なるたるにおける父と娘の関係に始まる考察・解説【後編】
続きを書いていく。
この記事は前回の記事の続編に当たるものであるけど、別にそっちを読まなくてもあんまり差し支えはないと思う。
さて、予告通りこの記事ではまずアキラ(佐倉明)と貝塚ひろ子のそれぞれの父娘関係について焦点を当てていく。
主に参照する話は第29話「わたしの目は被害者の目、わたしの手は加害者の手」。
この話においては須藤と小森の話の文脈なしにアキラを語ることは不可能であるのだけれど、佐倉明の解説は既に色々とされていて、それがかなり受け入れられているから僕があらためて稚拙な文章と浅い内容で再構成する必要はないし、実際それについて解説すれば記事がそれだけで数本出来上がってしまうので、須藤と小森の話に関しては基本的にはふれないか、結果にだけ触れる。
貝塚ひろ子に関しても、本題を語るうえで必要ないことについてはふれない。
また、この話の本編における立ち位置としてはなるたるの物語の前半部分のクライマックスに当たる話であり、単行本の1巻丸々を使って一話が描かれている。(旧版)
ただ注意しておきたいのはこの話が一話完結のものではなく、何を語るにしろアキラにとっては物語前半の集大成であるということである。
では内容に入っていく。
まず物語はこのシーンから始まる
2ページ分しか載せてないが、29話においては冒頭4ページにわたってアキラ父による過去のアキラに関する回想とそれに関する会話があって、「あの子に、優しすぎたんですよ」というアキラ母のセリフがあって、場面が学校でのアキラに移る。
これだけページを割いた意味深なやり取りを長い話の冒頭に持ってきて、それが全く本編に関係がないということはありえない、というのが普通の考えであると思う。
僕は、これこそがこの話のフレームワークであるとさえ思っている。
アキラ父が次に出てくるのは、この話の最終盤でアキラにナイフで刺され血まみれになって倒れているシーンで、それ以降には登場することがないので必然的に5巻までの内容を参照していく必要がある。
まず初登場のシーンがこれ
優しさ、どこ??
僕はある程度この記事の構想を練ってからこのページを発見したのだけれど、正直戸惑ってしまった。
一旦後回しにさせてほしい。
こういうシーンがある。
場面としては小森の件の後にシイナから電話がかかってきて、父が引き継ぎをしてくれようとするけどアキラがそれを拒否するという話。
アキラが電話を拒否した理由としては、小森が生きていたとしたら仲間と共に自分たちに報復しにくるであろうからそれに怯えているし、人を殺めてしまったかもしれない、という罪悪感もある。
どっちにしろこの件には関わりたくないし、気持ちの整理もつかない。
だから拒絶する。
でも父親からしたら、そんなことは知りようもないし、知ったところでどうにかできることでもない。
父親からすればなんか中学生の娘が思い悩んでいるようなところがあってあまり学校に行けてなくて、珍しく仲の良い友達ができたみたいで、でもその子から電話が来たけど拒絶するし部屋に籠るし、という情報しかない。
意味が分からない、でも無理強いはしない。
こういうところに優しさが垣間見える。
そうしてアキラを思いやる描写は3巻以降他にもあって、折に触れてアキラを気遣っているし、東富士の件でアキラが行方不明になった時の憔悴ぶりや、須藤が家を訪問して部屋に上がるという流れになった時の焦りぶりは娘思いの父親そのものである。
と同時に優しさ以外にも戸惑いの感情がある。
以下は東富士の事件の前後の描写である。
6巻冒頭のシーンも合わせてアキラ父の心情を一言でいうならば、「娘とどう接すればよいかわからない」であると思う。
竜の子に関連する事件は、人知を超えた力による信じられない事件であって想像のしようがないし、娘がどうであろうと優しく接しようとしているのに拒絶される。
どうしようもない。
それが6巻冒頭のアキラ父の状況である。
さて初登場のシーンに戻る
このシーンについては、娘とどう接していいかわからない父親を描きたかったか、もしくは当時の段階では設定がまだ固まってなかったかのどちらかだと思う。
前者だと考えるとある程度統一的な説明ができる。
後者の可能性も大いにあって、
※追記: ここにあった文章を削除した。
緻密な構成の物語ではあるけれど、作者が過去にTwitterで言及しているように(そうした趣旨の投稿を見た記憶があるけど、見つけられなくてリンクを引っ張ってこれなかった)初期はまだ設定が固まっていなかったようでもある。
この1ページは正直よくわからない。
さて、この「優しすぎた父親」と対になるのが貝塚ひろ子の父親である。
「厳しすぎた父親」とでも呼ぶべきか。
私立中学の受験に関しては僕自身知識がなくてよくわからないのだが、親が小学生の娘に対してこのように接するのは普通のことなのであろうか?
どちらにせよ鬼頭先生はこの二人の父親を対照的に描いている。
それは単なる優しさ-厳しさの問題にとどまらない。
アキラとひろ子は共に竜の子を有しているけれど、ひろ子の場合は普段押し入れに閉じ込めているようで、それを誰かに明かしたりひいては利用していたりというような描写はない。
ここで二人に共通するのは、いじめを受けていて学校に行きづらいということである。
アキラ父は前述したように学校に行かない娘に対しても無理強いすることなく、上の画像においては「学校行かないのはともかく」とまで発言している。
対してひろ子の父親がこれ。
学校と塾を休んだことを強くとがめていて、終始アキラ父のように娘に歩み寄るような姿勢も見せない。
学校でのいじめという同じような境遇(といってもひろ子の方が大分露悪的ではあるが)を描いていて、それでいてこうした両者の父親の描写があるからその対照性が強調される。
もう一つ意図的に対比していると思われる描写がある。
それはシイナに関する描写である。
この二人(娘)を接続するきっかけとなったシイナであるが、彼女に対する評価もこの二人の父親からは正反対である。
こうした風に明らかに対照的に描かれているなと思う点がある。
でも最終的には両者とも娘の手によって命を落とす。
ここに当時の鬼頭先生の父娘観が現れていると思う。(「当時の」という点に関して、鬼頭先生の描く父娘関係には「ぼくらの」中期以降に断絶があり、なるたるの文脈で考察を進めていく以上は風呂敷の広げすぎになるのではないかと思う。具体的にはナカマやアンコの話について。)
「優しすぎた父親」が死んでしまった理由というのは通説的な見解があるし、他の方が具に解説していて、僕もその説に則る。
結論だけ言えば、「アキラが父親に性的関係を求めたが、それを拒絶されたので刺殺した」ということである。
ここで僕が何を言っているのかわからない人がいれば調べてみてほしい。
何にせよその解説はこの記事の範疇でない。
ここで母親による「優しすぎた父親」発言についてもう一度考える。
単に登場人物の考えではあるが、それは作者の考えの一つとしても捉えられる。
実際に、アキラ父が娘にある程度親として厳しく接していれば、見境のない多淫症であるとしても、石田君に拒絶され矛先を失った時に仲睦まじいシイナと俊二さんを見たとしても、その矛先が実父に向くことはない。
じゃあ厳しく接するのが正しいのかというと、それも違うというのが貝塚ひろ子の父娘関係である。
ここでまたヴァンデミエールの翼を参照する。
5話「ブリュメールの悪戯」の話で、愛情深い、というより娘に依存しているような父親が登場する話がある。
その父親がどっちが持ち掛けたのかはわからないが神的な存在の力を借りて、その被造物に娘の人格を複製しようとするのだけれど、結果的には娘の魂を複製先の方に持っていかれてしまう。
それで結末がこれ。
ヴァンデミエールの翼のテーマの一つは「父なる神からの自立」である。
でもってここで玉依家の父娘関係を見ていく。
シイナは俊二さんによって自主性を重んじられている。
無理に母との和解を仲立ちしようとしないのも、小学校の成績がボロボロのシイナに口出ししないのもそういう理由である。
ただこれが分かりにくいのは、そうした俊二さんの考えが直接的でなく電話越しに、他者の口を通して言及されているところにある。
僕はなるたるのこうした表現をとても気に入っている。
この画像について、鶴丸の「信用とかの話じゃないだろ」というのはそれ俊二さんが子どもの自立性を重んじている、という意図である。
鶴丸がそう考えるだろうといいきれる理由がある。
鶴丸は一貫してこのような態度をとっている。
未成年だから、子どもだからといっても容赦がないのは鶴丸がそれが子どもであろうと他人の自主性や自立性を認めているからである。
そうした観点で俊二さんと鶴丸は似通った思想を持っているのであり、これは前編に述べた二人の類似性の一つでもある。
子の自立というのはヴァンデミエールの翼の大きなテーマであるとともに、それを父娘の関係として捉えた時に理由はともかくアキラとひろ子が憧れた(6巻p90前後)シイナと俊二さんの関係にも当てはまる。
というかこれは鬼頭先生の思想的なものなのかもしれない。
「なるたる」、「ぼくらの」において日本から米軍を追い出すといったような話がある。(ぼくらのは一話時点で米軍が撤退している)
そして鬼頭先生はシイナの友達の女子中学生にこんなセリフを言わせる。
「自分達のことは自分達でやるのが 本当かなと思うし」(11巻p98)
※55話「捜す人、捜される人」
こうした描写は鬼頭先生の左翼思想の賜物だと茶化されるのをよく見るが、その根底には自立性を志向する思想があるのだと思う。
まとめに入る
なるたるにおいて鬼頭先生の描く父娘関係というのは、描写においては娘の恋人と父親が重ねられているような点がいくつも見受けられる。また父と娘の関係(ひいては父子関係か)に関しては父が娘の自立性を重んじ、娘がそれに答えて自主的に選択していくような関係をある種理想的に描いてあるといえる。また、そうした「自立」に関しては父と娘の関係にとどまらず、鬼頭先生のもっと根本的な思想のようなものを読み取ることができるのではないか。
ここまで読んでくれてありがとうございました。