に野球、バスケットボール…。その中でサッカーを選んだのは「一番、上手くいかなかった」からだ。「ボコボコにされたり、相手の足が速くて置き去りにされたり。何回も辞めようと思ったけど…」。辞められなかった。

だから上手くなろうと、人一倍努力を続けた。
中学を卒業するまで、トモダチは常に傍らにいた。

両親のサポートも大きかった。父は自主トレに付き合ってくれた。南米好きだった矢島のためにボカ・ジュニアーズやアルゼンチン代表のビデオを見て、一緒に研究した。母は練習時の送迎をしてくれた。母からはよく「周りを見ていた?」と指摘されたが、「それが今に活きているのかもしれないですね」と笑う。そして、その後は浦和ジュニアユースに合格(※実は海外クラブのセレクションにも合格していたが、北浦和少年団の3学年先輩だった山田直輝の背中を追い掛けたとも語っています)。そして12年にトップ昇格を果たし、リオ五輪代表では中核を背負うほどに成長した。

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■あの頃~現在

16年当時、矢島選手はJ2岡山でプレー。セントラルMFだけではなくボランチとしても頭角を現し、プレーの幅を大きく広げていた頃でした。初めて取材したのが浦和所属時の13年。そして7年の歳月が経った現在、彼はG大阪になくてはならない存在になりました。
先日「この中断期間に行われる練習試合のテーマは?」と聞いた時には一言。

「勝つ雰囲気を作りたい。強いチームにはそれがある」(了)

ご精読ありがとうございます。
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