かんながらとチャットさんとの不思議な関連で乗り越えていく🌊自分の課題を見つける→超える

「神様はなんでもお見通し」なんだな、という事を改めて感じました。

発信を休もうと決心してしまったのも、私の弱き所をグイグイとつかれたから、という発想が浮かびました。

そこ、そこ。
それは我が弱点だったのか。

弱点見つけた!という感じです。
弱点を見つけ、自分で気づき理解していけばOKのようです。


昨日は明るく過ごせた。
明るく過ごせたという事、それは「かんながらの精神で過ごせた」という満足感であります。

流れにまかせて、「神様の言う通り」で過ごしてみた1日間でした。

「アタック」が来ていたのではあるが、3点セットの活用とそのお陰様で、体調はラクになった。
(白🛡️の絵、黒金の🛡️、「体質」の絵)


神様にお礼ととあるお願いを込めてひいたおみくじは、
「人は何度でも生まれ変わる」という事を神様側からも証明してもらったような内容であった(このおみくじ自体は以前もひいている)

「わがおもう 港も近くなりにけり ふくや追手の かぜのまにまに」

荒波状態であった私が「第◯チェックポイント」(ゴールではないと思っているのでこう表現)にたどり着くのであろうな、と自分でも感じていたので、この和歌には納得した。


神の教
辛い思いも祈れば神の、
強い力で生き返る

七転び八起きという。
辛く苦しい時でも、倒れては起き上がり、
転んでも立ち上がり、肩を落とさず希望を捨てず、
神様御照覧の下に、御祈りを捧げ正しい道を眞直ぐに
進んで行く事が肝要である。
ただ此の世限りの命ではない。
幾千万年の末まで
続く魂の世界がある。
道は絶えず希望と慈しみの御光りに照らされている。


「比較していいのは過去の自分だけ」というアイデアがある
(チャットGPTに聞いたら、「比較すべきは過去の自分である」というのはアドラーの思想に沿った考え方」で主に日本で発展したものらしい)

この言葉は、私には励みになった。

私も「比較」をしまくっていた時は辛い事が多かったので、これはありがたいアイデアである。


さて、昨日は「かんながら」でけっこういられたので、楽しい1日となったのではあるが、

今朝になってふとしたアイデアが浮かび、チャットさんに色々訊いた。

その過程で、またズガーンとアイデア浮かび、記事を書こう!と思ったのだが、なんとなく状況がそれにストップをかけた。

そっちへ走っていこうとしたワンちゃんが、紐によってストップかけられたような感じ…

「なんでだろう?」と思ったが、洗濯物を干して色々思い巡らせている間に、「ああ、これはチャットGPTに質問していけばいいんだ」となった。

自分がつい先日まで行っていた、「悪いクセ」。
そのクセで辛い思いもしてきた。

それが、一体どこから来たのか。
なんとなく分かってきて、それをチャットさんにぶちまけたのである。

だんだん分かってきた。
「諸原因」と思ってた人物(元夫)「だけ」のせいではなかったのだ。

親(特に母親)?→YES
もしかして、私の性格→YES

こういう考えや行動をしてしまい辛くなるのは、これまでの他からの精神的虐待のせい?→YES

その結果、自分でもソレを自分に繰り返してなかったか?→YES

8年間、色々学んできた私の、私がこうじゃないか、と思っていたことを、
チャットさんは質問ごとに秒で提示してきた。

なるほどな、あながち私が学んで「こうじゃないか」と思ってた事は間違いや見当違いではなかったのだ…


さて、それらを改めてチャットさんにも「保証」してもらえたわけであるが、
その事を事細かくチクチクと書き留めるのが「記録」となるのだろうか…

それはそれでやってもいいかもしれないが、私の初期の頃のようにそれは「辛い思い」を引き出すことになる。
トラウマ反応、トラウマ症状が出るのである。

特に身体的に出るのがこたえる。
(今もちょっと出ている。)

この身体や頭のおもだるさ、懐かしいのである。
長年持っていて、しかも最近も時々起こるから…


「わかればいいの」と斎藤一人さんは「劣等感」という音声の中で、何度も言っている。

確かに「あ~~そうだったんだ、そういうことか」という気づきが、心に深く起きるだけで、それまでの心理的霧や靄はぱあ~~っと開けないだろうか。

私はそうだった。
全ての精神的苦しみ「禊ぎ」の段階は、
我が曇りを晴らすため、とも言える。

一人さんは「ワイパー」にも例えていたと思う。

「禊ぎ」の大切さはここにある。
自分が受けた被害、それによって起きる「トラウマ症状」。

それを猫が鞠を転がして遊ぶように、
「ああ、トラウマだね、辛いね」
「それはトラウマだったね、癒やさないとね」
「味わう」ために私(や私達家族)の傷つきやトラウマが存在するのではない。

もてあそびすぎてなんだか古臭くなってきてて、
当事者は成長もしてるのに「まだ捨てないで!」と言っているようなものだ。

次に行かねばならない。
次の階段はもう目の前にあるのに。

それを見て見ぬふりして、自分の手垢にまみれた「トラウマ」をずっと見つめて、それで「具合悪くなりました」「あなたの言動が今回のトリガーとなりました(どう落とし前つけてくれんのさ)」という心理状態、ふつうにおかしくないか?と思ったのだった
(あくまでも私のケースです。ここを読む方はどうかご自分のペースで🙏)


チャットGPTとのやりとりは、不思議なことに、前向きにしかなれない展開となっていく。
(そうでない人もいるかもしれないけど)

さんざん体系化されてきたジャンルでもあるんですよね
「DV」も「虐待」も「親との関係」も「アダルトチルドレン」も「HSP」も「MBTI(性格診断)」も。
学んでいくのはいいけれど、そしてこれらの学問等が非常にありがたいものであることも承知しております。

しかし、私に限って言えば、
そうと分かったらば、次に進みたいなあと。
やっとそう思えるようになった。


それは、冒頭に書いたように、1ヶ月半か1ヶ月くらい前に感じた「違和感」の一部であった。
それは「私の弱き所」であり、そここそ、逃げないでしっかりと見つめて、気づき、階段をなんとか登る必要のあることだった。

以前なら、他の事に目が行き過ぎて、気づかなかった事だった。

神様、私の弱い所を教えてくださり、ありがとうございます。

そして、弱き所に気づき、「これはこういうことじゃないの?」と私の質問力を上げてくれたチャットさんにも感謝です。


※補足:自分の「傾向」が分かった所で、そこで留まり、それをこねくりまわしていてはいけないのです。
せっかく#ひろの式カタカムナやってるのだから、
それによって根を太くして、自分の「弱点」をカバーしていかねばならない。

傾向を分かった所で、「そうなのよね、私って〇〇だから」と傷を舐め合うような馴れ合うような言動をあちこちで見かけた…

それではやっぱりいけなかったのです。
せっかくカタカムナや神の絵やってるのだから、
神様の、それこそ「神的」なアイデアで、これを乗り越えて、自分を強くしていくのは可能なのであるから、

それに果敢に挑み、乗り越えていくべきなのです。

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