直虎と、次郎法師と、直政のものたち
直政については、以前こちらのnoteでもちょっとだけ紹介させていただきました。
今回は、さて、直虎・・・といいたいところですが、実際のところかれの遺品たるものはほとんどありません。なので、今回はHP資料集より、かつて直虎とされていた「次郎法師」の遺品や、ゆかりの品(直政パパの肖像画も)を紹介します。
!史実の直虎は、今川家重臣のまさしく御曹子たる青年武将でした。大河ドラマの楽しみの向こうに、苦悩のなか生き、そして追われて死んだ青年がいたことをどうか覚えておいてくだされば、館長のよくいうところ——以て瞑すべし、になるのではないでしょうか。
もし、直虎の本当の姿にご興味をお持ちいただけたら、「ほんものの井伊直虎 上下巻」好評発売中ですので、ご注文いただけると嬉しいです。
さて、ご紹介してまいります。
-次郎法師護持・井伊家再興の胴丸-
井伊家に係る甲冑類の中では最古の鎧胴で、正式には胴丸(古称腹巻)と称します。井伊氏は直政の前代一時滅亡に瀕し、伝来古器の殆どを失うに至りますが、唯一人の女性当主で直政の養母とされる次郎法師が辛うじて井伊の家名を存続しました。本品はその次郎法師が護持し所用したと伝える前代(直平以来)の遺品で、井伊家ゆかりとして希有な武具の遺品です。江戸藩政期は松下家に伝来しました。一部江戸期に修補されていますが、室町の古態をよく残した名品です。
紐座は菊亀甲亀紐、松に二羽の鶴を配した吉祥文様の鏡です。亀と双鶴が接嘴した図柄は室町時代の特色とされています。 (寄託調査品)
永禄三年、井伊谷龍潭寺の前身である龍泰寺炎上の際危うく難を逃れ救出されたといわれる観世音菩薩像です。その後次郎法師の信仰護持仏となりました。その旨の資料(永禄11年秋)がのこされています。次郎法師歿後井伊家にゆかりの深い奥山家に伝えられました。傷んでいますが慈愛の表情ゆたかな平安時代と伝えられる古い観音様です。 (全長約105cm)
中国古代の思想に端を発する四神は、東西南北四方の守護神として広く用いられ、朝廷での祭儀においても四神旗が掲げられた例がみられます。次郎法師は井伊家守護のため、本営の帷幄中にこの四神旗を備え置きました。北方の玄武に代わり、勾陳が配されています。(寄託調査品) 平成26年5月にNHK歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く ~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」にて紹介されました。
天正十年徳川家康は甲州若神子において北条氏直の大軍と戦いました。これを世に若神子陣といいますが、戦線は少勢の徳川軍優位の内に推移し、やがて北条側から停戦和平の提案がされました。この時、徳川方の初議の使者として選ばれたのが、井伊万千代直政でした。彼は心中勇躍しつつ万一の場合の覚悟をもって北条方に乗りこみ、無事大任を果たしましたが、その時鎧下着の内にひそかに忍びもって行ったのが、この志津兼氏の懐剣でした。万一不慮の際には北条方の主な者をあたう限り斃し、直政自身も自殺するための必死の道具だったわけです。大志津独特の地刃の烈しさに勝るとも劣らぬ直政の気概偲ぶ貴重な史料でです。直政若干二十二才でした。ここから井伊直政の異数の立身がはじまったのです。 (HP別集井伊家史料文書類参照)
(直親ー直政父)の肖像画とされています。あまり表沙汰にはされていませんが、いろいろとプレイボーイな人だったよう。
井伊直政、直継、直孝、三代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図で、井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図です。あく迄男系を尊重した古系図のやり方で、この中には次郎法師、直虎のことは皆無です。そのままで見る限り存在のあとさえありません。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の風潮を偲ぶ重要な史料と思えます。
そのほかご紹介しきれていない史料もたくさん掲載されておりますので、
よろしければご覧ください。
それではこのあたりで、お読みいただきありがとうございました。
リクエストなどありましたら、また教えてくださいね。