なるたるにおける父と娘の関係に始まる考察・解説【前編】
記事を書くつもりは無かったけど、鬼頭莫宏先生のなるたるを読み返していて他の人があまり触れてなさそうな気づきが少しあって、自分なりにまとめてみたいと思ったので書いていく。
内容が考察的なものになっているので、こういう見方もあるととらえていただければ。
とは言っても完結から20年経っている漫画であって殆どの人は内容をあまり覚えていないであろうから(流行ったのは10年くらい前か)解説を交えつつ少しずつ書いていく。
ここでは鶴丸の役割についてのり夫が言及している。鶴丸というのは、「判断する役目の人」であるシイナに創造を見せる実行者であり、シイナの保護者であるという意味で父親である。
そして、地球の一構成員である鶴丸は地球のリンク者であるシイナに対しては母親に対する息子である、ということを言っている。
(ちなみに、この文言の意味は僕が自分の独力で理解したのではなく、他人が書いた解説記事によって理解することができた。)
しかし、最終的には鶴丸の意図に反して「恋人」にもなってしまう。
ここで鶴丸は父親としての役割から恋人になるという関係になるのだけれど、シイナの生物学上の父親である俊二さんに目を向けると見えてくるものがある。
まずはこれを見てほしい。
場面としては13話「天使のお遊戯」で、俊二さんが本木の同僚に自衛隊に入隊した理由を問われた時の回想であって、島に暮らしていた俊二さんが描かれている。
初めて読んだときは特に注目することもなく流していたけれど、しばらくぶりに読んだとき思ったことがあった。
鶴丸に似てね???
まあこの画像だけだと判断がしづらいだろうし、第一に長編漫画でたくさんのキャラクターがいて、その書き分けをしなければいけないわけだから意図せず似てしまう人物がでてしまうのは仕方のないことであって、絵が似ているというだけでそれを根拠に語るというのは、説得力がない。
でも実際似ていると感じた人はいたようで、例えばなるたるが完結した際に建てられたスレッドでこんな書き込みを見つけた。
それでこちらは単行本10~11巻の内容が連載されてた時の書き込み。
(引用終わり)
というわけで当時も鶴丸と俊二さんが似てるという書き込みが一定数あって、シイナが地球とリンクすることが明かされてなかった当時は鶴丸が父親であり息子発言や実生の存在の匂わせなどもあり、鶴丸と俊二さんが同一人物であるという説や鶴丸がシイナと血縁関係にあるなどといった説が真面目に議論されていたりした。
まあそれはともかく、俊二さんと鶴丸が似ているというのは僕だけの勝手な思い込みではなく、当時連載を追っていた人の中にもそう考える人が複数いたくらいには客観性があるものらしい。
だとしたら、これは偶然似てしまったのかそれとも何らかの意図があったのかという議論に踏み込んでも良いと思う。
そして僕は以下に示すような理由でこれに作為性を感じた。
あとその前に作画的に似ていると感じた絵をまとめておく。
さて、なるたるという物語には繰り返しの構造があるのだけれど、それは意識的にか無意識的にか多くの読者に察知されている。
列挙すると
4巻は東富士での”クーデター未遂”
6巻は貝塚ひろ子の事件
8巻は小沢さとみの事件
10巻は米軍関連の騒動・事件
12巻では11巻後半(もしくは1巻)から続く能事
一応2巻にも黒の子供会に関連する事件が連続して起きている。
楽しいことばかり起こるはずだったシイナとホシ丸のメルヘンは登場する各人物・勢力の思惑が交錯し、悲劇的な事件に発展していく。
そしてこの事件が終わるごとに、シイナが家(玉依家、鶴丸の家)に帰り、そして奇数巻の日常的なシーンに接続されていく。そういった流れがある。
例外的なのが10巻とその後である。11巻ではシイナは両親が揃った家に「袋の中の帰宅」をするし、涅見子による体の再生はいつもの家ではなく、祖父母の暮らす島で行われる。
地球のリンク者である涅見子にとっては、すべての場所が家であるし、それは本来地球とリンクする予定であるシイナにとってもそうである。
この事件後はホシ丸とリンクしているのが鶴丸であると知った以上鶴丸に対しては感情が複雑であるし、父親とも母親の存在がちらついて気まずい。
それでもって11巻の後半にはシェオルを掌握した涅見子の助力を得た須藤によって世界の主要都市に向けた核ミサイルが発射される。
以前のような日常は戻らない。
単調に見えたあの日々も 今の僕には取り戻す事もできない~♪
(ちなみにアニメ版は個人的によく思ってないです)
こうした意味で10巻の「週末の始まり」は「終末の始まり」である。
こうしたような繰り返しの構造があるのだけれど、そこにはある類似構造が含まれている。
それが俊二さんと鶴丸である。
画像を見てもらった方が手っ取り早い
これは意図的にやってるとしか思えない。
シイナが泣きつく先は生物学的な父親から、地球のリンク者としてのシイナをそばで守り続けてきた鶴丸へと徐々にシフトしていく。
意図的に鶴丸と俊二さんを似せて描いていると思う理由はまだある。
念の為画像は貼らないがシイナが風呂に入る描写とそれに関連した発言があって同伴者はそれぞれ俊二さん、鶴丸・のり夫である。
最初僕はこうした描写に何の意味があるのだろうか思い悩んだ。
ここまでの話を読んでいればある程度言わんとするところが予想できると思うが、鶴丸とシイナが一緒に入浴するという描写は実父である俊二さんと重ねられている。
該当シーンのある9巻においては、鶴丸はまだ父親(保護者)としての役割に徹している。
鶴丸は文字通り「孕めない生物には興味がない」のであって、だからシイナに対して浴場で欲情するようなことはない。
それに対して12巻のシーンにおいてはシイナと性行為を行っている。
この間にあったことといえばシイナの初潮である。
鶴丸は被爆後に不能となったのにも関わらず、身体を作り変えないのはシイナの「恋人」にならないためという解釈がある。
そうした意図に反して鶴丸はシイナにとっての恋人となる。
物語の中で鶴丸の役割のシフトがあって、その内の父親としての役割をこなす鶴丸と実父の俊二さんとの類似を示すためにこうした入浴のシーンが描かれているのだと僕は解釈した。
補足。一応ここで説明をしておきたいのだけれど、万朶の入学式の日の夜にシイナが「久しぶりいっしょににお風呂入ろ」と持ち掛けて、俊二さんに「まだ寒いだろ?」「うちの風呂せまいんだから」と返されるシーンがあるのだけれど(7巻p99)、ここのしばらく一緒に入ってないというのはこのやり取りはシイナの成長を描写しているわけではないと思う。というのもこの返答の寒いことと狭いことはそれぞれ独立した理由ではなく、狭い風呂に二人で入るとお湯があふれて寒いという理由だと思う。というかここで仮にシイナの成長みたいな解釈をすると9巻で普通に鶴丸とのり夫と入浴しているシーンと矛盾する。
余談にはなるのだけれど、父親と12歳前後の娘が一緒に入浴するというのは現代人の感覚では理解できない。
実際当時の感覚でもそれはそうであったらしく、それならばシイナが幼いころ母親に虐待を受けていてそれからずっと父と二人暮らしだった影響で父に依存気味であった、と解釈しておく。
話を戻す。
以上のように物語の中で鶴丸の役割に変化がある。
それは繰り返しの中で絵として表現されていて、その中で父親である俊二さんと最終的に恋人になる鶴丸は類似的に描かれている。
もっと踏み込んでいえば、鶴丸はシイナの父親として描かれているし、恋人としても描かれている。
といっても鶴丸の「恋人」としてのペルソナが明確に描かれているシーンなんて本当に少なくてその変化はわかりにくい。
分かりにくくなっているのには理由があると思っていてそれがこれ。
66話の「能事終われり」の話末でシイナと鶴丸は結ばれるけれど、最終話(67話)で次に登場する時には血を流して倒れている。
仮になるたるにもう一巻分の長さがあったとすれば終末後の世界に生きるシイナとその大事な人たちの物語は事細かく描写されていたであろうしなるたるが炎上することもなかっただろう。
作者である鬼頭莫宏先生の他の作品を参照していく。
まずは「ぼくらの」のカンジに関して、カンジの母親とカンジが好意を寄せる(それが恋愛的な感情であろうとなかろうと)田中一尉は似ているようには見えないだろうか。
(画像不足)
見た目が似ているという話にとどまらず、カンジ母は息子を遺して死んでいくし、カンジが好意を寄せる田中も、息子であるウシロを遺して死んでいく。
カンジを起点としてみた時、異性親と好きな人が類似して描かれている。
もう一つ偶然かもしれないが絵的に似ているものがあって参考までにあげておく。初期作品のヴァンデミエールの翼のブリュメールの父親とエイバリー。(正確にはエイバリーに恋愛感情を抱いているのはブリュメールに成り代わったヴァンデミエール)
本編では眼鏡くらいしか似てないが、なぜかエイバリーは単行本(旧版)の目次の絵においては本編と異なり髪がブリュメールの父親と同じブロンド系の色で着色されている。
これは、まあ偶然、かな。
以上示してきたことより、鬼頭先生は登場人物の好意を寄せる人物(鶴丸)と異性親(俊二さん)を意図的に似せているのではないかと考えた。
鶴丸が俊二さんと類似して描かれているといえる根拠はもう一つあって、それがかなり重要な点だと思うんだけど後編の流れの中で説明する方がいいと思うのでそっちにまわす。
鶴丸に関しては役割が徐々に父親から恋人へとシフトする様子が描かれている。
男性が自分の母親に似ている女性に好意をいだく傾向があるとか、女性が恋人である男性に自分の父親のかげを見ているだとかいった話は僕自身も聞いたことがあって、それは真偽はともかく社会的にもそれなりに浸透している説だと思う。
以前にある米国人と仏国人がそれぞれ別の機会でそういったことを書いてる・言ってるのを見聞きしたことがあってそれはある程度世界的、少なくとも僕たちの文化圏より広い範囲において存在する風潮なのではないか。
実際に人が社会階層や性格が自分と類似しているパートナーを選択する同類婚にとどまらず、容姿の特徴が異性親と似ている人を好意的にとらえるという研究がある。
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC1691703/pdf/15306362.pdf
ちなみに、僕はアブストラクトしか読んでない。
でもってこうした風潮がなるたる構想段階の90年代後半当時からあったのか、それとも当時の鬼頭先生が個人的に持っていた考えなのかはわからない。
でも少なくとも、なるたるにおいてはそういう風に父と娘(とその恋人)が描かれている。
あと作中で父と娘が描かれているのはアキラと貝塚ひろ子だけど、アキラはその矛先が誰にでも向いているから考えようがないし、貝塚ひろ子にはそうした描写はない。
よって他は考察のしようがない。
だからこの考察は一旦ここで終わる。
後編については上述のアキラと貝塚ひろ子に関して二人の父娘関係に焦点をあてた記事を現段階では考えている。
あと本題とは関係ないけれど、他に一つ気づいたことがあって流れを切りたくないから本文の当該箇所ではスルーしていた点がある。
一応言及しておいた方が良いかなと思ったのでここに書く。
この言い回しってなんだか意味深だし、だからこそその意味について解釈がなされるのだけれど、この言い回し自体には元ネタがある。
それはキリスト教における三位一体である。
「キリスト教で、父(神)と子(キリスト)と聖霊は、一つの神が三つの姿となって現れたものであるという考え方。転じて、三つのものが、一つのものの三つの側面であること。三つの別々のものが緊密に結びつくこと。また、三者が心を合わせて一つになること。」goo辞書より
鶴丸はシイナの父親であり、息子であり、恋人となった。
ヴァンデミエールの翼がキリスト教をテーマにしていることからもわかるが、鬼頭先生はキリスト教に対する知識がある。
だからこの言い回しは三位一体を意識していると考えていいと思う。
でもモチーフはあくまでもモチーフなので、こうしたモチーフがあるからこのキャラクターはこうなんだ、というのは言うことができないし全く描かれていないことを考察するのはそれは妄想の域である。
ということで、本記事の考察の部分はここで終わり。
ここからは記事に関する事務的な補足
記事で出てくる巻数は全て旧版のものを使っている。理由としては新装版は持ってなくて、電子書籍も旧版の巻割をしているからそっちの数字を使った方がイメージがつきやすいのかなと思ったから。
なるたるに関してはそれなりに思い入れがあって、記事を書くのはまだ早いような気がしてもう少し読み込みたいし考える時間が欲しいのだけど、書ける時期が今しかないから今書いてる。次もある程度構想はできてるのでこれだけは年内に書こうと思っている。
読んでくれてありがとうございました。