生活 20200708~20200718
7月8日(水)
朝遅く起きた。体が動かない。体が動かないだけだと心が死んでしまうけれど、体が動かないことをこうして言葉に置き換えると、まあそれで仕方がないか、今日はそういう日ね、と諦められる。
夕刻、溜め込んだプロジェクトを推進していかなければ、と思ってインタビューの書き起こしをやった。レコーダーから聞こえてくる自分の声が変。聞いたことない声がする。不思議だなと思う。それから、あの時あの瞬間に行われたたわいもない雑談が、こうしてリプレイされることも奇妙だな、と思う。もう二度と戻れない時間が再生されている。
7月9日(木)
朝起きて、カーテンの裾からトマトを確認すると赤い皮膚が弾けて土の上に散乱していた。とても悲しい。ゆうべのひどい雨のせいだろうか。とても悲しい。でも、きっとこれが先週起きていたら、どんどん悲しくなって、ああ、わたしはトマトも守ってあげられないんだ、って思って底まで沈んだと思う。今日は、すこし、仕方がないな、という気持ちで止まれている。まだ青い実はなっている。収穫の時期って難しいのね。次はちゃんと食べてあげたい。
気分をあげるために、キャッシュレス還元キャンペーンで手に入れた2000円のアマゾンギフト券を資本に本を買うことにする。明日届く。たのしみ。何かを買うと気分があがるので、そうやって消費行為を活用していると自覚はある。だからそういうときは本やおいしい食べ物がいい。手にしただけでもうれしいのに、結果身になるから。
さらに最近は、やる気がでないときはキャンドルに火を灯すことにした。生きているって感じがする。ゆらゆらと空気がゆれる、風が見える、あたたかい。無駄な二酸化炭素を発生させてごめんなさいね、と思いつつ、わたしの健康が立て直される気持ちがする。25年間で培った、自分のハンドリング方法が増えていく。
内々定者を集めるオンラインワークショップ?が行われる。久々に新しい人に会うのでけっこう緊張していたけれど、まあなんとか。しかし2時間もあった。16時からだよ〜と言われつつ何時までだよ〜という予告がなかったので、そこがちょっと不満。あと、同期と仲良くなりましょうね、という意図はとてもよくわかるが、不安と不安を共有したところで、不安が増大しただけでなんの解決にもならない、ということもわかった。「みんなが不安ならわたしも不安でいっか!」というのはこちら側の話であって、不安を解消しうる情報を提供してほしいと思うばかり。どっと疲れた〜
すぐさま研究室のミーティング。後輩ちゃんの発表があったので聞いた。
夜はNetflixに『グレイズアナトミー』のシーズン13と14が追加されたので、みる。待ってた〜。デレクを失って、クリスティーナもいなくなり、だんだんと大事だった彼らのことが回想されることもなくなるこの時間の厚さが、人生だな、と思う。忘れられない傷はあるけれど、でも思い出せなくなっていったり、今を必死になったりするうちに新しい大事なものが生まれたり。不可逆だなと思い知らされるドラマ。あの、一番幸せだった頃をもう一度見たい、と思ってしまうけど否応無くエピソードは進んでいくし、進んでいかなければならないのであった。。。
7月10日(金)
『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』が届いたので読む。
昨日母親の書棚から出てきた『北欧のノーマライゼーション エイジレス社会の暮らしと住まいを訪ねて』を読む。
「知ること」ってわたしのなかでのプライオリティーは高いというか、重要なことだと思っているのだけれど。でも「知ること」によって、精神のリソースがもっていかれることも多くて、バランスが難しい。考えずにはいられなくなる。例えば最近の議論だと、ポテサラ爺さんといものがあり。そういったわかりやすくてキャッチーなネーミングや大喜利によって事象が認識される一方で、本質について十分に解決策が見出されないまま消費されたり、忘れ去られたりする。だからこそ、せめて「知られること」「認知されること」「問題が可視化されること」のほうが重要である、という論派の人もいるだろう。オラファー・エリアソン展も、気付かれない不可視の環境問題を造形にすることで、まず気づいてよ、知ってよ、という意図だったと思った。最近の選挙も、あらゆる政治論調も、ポリコレの話も。最近のわたしはありとあらゆる問題に耳を傾け、知りすぎて、だんだん東京が、日本が、社会がいやになってしまってはいないだろうか。
でも結局はそういうものも引き受けて、「知ること」からはじめていかなければならないんだよな。「知らなければよかったこと」ってよくいうけれど、あるのだろうか。
ところで、そういう個別の事象をキーワードとして拾う考現学的方法で、今日から記録していこうと思う。わたしの内側の日記とはまた違う、社会の話。
夜は、やらなければならないことをさておいて(ちょっとはやった)、インターネットでセドリック・クラピッシュの『PARIS』のフランス語字幕が見つかったので、観てみる。意外といける。繰り返し見ようと思う。日常の会話も多いので。バイリンガルのYouTuberが『やまとなでしこ』を繰り返し見てシャドーイングしていたというので。
『グレイズアナトミー』S3Ep3~
7月11日(土)
やっとやる気が出てAutoCAD作業を行う!一日集中すれば一枚図面が終わるということがやっとわかった。とはいえ、リハビリ期間…という感じだったので、以後もうちょっとサクサクできるといいかな。一週間でモデリングするところまでたどり着くことを目標にします。やっと、現実的な目標として考えられそうな気がする。時間かかったなあ。
作業のお供にはよく見ていたYouTuberの人のポッドキャストを聴く。シノブとナオミの毒舌アメリカンライフ。「デートの時におごってくれたらうれしい」論争で、「男側に領収書を置く」ことに「怒るアクティビストもいる」けど「そんなことで怒らなくてよくない?」というのが二人の論調であった。こういう問題は、入れ子になってあらゆる主張の人がいるよな~と思った。それでもわたしはやっぱり、「それくらい」って思えないだろうなと思うわけである。「おごってくれたらうれしい」という気持ちは理解するし、わたしも思うこともあるけど、無条件に男が払います、というシチュエーションになることは「いやだ」という気持ちがある。むずかしいけど。
これはわたしにとって「エクストリーム」でもなんでもないスタンスだけど、「エクストリーム」だと感じる人もいるのかもしれない。
あと、海外生活の長い彼女たちにとってそれが「許容範囲」なんだ、っていうのは興味深かった。特にアメリカは人種差別や貧富の格差、もちろんフェミニズムの問題も日本よりずっと身近でセンシティブなことであると思っていたから。わたしにとってはどれらの問題の根っこはつながっていて、どんな差別であれ、できるだけできるだけすべての人が同様の権利を得られる方向の世界へ向かうことを願っているけれど、たしかに、「黒人差別」の問題に関心があるけれど「女性差別」の問題には関心がないっていう人もいるのかもしれないし、「貧富の格差」と「フェミニズム」両方は考えるキャパがないので考えませんっていう人もいるのかもしれないな、と思った。(※それらの問題は、あるところでは連関していて、あるところでは独自の問題だったりもするので、いっしょくたにつなげて考えましょうね、という見解は事実や問題の本質を歪めると思うので反対です。)加えて、「海外生活が長い」から「あらゆる人権問題に高い意識がある」というのもわたしの偏見であるし、そもそもフェミニズムに関心があれど「領収書を男側に置く」程度のことは問題としてはとらえる必要がない、というスタンスがあるのも否定できないんだなあ。人それぞれグラデーションがあるので。
わたしが考えているからといって、考えていない人を名指して批難していくことは許されないし、別にわたしがすべてを理解して物事をジャッジしうる立場にいるわけでもないし、わたしはわたしの無知も認めなければならないし、ただし他人の無知を責め立てることは分断しか生まないし。むずかしい。自分の無知には厳しく、他人の無知には寛大にあるべき、ということなのだろうか。
夜は、同期と月一のエスキス会。わたしはまったく進捗がないので発表できず、聞く側で参加。「わたしたち日本人が西洋理論を勉強している意味がわからなくなってきた」という発言に端を発する議論、大事だったな。「世界システム」の話も出た。わたしにとって西洋の理論や歴史を学ぶことは、逃れられない社会の構造をいちどそのままにインプットするという点で価値をもっていると思う。日本人、日本国家、日本の文化は、他のなにからも影響を受けていません、と言い張ることが叶うのならば西洋も中国もアメリカも学ぶ必要がないかもしれないけれど、幸か不幸かわたしたちはそのすべての影響を受けた構造のなかで生きている。だからこそ大事にしたいのは、西洋の理論や歴史が作った構造を強化したいわけではないということ。学んだことがすべてわたしになるのではない、学んだことを解釈して噛み砕いて批判的な視点も持ち得たときにはじめて、学びがものさしとなって、わたしの立っている地面が見えるのだと思いたい。
7月12日(日)
平面図の二枚目を仕上げた。このペースでできるのね、じゃあもうちょっと次ははやく、と気合を入れた。作業のお供にPodcastを探す。ひとりのボーカリストを見つけた。ロンドン拠点の多国籍バンドを組んでいるらしい。はっきりした物言いや、それでも等身大でいる姿勢が、すごく気に入った。彼女をレペゼンする本や映画、音楽を紙の端にメモする。芋づるでもうひとつ、いい感じのバンドを見つけたりした。久々。
7月13日(月)
クラピッシュの『PARIS』を見返してフランス語を勉強する試み。時間かかる。2時間分やるには半年くらいかかりそうだ。
休憩がてら見たグレイズアナトミーが止まらず、結局4話くらい続けて見てしまった。止まらない。このドラマの世界を想像すると、ついつい、「病気になる」未来や急に足元が揺るぐような出来事を想像してしまうけどどうかな。そういう人生だってあるし、でももっと楽観的に言えば、そうじゃない時間だって人生にはたくさんあるのかもしれない。
7月14日(火)
バスティーユの日ですね。なにかフランス革命の映画でも観ようかしら、今夜。
火曜日なので朝から定例会に芸術史ゼミ。盛り上がる日もあれば盛り上がらない日もあるけど、今日は後者かな。次々回からは自由テーマにしたので、それはすこし楽しみである。
昼過ぎに、宅急便が届く!待ちに待っていた「本」が届いた!すごいうれしい。残念なことに、背表紙に1文字脱字を見つけてしまって悲しい気持ちになったけど、すごく紙質もよくて、中身のすこしクリームがかった紙の色も好きだし、なにより、案外レイアウトがきれいにいったんじゃないかな、と思って大満足している。研究室で過去につくったイヤーブックの隣にならべてみる。いいじゃん。なんどもなんどもめくってしまうな。とてもうれしい気持ちでいっぱい。これからも時々こうやって自分の文章を本にして遊んでいったらいいかもしれない。だれかに何かを伝えるようなことではなく、ただただ誰の関心にも晒されない日々を映した文章を。
うれしくなって、街にカレーを買いに行く。つもりがランチ営業は15時までだったので、RF1でサラダを買うプランに変更。散歩がてら。サラダの原材料を思い浮かべて、スーパーで値札のつけられたそれぞれの野菜を思い浮かべて、お高くつく工数ね、と思いつつ、それでも今日はいい気分だった。わたしが作ったほうが安かろうと、いい気分だった。
ほったらかされていたフランス語の文法の本をひと月ぶりに開く。あとちょっとだからせっかくだから終わらせよう。調子付いてオンライン英会話もする。いろいろな、止まりかけていた事柄が動き始める気がする。日記を書くことは、文章を書捨てることは、「忘れるため」「前へ進むため」なのだ。でも過去をなかったことにはしない。
Netflixで『The End of the F***ing World』を観る。Ep1は15分くらいしかない。おどろくことに。『セックスエデュケーション』を好んで観る人は好きかも。
夜はフランス革命の映画が見つからなかったのでアマプラで『マチネのおわりに』を観た。本のほうがいいな、絶対。
7月15日(水)
朝うだうだしながら妹を予備校に追い出し、わたしもちゃっかり心を決めたので免許センターと学校に推薦状の書類を出しに行く日にした。試験を受けなくていい免許センターはとても晴れやかな気持ちだし、さくさく手続きをしてくださるのでうれしいもんだな。ようやく国際免許証も手に入れることができました。古いの返納したし。一度も使ってないけど。(そしてそもそもATもMTも国際免許証じゃ関係ないらしく、じゃあ、理屈上では限定解除いらんやん...と思いつつ。いらんやん...みたいな顔したわたしを見かねて慌てて「いや、でも、国によって全然違いますし!日本の免許証も持って行って、ここに書いてある通りAT限定解除されてますよ〜って自分で説明してくださいね!」と言われる。ぜったい無理だろうな。「AT限定解除」の概念からフランス人に説明するのは絶対無理だ。「建築学科」割引がある美術館でも「あ〜漢字?わからん、無理」みたいなノリでつっぱねられるわけだから。あ、これはギリシャの記憶だったかもだけど。まあとにかく。)
帰りがけ、『もののけ姫』を観て帰ることにする。よかった。簡単に言葉にはならないけど。よかった。誰かが悪者で誰かが英雄、じゃなくてよかった。
青椒肉絲をつくって食べる。おいしかった。ごはんがすすむ。明日はスコーンを作りたいな、と思っている。図面も終わらせなきゃね。うん。
7月16日(木)
映画観に行きたいな、と思っていたけど忘れていた。スコーン作りたいな、と思っていたけど忘れていた。そんな1日。そもそも9時に起きたのに、録画したバラエティ番組を朝から見るからいけないのかもしれない。でもそれ以外に身体の起こし方を知らない。
断面図を引き始める。ぽちぽち。ラジオ代わりのPodcast。最近はこれがたのしい。Podcast聞くために作業している、みたいなところある。ついでに休憩1時間で写真の整理を...と思ったら2時間以上経ってる。知ってた。写真の整理は悪魔の所業なのだ。先日つくった本が、すごく心躍らせる代物だったので、写真集もつくろう、と長期計画を立てている。来週末にはレイアウトできて製本かけられたらいいな。製図作業も同時並行でやろう。飴と鞭。
夕刻、ツイッターで流れてきたヴェネツィアビエンナーレの日本館にまつわる公開ゼミを興味本位で開き、鑑賞。無料で盗み聞きできるゼミが最近はたのしい。機会さえあればどんなジャンルでも参加したい。気になってた建築家のRecent Worksも知れたし、自身が考えていることに近しいテーマもあり。気になってもいなかった建築家のプレゼンで気になったこともあり。オンラインゼミの難しさ、というか、あまりの長さに建築家って話すの好きだな〜それともまとまっていないのかな〜っていう自戒的なものまで感じた。
画面越しに留学時代の友人を見つけて連絡。自分の時間の流れを持っている彼女の、独特な語り口がなつかしい。わたしもそのエッセンスほしいな、と思ったこともあったなあ。また会いたい。
7月17日(金)
担当教員がとあるところで講演をするのを、観覧してもいいですよ、ってことなので、『パルプ・フィクション』観に行くつもりだったのと悩んでステイホームすることに。オンラインで拝聴。理論の人間と実務の人間でやはり気になるポイントが違うのだろうな、と質疑応答から感じた。理論だけではどうにもならない部分もあるので、社会の制度やルール生成のシステムを知りたいなあとわたしも思ったりした。
オンライン授業づいているので、京大の#立ち止まって考えよう を見ることにした。とりあえず哲学の授業を受けることにした。出口先生、という方の講義だけど、話が上手で、おもしろかった。また受けよう。こうやって他大のオープンな授業が無料で聴講できるシステムはほんとうにありがたい。教育に、誰もがアクセスできるような世界になるといいとおもう。たとえばハーバードやMITの授業がたくさんオンラインで観れたりするのと同様に。
7月18日(土)
「死にたい」っておもう、ってどういう感情だろうか、って最近よく考えている。『死刑 その哲学的考察』っていうちくまの新書を読んでいることもあるし、そういう出来事が社会で目につくということもあるし、友人がそんなポストをしていて声をかけたこともあすり、なんとなく自分の感情が下がっていたこともあって、そのへんの理由はいろいろだ。
今日の出来事はかなりショッキングで、幾度もやるせなくなったけれど、数か月前よりはまだどうにか整理できている気がする。わからないけど。喪失の出来事は、人生のうちに何度も繰り返され、その度傷つくし悲しいしやっていられなくなるけど、だからといって傷つかないように「強く」なる自衛本能がいきすぎるとどんな出来事にも傷つかず、ひとの痛みを理解できるような、人間らしさを失う。だから、毎回毎回傷つかなければならないのだとおもう。たとえつらくても。傷つきたくなくても。
医者は、なんども人の死に向き合い、自分の力不足に向き合い、まさに喪失の繰り返しのなかで生きなければならない。その中で彼らに必要とされることは、傷つかず淡々と職務を全うすることではなく、毎回毎回傷つきながらも、その過程でその立ち直りを早くする術を身に付けることだ、と言っていた(グレイズアナトミーS13Ep18,19)。人は、悲しみながら、それでも悲しみ以外の感情も見つけて、進んでいかなければならない。
わたしは、中高時代に祖父母の多くを亡くし、その繰り返しをはじめて味わった。きっとこれからもあるとおもう。大きい喪失も小さい喪失も、まだ味わったことのない、整理をつけたことのない喪失もあるのだとおもう。同じ喪失のかたちは一つとしてないから、もちろん紋切り型ではいかないけれど、きっと経験からヒントを得て、その度にどんどんと整理が「うまく」なるのかもしれない。「うまく」なるなんて、なんだか切ないけれど。
ところで、話は冒頭に戻って「死にたい」側の感情の話だけれど。母はそういう、いわゆる「鬱」っぽくなることがない、と言っていて興味深かった。「生きるのめんどくさいな〜」はあるけど、「死にたい、もう無理」はあまりないらしい。「まあいっか」という精神があるからだろうか。そういう、いい意味で適当でいられることは生きやすくてよいことだな、とおもう。だけど最近の肌感では、多くの人が「死にたい」とおもう経験をしている気がする。日々のなかに波があって、ある瞬間になんらかの「ああ、まだ生きていていいか」という救いに不意に遭遇してぎりぎり命をつないでいく、という人が少なくないんじゃないだろうか。そして、最近はそういったディプレッションにも市民権が与えられ、稀有なものではない、誰にでもあるよ、という風潮さえ感じる。生きづらさは、特別なものではない。
そして、そうして市民権が与えられると、幸か不幸か、ディプレッションを感じる人の人数自体も増えている気がする。もともと多くの人が感じていた感情に名がつけられて顕在化されたのか、名がつけられて「死にたい」と感じる人が増えたのか、にわとりとたまごであるけれど。
もし、名前が与えられたことによって「死にたい」と感じる人が増えたのなら、それはデメリットだし、簡単にそういう発言が出てきてしまう危うさを感じるけれど、一方では、言葉にして発信されるハードルが下がると、それだけ助けやすいというメリットもある気がする。誰でもいいから話を聞いてくれる人がいる、というのは、結構大事だったりするので。
ちなみに、「死にたい」という発言の多くは、「死にたい」のではなく「死にたいほどつらいことがある」の意である、となにかで読んだ。だから「死にたい」というエクストリームで、簡潔で、しかし曖昧な感情は、言語化していくと案外「死にたい」ということが主題ではなく「〜という、つらいことがある」という具体に落とすことができる。そして大抵そういうときの「つらいこと」っていうのは、どうにか対処できる問題というよりは、どうしたらいいかわからない八方塞がりの場合、もしくは自分だけでは対処できない、といった問題なので、「即解決」型の提案をされるより、「それはつらいね」といった「共感」や「寄り添い」、「どうしようもない」という共有が行われると、ちょっと楽になったりするんじゃなかろうか。別に解決はしないけれど。
ここ数週間わたしもディプレッションで、身体が動かない、夜は否応なく悲しい気持ちになる、まったく仕事が手に付かない、なにもしたくない、という日々があった。でも今日、母と妹と話していて思ったのは、わたしには「死にたい」という感情は襲ってこなかったな、ということであった。どうしようもない漠然とした未来が目の前に広がっていて、それでも日常のあゆみは止められず、どうしたらいいかわからない日々でも、わたしってあんまりそれを「終わらせたい」という気持ちにならないのかも。それは「いつかは解決するから」「明けない夜はないから」みたいなことかもしれないし、本を作ったりトマトを育てたりするような、直接なにかを解決するわけでもない小さな乗り越え方を人生のなかで見つけてこれたからかもしれない。わからないけど。
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