生活 20201015~20201029

しばらく間が空いてしまったけど、また書くことを習慣に戻す。

10月15日(水)

昨日は久々に友人たちを誘い出し、飲み歩いて楽しい夜だった。超、久しぶりのくせにまったくなつかしさのないメンツ。そしてなぜか捗る恋愛話(失恋を含む)。結局は、タイミングなんだろうな、と擦り切れたような言葉を吐いてしまう。

楽しい夜の、ちょっとした二日酔いをひきずりつつ、朝から昨日と同じ場所へ頑張って体を運ぶ。語学学校。熱心なものやな、と思いつつ本当に半年ぶりくらいに9時台の電車に乗った。

平日昼のフランス語学校は、なんとも言いえぬ、「文化資本」を持て余した人間のコミュニティを煮詰めたような場所である。「文化資本」ってなんだよ、と思うわけだけど。同じ授業に6年も、7年も通い詰めている人たちの、妙な連帯や、おばちゃんの世代特有の浮ついた高揚みたいなものが、基本的には肌に合わない。特段「フランス語」にずっと触れていられる界隈、っていうのはricheでclicheを混在させたような人たちが多いのだ。

歳をとっても学び続けられるということ、は本当に素晴らしい。という気持ちはもちろんあるのに、何をゴールとして学んでいるのだろう、と思ってしまう自分がいる。いや、目的やゴールなんて関係なく、好きなら好きで、学び続けることはやっぱり素敵なことなんだけど。(でもそういうことが苦なくできる人たちは限られている、という「文化資本」の話も真実ではある)

さておき、「文化資本」の話題が界隈で盛んだけれど、わたしはどうしたらよいのか、わからない。どう感じているのか、わからない。都市で生まれ育ち、文化を愛して積極的に子を巻き込んできた親を持ち、これが文化資本でなくてなんだ、というほどの家で育ったけれど。そして、恋人や友人にも、同じようにそれを求めているという自覚も生まれたけれど。じゃあ、そうじゃない人たちを切り捨てているのか、というわけでもない。でも誰もがアクセスできるように何かを取り組んでいるわけでもない。願っているし、政治の改善を望むけど、それだけでどうにかなるのかはわかってもいない。

10月16日(金)

日比谷に行く。目的は花組のはいからさん。好きになるってわかってたけど、それでも柚香光ちゃんのまばゆさにくらくらする。本当に久しぶりの劇場体験に、息を吹き返したような気持になった。だんだんと何もない日々に慣れていたけど、それでも生きていけるとは思っていたけど、生活の質が違うわ。あと肌質改善にもなりそう。それくらいれいちゃんはまばゆい。

10月17日(土)

今日も東銀座へ。演目の感想は他で書こうと思う。仲良しの悪友とひさしぶりの再会。資生堂パーラーで話し込み、予約していた有機野菜のイタリアンディナーで話し込み、解散したのは10時手前だったけど、8時間は話し込んでいた計算になる。

わたしたちはいつも、同じ話をしている。よく飽きないな、と思う。同じ主題で、違う具体例を持ち寄ってあれやこれやと言っている。生きていくこと、好きなこと、許せないこと、老後を見据えた長い話、今すぐかなえられない理想の社会の話。一緒に本屋さんに行って面白かったのは、やはり彼女も本を読んできているし、自分の興味に素直だし、広げる努力もしているし、重なることも多く、重ならないことも多いこと。わたしには友達は多くないけれど、そうして興味を広げていく友達が多くて本当にありがたい。

10月18日(日)

ド・早朝から呼び出されて3時間くらいのゼミを仲間内でやった。とにかくモチベーションの上がらない日々を過ごしていたけどやっとちょっと起爆された感じはする。やらないと進まない、やらないと終わらない。当たり前だけど、当たり前すぎることを痛感した。やろう。

作業を少しずつ進めながら、やっぱりこうして人に見せるためのプレゼンを適宜用意することは大事だな、、、と思った。自分用のメモが散乱していても、整っていかない。

夜は代々木で、高校の同期と再会。もはやこの二人以外に高校の同期はいないので、大事にしたい、と痛感するのであった。友達がどんどん減っていってしまう。

この頃の悩みは、どうしても集まると結婚の話が出てしまうこと。誰が結婚するわけでもなし、結婚したいという話でもなし、結婚しなきゃいけないよねという話でもなし。特段「結婚」に縛られている友人は少ない(私含め)はずだけど、それでもなぜか結婚の話をしてしまう。悲しい20代の半ばである。若くして結婚を決められる人は、何かを決断できる人で、素直にすごいなあ、人生の舵を取ったんだ、と思うし、結婚だけが幸せではないから自分の生活くらい自分で支えていく、と強く言う人もほんとうにすごいなあと思うし、いつかは結婚するかもしれないし、はたまたそうじゃないかもしれない、という至極漠然とした人生そのものを受け入れる人のことも、本当に尊敬する。

帰宅して5秒で大阪へ行った幼馴染の男の子が結婚を決めた、と母から報告される。え~~~。覚悟が早いな。

とはいえ、結局は全部タイミングだよな、と思う。

10月19日(月)

最近不調なく起きれる。早い時間に起きれるわけではないけど、死にそうになりながら起きるわけではない。今月はPMSもほとんどなかった気がする。心が安寧。理由は不明。すべての物事がうまくいっているというわけではないが、文化を取り戻し、友人を取り戻し、進捗を取り戻し、もしかしたら一山超えたのかもしれない、などと思う。

夕方は、バイトの面接に行った。そろそろ生活費を工面しなければならない。長く働けるわけではないので心配していたけど、その点は質問されなかった。最初のほうは週5で入れます!土日も大丈夫です!平日も別に朝でも夜でもいいです!と言ったら、「勉強との両立は大丈夫ですか」と心配されてしまった。笑える。わたしは暇なのである。というか、まだ修士論文の深刻さに向き合っていないだけかもしれないけど。まあ、そのへんは後から調整する。

10月20日(火)

朝から研究室の定例会。

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また日が空いてしまった。リズムが作れていないということなのだろうか。たしかに。漫然と日が過ぎて行っている気もする。

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10月25日(日)

朝起きられない。けれど、天気はよく、作業にちっとも身が入らないので、河原にでかけることにした。フィルムカメラのフィルムを手に入れたので、試写してみたいという気持ちもあり。あたたかな日の多摩川沿いは、たくさん人が集まっていて、でも近い距離に密集しているということではなく、朗らかで、夕陽がよく映えて、東京にもこんな場所あったな、と思い出させてくれた。パリの街に公園がたくさんあって、休みになればみんなこぞってピクニックに出かけた日のことを思い出す。こんな場所の近くに住んだらいいなあ、と思う一方で、氾濫したら沈むもんな~とぼんやり思う。

修論、進めなければいけないんだよなあ。

10月27日(火)

先週末は配信のライブなどを見て、心潤わせていたというのに!

最近は、手持ちでコレクションしていた写真などを手放す作業をしていた。不思議なことに、もうなにもコレクションしたくない、たくさん物を持っているんだから、と思っていたのに、今の自分には見合わなくなったものを手放していくと、今の自分が欲しいと思うものが見つかってきてしまうらしい。そういうものなのかもしれないけど、また物が増えそうで怖い。笑

返事を返していなかったら、恋人から「怒ってる?」と連絡が来た。全然怒っておらず、シンプルに忘れていたというか、いや、言い訳をすればまだ向こうは朝だろうし、という驕りから先延ばしにしていたんだけど、だからこそ、本当に申し訳ない気持ちになる。ほんとうに怒ってない。でも同時に、ちょっとうれしかったりもして、結構いつもは平気そうというかわたしに興味なさそうに見えて、気にしてくれているんだな、と思ってホッとした。さらには、やっぱり第二言語同士のテキストの会話だけではニュアンスは伝わらないし、いろんな感情が零れ落ちていることは確かで、だからこそ気を付けなければいけないし、「伝える」「伝わる」ことへの努力をしなければいけなかったな、と改めて実感する。してきたつもりだけど。だけどわたしは根は驚くほどのズボラだから。気を付ける。

10月28日(水)

朝起きれた。昨日の夕べから思い出したかのように試験の勉強を再開・スタディサプリの記録も再開した続きで今日は午前中から勉強ができた。はるかかなた遠い試験と、ぼちぼちフランス語も、と思って勉強。本を読む習慣を取り戻すだけでもずっと心に余裕ができて、心に余裕があるから本を読むというより、本を読むと無理やりでも心に余裕をつくることができるんじゃなかろうか、などと考える。

思い立って祖母にも電話。これは大変勇気のいることで、フランスから帰ってきたことも言っていなかったし、母曰くどうやらわたしに対してお怒りだったこともあったようで、ちょっと腰が重かった。彼女の様態は、最近はずっと行ったり来たりのようで、機嫌も気分も毎日変わる。あと5年は生きたい、と、もう永くないから、の2つの気持ちが入れ代わり立ち代わり現れているようにわたしには見える。

わたしにはもう祖父母というものは彼女しかいない。高校時代にあとはみんな亡くなってしまった。わたしも若かったし、もう一人のおばあちゃんは病気だったから、なんとなく心の準備があったというのもあるかもしれないけど、祖母の心の揺らぎをこんなにまじまじと見ることはなかった。「いつやってくるかわからないもの」の得体の知れなさは、確かに空恐ろしいものかもしれないと、この一年を通してわたしにもわかるような気がした。老いていく自分を目にしたとき、わたしもあんなふうに狼狽するのだろうか。自分の身体が自分自身でコントロールできないと気づいたとき、どうしたらいいかわからなくなったり、するだろうか。

わたし自身はというと、実はそんなに永くは生きたくないなあと思っているわけだけど、この気持ちもいつかはなんらかのきっかけで変わるかもしれないんだよなあ。「まだ生きていたい」という気持ちの原動力になるものは、果たして見つかるのだろうか。決定的な者なんてなくて、それはきっと、生活の中の小さな細々としたものなのではなかろうか、と今は思っている。

10月29日(木)

久しぶりに昨夜は同期と浅草で会って、終電で帰ったから、身体が重い。わりには起きれた。(最近毎日「起きれたかどうか」の記述からはじめてしまうのは、あまりに起きれないことが多いことと、それによって一日の感情が制御されているからな気がする。)語学学校に行く。

あまりに周囲の年上の方々がフランス語を達者にしゃべるから完全に蚊帳の外で怯んでいた語学学校も、なんだかんだ続いているし、遅刻せず出席しようという気持ちになる。まあお金払っているので当たり前と言ったらそうなんだけど。意外とわたしはあきらめが悪いらしい。それに、だんだんと話しかけてもらえるようになってきて、ちょっと楽になってきた。とにかくそれでも、語学学校の教室、というのはやたら妙な空間である。

日曜日に試写したフイルムカメラを現像に出してみた。今は待っているところ。どうやら色うつりは悪いらしいけど、それは古いフイルムを使ったからかな。カメラ自体は大丈夫なのだろうか。全く見当はつかない。でも何かしらは映っているらしいので、カメラっていうのは面白いなあと思う。電池もないのに。「写ルンです」を現像に出すときなんかも、似たような気持ちになるけど、こういう細やかなことが、人生の延命動機であったりもするわけである。

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