トラウマを生み出す「行政の無策」
はじめに
障害のある子どもの親が、小学校入学に際して学校を「選ぶ」ことを余儀なくされる「就学活動」について取材した記事が5月15日、Yahoo!特集で公開されました。ありがたいことに評価の声をメッセージなどでいただく一方で、コメント欄で記事や記事に出てくる方に対する批判的な声もあります。
個人的にはいわゆる「ヤフコメ」にあまり良い印象はないのですが、今回の記事に対する批判的コメント、中でも支援学校などを選択した方々のコメントは、見方によっては、今回の記事を補完するものではないかと思っています。
なぜ私がそう思うのか。直接的な説明ではありませんが、兵庫県立大学の竹端寛(たけばた・ひろし)さんが投稿された一連のツイートが、私の言いたいことをうまく説明してくれていると感じたので、自分なりの考察を入れながら紹介させていただきたいと思います。
竹端さんのツイートとそれに対する考察
改めて言いますが、この一連のツイートはとても重要だと思います。Yahoo!特集の拙記事「障害児の親を悩ませる、もう一つの『小1の壁』」が公開されましたが、竹端さんのツイートの「入所施設」や「精神病院」を「特別支援学校」などに置き換えて読むと、問題の本質が分かりやすくなるのではと思います。
拙記事へのコメントでは現状肯定派が多いですが、それは過度に競争的で、合理的配慮についての理解が不足している現在の通常学級のあり方を踏まえれば、ある意味当然なことであると思います。知り合いの専門家は、このようなコメントの背景について、次のような考えを伝えてくれました。
「支援学校に子どもを通わせている保護者も社会の差別や偏見を感じて、悩みながら、その中でも我が子の成長する姿を守りたいと考える。そして、支援学校の教育こそがそれであると強く信じ、支えたいという気持ちがあるのだと思います」「ただ、それこそ、地域の学校・普通級への選択肢がないように見える差別的な制度の結果なのだと感じました」
竹端さんもスレッドの中で「なぜ精神病院や入所施設を批判すると、障害者家族から批判されるのか。それは、家族が必死になってギリギリまで障害者を支えざるを得ず、限界を超えてやっとの思いで施設にお任せした、というトラウマ経験が背後にあるからだ」と書かれています。「そして、そのトラウマを生み出したのも、行政の無策である」とおっしゃっています。
私には、お二人が同じことを言っているように感じます。
記事や記事に出てくる方に対する批判的なコメントは、それだけ当事者や家族たちが悩んだ末に重い決断をしている(させられている)ということの現れでもあると感じます。「私たちの決断が間違っているとでも言うのか」 そんな思いもあるのかもしれません。
もちろん、それぞれが我が子を思い選んだものに間違いなどあるはずがありません。当たり前ですが、それぞれの決断は100%尊重されなければなりません。それを踏まえた上で、どの立場の方も少しだけ考えてほしいのです。責めるべき相手は、自分とは異なる選択をした方なのでしょうか?
竹端さんの一連のスレッドは「『家族丸抱えか、施設に丸投げか』の二者択一構造は、障害者本人とその家族の双方の尊厳を奪うし(中略)国家の不作為である。だからこそ、脱施設化の国家戦略が必要なのだ。障害者本人と家族のトラウマの連鎖を断ち切るためにも」でひとまず終わります。
私は就学の問題も、同様であると思います。すべての子どもたちの未来を守り、すべての人々がより生きやすい社会を築いていくために、偽物ではない真のインクルーシブ教育に向けた国家戦略が必要なのだと思います。
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