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極私的考察『知ノ巻』

最近、矢花黎に対する感情が変わってきた。
面白い、興味深い人から、興趣尽きなすぎて後世に語り継ぎたい人へ進化した。
この人、知っても知っても面白すぎて、もう既に私の中で"伝説"と化している。私に孫が出来たら「昔ね、音楽をこよなく愛してお箸を主食にしてたアイドルがいたんだけど、」って話して『おばあちゃん、またこの話してるよ……』って孫に飽きられるところまでワンパッケージでやり取りしようと決めてるレベル。出来ればその時には是非ともリアルレジェンドになってて欲しい。

そもそも私が彼を深く知ろうと思った発端はSummerParadise2020 7 MEN 侍公演(通称:サムパラ)なんですが、その中で矢花黎ソロ曲として披露されたこのI Know.- 7 MEN style -がとても濃い記憶として脳裏に焼き付いておりまして。

初めて聴いた時から、ずっと頭を掴まれて離してくれない。色んな考察が浮かんだけど、結局この1つが私の中で確立されてしまった。1度凝り固まった考え方を崩すのは、自力では大変難しいことなので、ここに書いて皆さんの考察を揺るがし、自らの考察も崩していけたらいいなとと思います。




極私的考察『I Know. - 7 MEN style -』



8月12日18:00公演にて、曲前で話していたこのセリフ。

あるところにね、物知りな男がいてね、そいつは世の中のことを大体何でも知ってるんだ、ただね、全部知ってるそいつは「生きることがあんまり楽しくない」って言うんだよ。世の中何でも知れるけど、知りすぎるっていうのも怖いもんでねえ

これを基に、この楽曲の視点は「物知りな男」(以下と表記)として進めていきます。


全部聞いた 君の軌跡を
ずいぶん癒えた 傷の苦しみまで

ここで出てくる「君」は後に出てくる「わたし」(以下彼女と表記)と同一人物だと考えられます。
が物知りな理由は、恐らく「聞く能力」があるからだと思います。ただの聞き上手、という意味ではなく、には何か、自ら話したくなってしまうような、そんな雰囲気があるのかもしれません。はあることをきっかけに彼女と出会い、彼女の軌跡(=過去)を聞いて知ります。彼女がどれほどの関係性なのか分かりませんが、もう既に治りつつある傷の苦しみまで聞き出しているのですから、相当深いところまで聞いたのでしょう。

言っちまえばエゴエゴ利己的で
その日暮らしのらりくらり誑し

これは彼女の軌跡についてのの率直な感想だと思われます。「物知りな彼」は無意識のうちに、今までに出会った人間と彼女のことを比較してしまっているのです。「物知り」が故の悲しい性(さが)でしょう。エゴも利己的もその日暮らしも誑しも、褒められた内容ではない事が伺えます。は無意識のうちに、彼女のことを低く見始めます。

" わたし全部知ってるよ本当はね… "

そんな自分より低い立場にいる彼女からこの一言を聞いた時、はどう思ったでしょう?彼女の軌跡はもう既に「全部聞いた」にも関わらず、彼女は「全部知ってる」と言う。つまり、の知らない「本当」のことを含めて、彼女は「全部知ってる」ということ。もしかしたら、彼女の軌跡というのは、が今まで聞いてきた話の中でも異色を放っていたのかもしれません。在り来りな話ではなく、どこか目新しい話。「生きてることがあんまり楽しくない」と思っているにとって、恰好の的です。

満たされたい 渇望に手を染めりゃ…あぁあ…

は世の中のことを大体何でも知っています。言い換えれば、全てを知っているわけではないのです。もっと言えば、は常に「新しい情報」に飢えている。既知の事実ではなく、誰も知らない、見たことない、聞いた事のない世界を求め続けている。だからこそ、彼女の一言に耳を奪われ、彼女の話により傾倒していくのです。

この後のハーモニカとシャウトは、矢花黎が生み出した" 芸術 "だと思っています。
本題とは少し逸れますが、矢花曰く、音楽とは「結構近い距離感で接する"芸術"」らしいです。(参照:矢花音楽学校 1限目.音楽を学ぶ理由)
"芸術"とは、端的に言えば「美を表現しようとする活動」のこと。勝手なイメージですが、音楽を学問として取り組んでいる矢花黎には、美学や芸術学の学もあると思っています。それらを踏まえると、この楽曲における「伴奏」と「シャウト」は彼なりの「美」を表現していると考えられます。ここで扱っている「美」とは単なる「美しい現象」ではなく、「心が震えるような、魂が揺さぶられるような現象」のことを表しています。
本題に戻ります。この楽曲におけるハーモニカとシャウトは、の心情の変化を表現したものでしょう。もしくは、彼女から聞いた「全部」を表現したのかもしれません。ややこしい書き方をしましたが、私はどちらも含まれていると思っています。激しいドラムとギターの音に乗せて発せられるシャウトは「の爆発した心情」、けたたましく響くハーモニカは「彼女から聞いた全部」を表しているのかなと、何故か直感的にそう思いました。
ちなみに私は、「対象と自分との間に相互作用が生まれ、あたかも自らの考えかのように、対象から意識を生み出させられること」も"芸術"だと思っています。要するに、ハーモニカとシャウトに関するこの考察が生まれたのは、これが矢花黎の仕組んだ"芸術"だからなのではないかと。


素晴らしき世界
I really like you, love you, kiss you.

これはが「全部」に対して抱いた感想だと思いました。like、love、kiss、甘い言葉の裏に隠された「全部」は何も素晴らしくなんかない。でも、素晴らしいように見せている。その薄汚いやり方、陰湿な骨組みが「素晴らしい」とは皮肉めいているのです。

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ふと、この風刺画が頭をよぎりました。内容的には「読書をすることで視野が広がり、見えなかったものが見えてくる」という、近年の読書離れを風刺したものだったのですが、私にはが右側の人間のように思えたのです。
きっとこの世界の仕組みを知らなくても、私たちはのうのうと生きていくことが出来ます。むしろ、知らぬが仏という言葉があるように、知らないまま生きていた方が「素晴らしき世界」と思えることもあるのです。
だけどは全てを「知ってしまった」。

清くBring it on.
Fake you, hate you, hole you.

Bring it onをそのまま「かかってこい」といった挑発的な言葉として受け止めるなら、この2行は全てを知ったが、全てに対して真っ向勝負を挑んでいるように思えます。さっきとは一変、Fake、hate、とネガティブな印象を持つ言葉が並べられているのが目につきます。あくまでも意味は直訳的なもの(偽物、あなたが嫌い)で、語感の良さを重視した感じです。hole youには、「そんなあなたに穴を開ける=崩す」という意味が込められているようにも思えるので、やはりこの2行はが「全て」に対して怒りや憤りを露わにし、「全て」を破壊してやろうと、そんな意気込みにも思えるのです。

それでいいんだろ?
あーだこーだ喚いて

「あーだこーだ喚いて」いるのは、何も知らない「私たち」であり、が聞いた「全て」でもあります。無知な私たちが見ている世界は「素晴らしき世界」なので、これは幻なのだとが警鐘を鳴らしたところで、私たちは「あーだこーだ喚いて」聞く耳を持ちません。おまけに「全て」も「あーだこーだ喚いて」無知な私たちを丸め込もうとしているので、は独りで闘うことになるのです。「それでいいんだろ?」は、が孤立して戦いにくくなる状況を作り出した「全て」に対するセリフだと思っています。

そう甘くねぇんだぞ
じきに湧き立つ心中
Get out of my face.
止められぬ嫌悪

「全て」+無知な私たちvs孤独なの勝負の行方は見えています。の大敗です。何事もそうですが、多数派がこの世界を統治していくのです。はその事も「知って」います。だから今は「Get out of my face(=目の前から消えてくれ)」なのです。今は何も見たくない。激しい嫌悪が止まらない。その様を、矢花自身が激しいシャウトで表現しているように思います。だけどこれは、決して逃げた訳ではなく、勝利に向かうための退行なのです。ふつふつと湧き上がる心の底からの嫌悪は、いつしか「全て」を覆してやるという信念に変わり、その信念を燃やしているように受け取れたのです。8月12日18:00公演にて、このパートの歌い終わりにが高笑いをするのは、その先の勝負での勝利が見えたからかもしれません。

ここまでの話を要約すると、
「物知りな彼は、彼女からこの世界の仕組み=全てを聞いて知り、その汚さに嫌悪を抱き、全てを覆して、自らが思う"正"の世界を作り出そうと、機会を狙っている」
という具合になります。

しかし、この楽曲はまだ終わってはいません。


" わたし全部知ってるよ本当はね? "

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これは先程紹介した風刺画の続きです。私の中で彼女は1番右の人間です。全てを知っていると思っていた中央のよりも、彼女の方がもっとずっと「全部知ってる」のです。はあくまでも彼女から聞いただけであって、全てを自らで見て感じた訳ではありません。百聞は一見にしかずという言葉があるように、聞いただけで知ったような気になってはいけないのです。
ここで、オーラスで話していた曲前のセリフに戻ります。

世の中何でも知れるけど、知りすぎるっていうのも怖いもんでねえ

インターネットが発達し、情報に溢れている昨今の世界を生き抜いている我々を風刺しているのだと思いました。「情報を制する者が現代社会を制する」と言われているように、現代社会には「情報」を重視する風潮があると思います。だけど、その「情報(=他人から見聞きし得たもの)」というものは「経験(=自らが体験した事実、そこで生まれた感情)」に比べると随分不確かなもので、気がついたら誤った方向に流されていた、ということも少なくありません。
矢花黎がこの楽曲を通して何を伝えたかったのか、明確なメッセージ性があったとすれば、このの話を通して私たちに「自らの目で世界を見極めろ」ということなのではないかと思いました。

見聞きしただけで全てを知ったつもりにならず、積極的に「知」を追い求める事が、今の私たちに必要なことである事は間違いないでしょう。

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いやー、中身濃すぎじゃね?矢花黎はなんつー作品を世に産み落としてくれちゃってんだよ……死ぬほどどうでも良いですが、私は美学専攻を希望していた高校生だったので久しぶりにこんな考察が出来て楽しかったです。思うことはもっとあるけど、矢花黎に関することではなく私の思い出なので割愛。

この歌詞の面白いところは「…」と「?」と効果的な使い方にあると思ってます。同じセリフでも文末に付ける記号を変えることで、曲を聞いた人、歌詞を読んだ人にそれぞれ別の印象を与えている。なんなんだよ。矢花黎、楽器だけじゃなくて記号まで扱えるのかよ。この使い分けがあまりにアッパレ過ぎるので、記号の魔術師:矢花黎と呼びたい。


でもまあ何より大きいのは、これが自作っていう、衝撃。

矢花黎がいつからこの作品を温めていたのか定かでは無いけど、ハッキリと分かるのは10代の頃の作品だということ。

追記(2020-10-03) SODAにて「18歳くらいの時に作り始めた曲」との発言あり。これ作る18歳やばいやん。

こんな10代が居てたまるかよ。

だけど、これを10代で作った矢花黎がやはり面白くてたまらない。
10代って、自我が芽生え始めて、自分なりの考え方とか価値観とかが生まれて、世界のあらゆる景色に敏感になる、多感で、繊細で、輝かしくて、儚い年代だという持論があるので、余計に「面白い」んですよね。
将来の夢を『「大人」になること。』と書いた矢花黎の10代の作品がI Know. 。

彼はこの貴重な10代で、何を得て、何を失って、何を" 知った "のか。

その答え合わせはきっと、これからも"音楽"を通して伝えてくれるんだと思う。
"音楽"が矢花黎における「美の表現方法」だから。


極私的考察『知ノ巻』完

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