ヱヴァンゲリヲンはおっさんの青春だったので、今更ながら語らねば進めないのだの巻
まじで今更ながらなんだが、ヱヴァンゲリオンが終わった。「シン・ヱヴァンゲリヲン」でね。
何というか、noteを始めたので、やはり自分とエヴァとの思い出は書かずにいられないのだ。だって僕の青春の全てだったのでね。
私は現在39才、独身のさえないおっさんである。
エヴァとの出会いは27年前?になるのか?1995年放映だからね。(現在2022年)
当時中学1年生の僕は、小学生から続けてる剣道の練習から帰宅し何気なくテレビをつけ、そこで偶然にもエヴァンゲリオンの第一話を観ることになったのだった。
何気なく観ていたのだが、今までのロボットアニメとは違う、グロくてシリアスな内容に釘付けになり、なんか知らんが大変なものを見てしまった感が脳天に突き刺さったのを今でも覚えている。
それからはとにかくエヴァンゲリオンなんだと、これは絶対に見逃せないのだ!と心に誓い、剣道の練習が終わらず放映時間に間に合わないようなら先生に腹が痛いと仮病でのたうち回り、ダッシュで帰宅する。そういう日々が始まったのだった。
初めて心底どっぷり「ハマった」コンテンツ、それがエヴァンゲリオンだった。
アニメを観るだけでは飽きたらず、「ニュータイプ」と「アニメージュ」のアニメ雑誌も毎月購入し、エヴァの記事は欠かさずチェック。ポスターやサントラCDなど、なけなしの小遣いは全てエヴァグッズにつぎ込んだ。
当時エヴァはマイナーなロボットアニメの一つに過ぎなかったし、クラスでも知らない人の方が圧倒的に多かった、だからとんでもないお宝を自分だけが発見してしまったような、そんな気分だった。
アニメは終盤になると、「人類補完計画」という謎ワードとともにシリアス度を増しつつ、延々と続くエレベーターのシーンや、ミサトとカジの音声のみのラブシーンなど、既存のアニメではありえないような内容も合間って余計にヤバイ感満載になりつつ、最後は「え?これで終わりなの」という拍手エンドを迎える。
当然わけわかめでこれで終わるはずもなく。完結編と銘打って劇場版が公開されることとなる。
その頃にはエヴァ好きの友人もできて「シト新生」を一緒に観に行き、新型エヴァが空を飛んで終わるというまたの謎エンドにあれはなんだったのか!と友人と熱く語り合った。
そして「Air/まごころを、君に」である。
全てが想像を上回っていた。いきなり主人公のオナニーから始まり、壮絶な殺戮シーンの後、唐突に始まった実写シーンで座席に座る僕ら観客の姿をスクリーンに見せつけられ、その上でラストにアスカの放つ「気持ち悪い」という台詞が強烈すぎて、椅子から立ち上がれなかった。
劇場からの帰り道、無言のままポスターとパンフレットを持ってトコトコ帰る自分と友人の姿も端からみたら「気持ち悪い」存在なのかもしれないと思えて急に不安になったのを覚えている。
それまで僕は自分がヱヴァンゲリヲンにハマッていることを普通のことだと思っていた。スポーツ好きが、野球やサッカーの試合を熱く語るのと同じことだと。
しかし、エヴァンゲリオンはアスカやレイ、ミサトなど女性キャラの性的な描写も多く、万人が受け入れるような健全なアニメとは言い難かった。歪んだ主人公の自意識に対して「気持ち悪い」とアスカが言うのは当然だったし、そんなエヴァに無頓着にハマっていた僕もまた「気持ち悪い」存在なのかもしれない、つまり「萌えアニメにハマッている俺キモイのでは問題」が胸にグッサリ刺さってしまったのだった。
背筋が凍るような、今までクラスで熱くヱヴァンゲリヲンを語っていた自分の姿が急に黒歴史に思えて、ぐわーと叫びたくなった。
その後はアニメ雑誌を買う頻度も減っていき、部屋に貼っていたエヴァポスターも次第に別のものに変わっていった。漫画版のエヴァは新刊が出るたび買ってはいたが、次第に興味が薄れ、途中で買うのを辞めてしまった。
高校に進学してからもアニメを見ることはあったけれど、エヴァほどハマる事もなく。「アニメオタク」であると思われることに抵抗感があったから、周りには気づかれないようにひっそり嗜む程度になっていった。
その後、アニメオタクにもなりきれず、かといってヤンキー?やリア充?にもなれず、良くも悪くも目立たない平凡な学生として日々を過ごし卒業。
しかしながら、エヴァの影響で自分も人に影響を与えるような作品を作ってみたいという願望が芽生えて一時期は監督やシナリオライターを目指すも挫折。結局映像制作の現場で美術スタッフとして働く事になったのだった。
大作映画に携われることは少なかったけれど、TMC、日活、東映、東宝、角川大映スタジオなどに出入りしてセットの装飾の仕事をしたり、小道具を手配したり、寝る間もなく怒鳴られ蹴られながらも必死で働いた。
今考えるとあの時期が自分にとっての青春だったのだ、その原動力はなんの才能もないけれど、僕もエヴァのような作品を作りたい、何か形にしたいという願いだけだった。
その後ある程度仕事を任されるようにはなったのだか、仕事内容のハードさと、ある先輩からのパワハラで精神的に参ってしまい映像の仕事を逃げるように辞め。右往左往しながら何とか生き延び、ひっそりと暮らしていた。
そんなボクを尻目にヱヴァンゲリヲンの人気は月日が流れるごとに増してゆき、ついに新劇場版として復活することとなる。
僕はいまさらヱヴァンゲリヲンなんてもういい…もはや何もかもが虚しと感じていた。あれだけ熱くなったのも過去の話、映像の仕事からも足を洗い、誰にもエヴァのことを語ることもない、それでも何かが胸につっかえているようなそんな気分だった。
新劇場版は映画館にはいかなかった、Amazonprimeで思い出したように観たが、胸に来るものはなかった。こんなものか、やっぱりあんなにハマったのは、過去の自分の世迷い事だったのだ。そう思った。
そうして、ヱヴァンゲリヲンは遠い過去の思い出となっていった。
そして…「シン・ヱヴァンゲリヲン」である。今回はなぜか胸騒ぎがして公開初日に映画館に足を運んでいた。映画館のシートに座り深呼吸をする。ああ、これで全てのヱヴァンゲリヲンが終わるのだ、長い旅の終着点だ、これで胸につっかえている何かの答えが出る。そう思った。
傑作だった。
これは「Air/まごころを、君に」で否定したオタク性を再解釈し、救う話だった。シンジはもはや過去のシンジではなく、全てのキャラクターに落とし前をつけ、救った。何よりもアスカが救われたのは嬉しかった。
それは、アニメにハマるなんて気持ち悪い、そう胸に突き刺さった少年時代の僕を救う話でもあったのだ。
映画は、終盤になるとメタ的な視点になり少しずつ物語から離れ、最後はこの映画を作っている撮影スタジオの舞台裏になる。
ああ、そうなんだ、ヱヴァンゲリヲンは長い長い、庵野秀明たちスタッフにとっての青春だったのだ。自分にとっても懐かしいスタジオの風景が描かれたとき全が分かった気がした。
ヱヴァンゲリヲンは過去の黒歴史ではない、自分にとってのかけがえのない青春だったのだ。その時、胸につっかえていた何かがなくなっていくのを感じた。
答えがでたのだった。
ありがとうヱヴァンゲリヲンと心から思えた。長い時を超えてこんな答えを用意してくれるとは思ってなかった。
これがヱヴァンゲリヲンと冴えないおっさんの物語。こんな作品は今後もないだろう、出会えて幸福でした。
この話はねーやっぱり書かなければならないのです。自分の大切な思い出として。
じゃ、また。
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