もしも生まれ変わってもまた私になりたい
はじめて買ったCDはポケットビスケッツの『Colorful』というアルバム。
ウリナリをリアルタイムでしっかり見ていたわけではなく、小学4年生から自転車旅にハマり、道中に立ち寄ったブックオフでたまたま目が合い衝動買いした。大人になってからボーカルが千秋だということを知った。
初めて買ったCDがパケ買いってなかなかクレイジーだよね。
小学生の夏はWhite Summer Heavenを口ずさみながら、学校のプールへ向かった。Orangeを聴いてこんな風に歌えたら気持ちいいんだろうなと憧れを教えてもらった。GREEN MANを聴いてロックンロールに楽しさを知った。
唯一理解できなかったのがアルバムの2曲目『YELLOW YELLOW HAPPY』。
小学4年生にして64kgの肥満体型。
マラソン大会は42人中36位。
成績は平均よりちょい下。
兄はスポーツマン。
初恋の子から「ハンバーグみたいな太ももだね」と言われる。
10歳の私には、自分を肯定する理由が見つけられなかった。
生まれ変わったらもっとイケメンになりたい。
もっと運動できるようになりたい。
みんなからもっと褒められたい。
そんな私にはこの歌詞が理解できなかった。
10年しか生きていないのに何を言ったんだと今思えば小さな悩みだけど、その時の当事者としては大きな悩みだった。
高学年の時は、土日になると親は兄の野球を見るようになり、私は1人家で留守番をするか、近所の友達と家でゲームをしていた。
運動ができる兄が比較対象とされるため、私にはこれといって応援されたり褒められる特技がなかった。
子供の頃から、親に突出した何かで褒められた記憶がない。
ある日、何を思ったか、誰にも報告をせずに、突然父が働いている店へ自転車で行った。自宅から30分ほどある距離。道中は、大きな坂が2本。
母に事前に報告していたら間違いなく止められることを知っていたので黙った。
そして、店へ着いた私を見て、父とスタッフは驚いていた。
あの瞬間、初めて能動的な行動で人に印象を残せた。小さな自己承認の芽生えだったのかもしれない。
振り返れば、きっと誰かに認められたかったんだと思う。
もし両親ともに褒め上手だったら、もっと違う人生があったのかと思う。
そしてただ父のお店へ行くだけでは飽き足らず、向かう途中にあるブックオフへ立ち寄るようになった。そして、この記事の最初に記述した通り、ポケットビスケッツ、そしてYELLOW YELLOW HAPPYに出会う。
自己肯定感が低い人が、自己肯定感ツヨツヨの曲を聴いても、何にもならない。むしろ、「はいはい、勇気づけたいだけね。ナルシストでいいですね。」と反感した言葉しか出てこなかった。
理解できなかった歌詞だけど、このアルバムは中学、高校生になっても聴き続けた。カラオケへ行けば、リズムを外さずに歌えるほどだ。
いろいろな経験を経て19歳。実家を離れ単身で京都へ引っ越し、人力車の仕事を始めた。
京都へ越す前に、少しでも余剰資金が欲しかったため、日雇バイトをしていた。某アイドルの握手会の剥がし、生放送の裏方スタッフなどを行っていた。
その中でも特に脳裏に残っているのが、毎年GWに開催されるJAPAN JAMのスタッフ。私が担当したのは、参加者の誘導業務。
人生で初めてのフェス。お金を稼ぐためになんとなく単価の高い現場を選んだら、これまでの自分が壊れ、新しい自分が生まれる日になった。
大トリで登場したのは、やばいTシャツ屋さん。
時刻は22:00。疲労もピークに達したところで、やっとこれで終わると解放的になっていた。
最後に流れてきた曲は『あつまれ! パーティーピーポー』
会場が一体になって叫んでいる。
1日中ライブを見てきたけど、一番盛り上がっていた。
私はというと、泣いた。
圧倒された。仕事中なのに。
音楽を音としてだけなく、心を満たす無形価値を感じた瞬間だった。
音楽に、ライブに惚れた経験。
さらに時を超えて、2025年1月。
私はオーガナイザーとして、ジョージアという観光ガイドブックが発売されない暗いニッチな国で、アーティストを集めて4回目のライブを開催した。
オーガナイザーは大変だ。演者、開催場所、お客様に配慮をしつつ、イベント成功へ繋げる必要がある。実は4回目の今回は途中で中止にしようと思ったほどだ。自分だけ棚に上げてしまったけど、もちろん演奏してくださったメンバーも大変だったことは重々承知しています🙏
たくさんトラブルはあったが、無事にライブは完成した。
演者たちからは感謝の言葉をもらい、来てくれた人たちからも開催してくれてありがとうと楽しんでもらえた。
なぜ大変なのにやるのか?
答えは意外にもシンプルで、純粋に自分が楽しみたいから。
「みんなをハッピーにしたいからライブをする。」なんて幸せを押し付けるつもりはない。
ただ、自分が望むことを実現したかったから。
JAPAN JAMみたいな空気をもう一度、感じたい。
だけど企画する人がいない。なら自分で作ればいいじゃん。
ということで、ジョージアでライブを企画し、オーガナイザーとして動いた。
自分を楽しませるという意志の根幹は、自分のことが好きだから。
結果として、私の楽しいが他の人へ伝染してくれたらこの上ない幸せだ。
YELLOW YELLOW HAPPYの終盤にはこんなフレーズがある。
17年の時を経て、あの『YELLOW YELLOW HAPPY』の歌詞が、こんなにも心に染みるとは思わなかった。
この歌詞に共感できる大人になれたことを嬉しく思う。
音楽って最高だよね。
改めてライブに関わってくださった皆様ありがとうございました。
今回、音楽ライブを開催するきっかけをくれたギターボーカリストのハッチーの記事も一緒にどうぞ。