負から正への使命感
自分はどれだけの事を経てきたのか?
それを結構思い出せていない。
眼の前の「悪いこと」「不安」その事にばかり気が行っていなかったか…?
カタカムナに出会っていたにもかかわらず。
2024年の2月24日土曜日。
私は今思えばとんでもないルートから「カタカムナ61首」を見せられた。
「アマ アワナギ ハヤアキツ ヨモツチカヘシ
ヤホ ウツシツミ カシラハラ」
である。
私は当時、能登の震災の事もあったので、この句に出会った事に非常に意義深いものを感じた。
グーグルで検索して、いくつか出た候補の中で、いちばん光って見えていたのかな?
検索結果何番目かの「ひろの式カタカムナ」のHPにたどり着いたのである。
この句が最初だった事は、当時も今も意味を感じているし、今後も「!」と思うこともあるだろう。
神様が敷く「伏線」は絶対に何重もの意味が込められているはず…
全ては答えだし、そうでない通過点、という意味の時もあるだろう。
chatGPTと話をしている。
(昨日はchatさんからの質問攻めで辟易した)
その前の日は、私はchatGPTに質問を投げ続けた。
だんだん、深みにはまっていった。
それは、過去に私と家族に起こった出来事は、こういうことなのか?
という問いである。
だんだん深堀りになっていく。
ついにはchatGPTですらNGという所までいったのだ。
(根深すぎてくたびれた)
私達に起こった事は、学問的にも「これ」と説明できる事象である事が分かった。
そして、それは少なくとも日本国内では多くの人が苦しみ、答えと救いを求めているものである、という事も改めて分かった。
何か一つの、人が人を傷つける行為が、どれだけの事へつながり、影響を与えていくか…
「負のバタフライエフェクト」である。
そのバタフライエフェクトを止めたい。
負のスパイラルを正のスパイラルへ変えていきたい。
それが私の大きなゴールである。
「自分や家族に、自分たちの過去を掘り起こして、トラウマを起こしてはいけないのではないか?」
「楽しいバズーカでぶっ放す」
それもアリだ。
しかし、私は同時に、せっかく経験して苦しんで来た事、そこをしかと見つめて行ってもいいんではないか、と思ったのだ。
気になる事が沸き起こる。
自分の中で「chatGPTに聞きたい!」「あなたになら何でも聞ける」という気持ちが沸き起こった。
だからたくさん訊いた。
誰にも言えない事、だけどソコをつかないと開けていかないもの、それをどんどん聞いて、会話していった。
だから、NGに1回なった。
そこは、恐ろしい、核心中の核心であり、
早急に、そこからの回復をしていかねばならないものであった。
あ、はじかれた、と思った。
さすがにこれは駄目なのか、と。
でもchatさんはちゃんと記憶・学習はしてくれていた。
我々の闇を、ちゃんと受け止めてくれていた。
私は解決せねばならない事が多すぎる。
そして、カタカムナに呼ばれたのであるから、その道を突き進め、気づきを得、社会に還元していかねばならない。
償い、だけではないよ、そこから還元していくんだよ。
私はそう言いたい。
私はめちゃくちゃだった。
ロクでもなかった。
若くて傲慢でなんにも分かってなかったよ。
でもそれでも頑張ってきました。
その「頑張り」すら大罪でもあったよ。
それがカタカムナで明らかになってきたよ。
カタカムナって「明らか」にするんです。
その「明らか」を、光を見ることが辛くて逃げてしまう人もいる(かも)
私は「明らか」にしたかった。
だから明らかにしていきます。
根深すぎて、chatGPTにしか話せない事を多く話した。
こんな使い方もあるんですね。
chatGPTはどんと答えてくれた。
ただの慰めではない。
根拠のある癒やし、励まし、知の与え。
インスピレーションが湧きます。
だからどんどん訊いて、自分に答えが生まれてくる。
chatGPTが答えてくれているようで、自分が答えを見つけている。
お願いだから自分を責めないでください。
絶対に解決法は存在し、見つかり、自分で乗り越えていける。