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【再掲/まとめ版】 竜になった女の子



前置き


 こちらは2023年11月17日〜2023年11月28日にかけて発表した『竜になった女の子』の全12話まとめ版です。ファンタジー小説ですが、もう魔王は討ち果たされておりますので、特に勇者の剣でどうやらこうやらの描写はありません。魔法使いとその弟子のお話です。あからさまな性的描写はありませんが、11話(タイトル : ふたり)はあれこれしているので閲覧の際はご注意ください。悪名高いミズノ節は薄めです。3万文字くらいです。
 目次を作りましたので、いい感じにお使いください。
 他にも短いファンタジー話を書いており、それらとまとめて『竜になった女の子』も紙の本になります。長いやつは長いやつオンリーでまとめます。もうやりたい放題よ。
 自分の記事の宣伝するの苦手なんだけど、せっかくだから貼っておくね。



以下本編


来客


 夕方の風にそよぐ花の影や、月の光の中を少し探せば、たくさんの妖精がみつかるくらいの遠い昔、東の国の端っこに、たいそう強い魔法使いが住んでいました。
 魔法使いの名前はウルバノといって、まだ少年と呼べるほどに若い頃、星に定められた勇者と一緒に旅に出て、世に災厄をもたらす悪い国の王を打ち倒したことがある腕前でした。

 共に旅をした勇者や僧侶のもとには大勢の若者が、どうか弟子にしてくださいとひっきりなしに押し寄せたのですが、ウルバノはずっと一人でした。というのも、彼は大変強い魔法使いなので、闇の魔法や呪いの類にめっぽう強く、また若いながらに厳しい人でもありましたから、もしちょっとでも無礼を働いたなら、罰としてどんな酷い目に遭わされるか、みんな怖がって近寄らなかったのです。

 さらに言えば、ウルバノ・アルバラという彼は街の男たちより頭ひとつ背が高く、港の逞しい人足たちよりも力が強く、飢えた魔物ほど鋭い目つきをしておりましたから、そもそも滅多なことでは話しかけられないのでした。

 そんな彼ですから、勇者が悪王を討ち果たしてから20年、ひとりぽっちで静かに暮らしているのです。彼は孤独が好きなわけでも嫌いなわけでもありませんでしたが、魔法使いらしく、ものごとをよく考えるための静かさは愛しておりました。

 彼くらいの年齢の男たちは、すべからく妻をめとり、子を為し、賑やかな家庭を持ち、日々額に汗して懸命に暮らしています。負い目こそありませんが、ちょっと街へ降りようものなら、お節介な年寄りに口酸っぱく『妻をとれ、子を作れ、家庭を持て』と叱られました。
 それらお節介の煩わしさといったらなく、ここ最近ウルバノは街にすら降りず、妖精やら精霊やらの世話をしたり、古代の魔法の言葉を子どもたちの教科書のために現代語へ起こしたり、と毎日を静かにやり過ごしておりました。ウルバノは自分の力が比類ないほど強力であることをよくよく理解しておりましたし、人に怯えられることも、生き方をどうこう指南されることも辛く、とにかく、静かに暮らしたかったのです。

 ところがある日、珍しい来客がありました。
 東の国の王都ロンドにある、本当に大きくて実に立派な教会の僧兵です。

「誇り高き大魔道、ウルバノ・アルバラよ、あなたに是非とも頼みたいことがある。私はロンドの僧兵長、ユーマ。神の子ゆえに姓はない。どうか、話を聞いていただけないか。」

 ウルバノは『これは面倒ごとだろう』と予感してすぐにでも突っぱねたかったのですが、このユーマというのはかつて一緒に旅をした僧侶の弟子であることを知っていたので、無碍にするのも気の毒に思い、とりあえず話だけを聞いてやることにしました。
 ユーマはほっとした様子で話し始めました。

「西の国に、とても凶暴な竜が現れた。魔法の炎をあちこち吐いて、何人も殺されている。並の魔法使いでは言葉も通じない。あんまり大勢殺すから、みんな怖がって近寄ろうともしなくなった。被害は広がる一方だ。西の国と我が国は仲が悪いが、助けてやった方がまつりごとの上で都合が良い。東の国で、いいや、三大陸で最も強い魔法使いといえば、あなたしかいない。どうか、力を貸してもらえないだろうか。」

 ウルバノはいぶかりました。
 ほんとうの竜というのは、精霊や妖精の仲間であって、よほどのことがない限り人間などには構いつけたりしないのです。殺すなどとはもっての外で、誰かがわざと、竜に悪い心で近づかない限りは、どんな命も奪わないものなのです。

 つまり、その竜というのは、誰かにひどいことをされたか、ほんとうの竜『ではない』ということになります。

 ほんとうの竜は夜と雷を父母に持ち、千年に一度だけ、満月の夜、妖精王の祝福を受け、雪深い霊山の天辺で生まれます。
 そうではない竜は、魔法使いの変身から生まれます。
 魔法使いが禁じられた古い言葉を唱えると、とても強い力を得る代わりに、人間の姿を全く失います。かつての悪王は大変強い魔法使いであって、三大陸を支配する力を欲し、禁じられた言葉を唱えて赤い瞳を持つ巨大な竜に姿を変えました。

 そういった『魔法使いが姿を変えた』竜は、凶暴と言うよりも凶悪です。街を焼いたり人々を殺すことなど躊躇うわけもなく、むしろ、それを望んでおりますから、恐ろしいことこの上ありません。

 そして何より厄介なことに、竜に姿を変えてしまうと、魔法使いが修める古くてたいへん難しい魔法の言葉しか聞こえなくなってしまうものですから、たとえ勇者であれ、竜を鎮めるのは魔法使いの協力なしではどうにもならないのです。強い竜であればあるほど、難しい言葉しか通じません。
 事実、ユーマの言う『凶暴な竜』には、中立の国にある魔法学院の長の言葉も半分しか通じず、しかも悪い方に受け止められたためにさらに凶悪さを増し、もう二進にっち三進さっちも行かなくなっておりました。

「魔法学院の長は、おれよりも古代語に精通しておられる。なぜ通じぬ。その竜は、十中八九、基が魔法使いだろうが、おかしな話だ。」

「だから弱っているのだ。何かがおかしい。すまないが、僧兵の私ではさっぱりわからぬ。どうか、できるだけ早く、私と一緒に西の国まで行ってくれないか。」

 ウルバノは迷いました。たいへんな戦いになるかもしれません。勇者や僧侶に声をかけたいところではありますが、二人ともやっと落ち着いて、今は小さな子どもが三人います。その小さな子どもたちを残して、得体の知れない竜と戦えとは、どうしても言えません。
 これは、ウルバノ一人で立ち向かわざるを得ない内容でした。

「わかった。今すぐ行ってやる。だが、いいか。おれが勇者アダンにも大僧侶ヘスティアにも黙って出て行ったことは、秘密にしてくれ。それで万が一命を落としても、お前は何も知らなかったことにしろ。それを約束できるなら、今すぐ行ってやろうとも。」

 ユーマは師に黙ってウルバノ・アルバラを連れ出すことを申し訳なく思いましたが、事は一刻を争います。その場で頷き、二人はすぐに西の国へ赴きました。


西国の竜


 西の国は砂漠を抜けた先にある地域で、大きな国ではありません。住む人々も少なく、独特の文化を持ちます。最も特徴的なのは、女の子をひどく差別する点で、子どもを産むふくろ・・・としか思っていないのです。東の国も、決して女の子を差別しない国ではないのですが、西の国に比べると、どこの国もまともにみえてくるのでした。

 ウルバノもユーマも、竜が暴れているという区域に至るまで、散々むごい扱いを受けている女たちを見ました。男たちはなぜそうまでして、女を憎むのだろうと思うくらい、つらく当たるのです。
 ですが、西の国ではそれが当たり前で、むしろ、他の国々の方がおかしく見えているというのですから、文化というものは国の違う同士では易々と越えられぬ、冷たく分厚い壁なのでした。

「竜は、女かもしれん。」

「そんな、まさか。」

 魔法の炎があちこちで燃える地獄のような場所が見えてきたときに、ウルバノがぼそりと言いました。深く赤い雲がおどろおどろしく空に立ち籠め、黒々と煙が上がり、西の国が誇る美しい草原や山の影などは全く焼け果てて見当たりません。大変な勢いの炎でした。よほど強い魔法使いが姿を変えた竜なのでしょう。
 ウルバノは数え切れないほどたくさんの魔法の炎を見てきましたが、ちらちらと輝く芯やひらめきなどの様子が、今まで見たいずれとも色合いが違いました。

 魔法使いとは、そもそも男だけの職業です。
 女の子はどれだけ優れた魔法の力を持っていても、正式な魔法使いになるための儀式を受けさせてもらえないため、魔法を使うと『外道』とか『悪魔の妻』とか、ひどいことを言われていじめられるのです。ですから、優れた魔法の力を持つ女の子たちはせいぜいが『占い師』どまりでした。それですらつまらなく思う者があって、しばしば、占い師たちは顔に硫酸をかけられたり、毒の魔法を浴びせられたりして容貌を変えられ、苦しんだり恨んだりしながら命を落とすことが大半でした。

 女が魔法で炎を起こすと光り方が違う、ということを知っている者は多くありません。ウルバノは魔法の使い手が男であろうが女であろうが、あまり気にしませんでしたから、彼の前でだけこっそりと魔法を使って見せる女たちもいたのです。

「見てみろ、芯のところだ。丸い粒のように光るだろう。男は三角形で、じらじら・・・・とするが、女は丸いんだ。」

 促されたユーマがおそるおそる槍の穂先で炎を検めますと、魔法使いの言う通り、炎の真ん中の一番激しいところで踊る光の粒は、確かに真珠の粒が転がっているふうにみえておりました。

「魔法学院には男しかいない。魔法学院に残り続けた男が長になる。女と接する機会がないし、妻も娶らないのがしきたり・・・・だから、長は気づかれなかったのかもしれない。女には、女に宛てた話し方をせねばならん。」

 炎を検めていたユーマはぎょっとしました。
 槍の穂先に枝のような石のような、硬い何かが当たり、よく目を凝らしてみるとそれは人間の骨であって、真っ黒になるまで燃えていると言うのに、瞳が残っているのです。きょろきょろ、くるくるとめぐる瞳はどこを見ているのかはわかりませんが、死者の瞳ではありません。

「生きている!」

 魔法の炎は残酷です。
 善い心で用いれば、これほど便利なともしび・・・・はありませんが、悪い心で用いれば、肉も臓腑もすっかり焼き溶かしてしまってもなお命を奪わず、痛みと苦しみを与え続ける強力な呪いになります。
 自分の体がすっかり焼けてしまう様子を見続け、助けを求めようにも、腕も上がらなければ声も出されません。肉体は死んでも魂は生きていて、ただ苦しみ続ける、むごい炎です。
 そしてそういった炎が、ユーマが見渡す限り、数多、音もなくめらめらと燃えているのでした。 

 炎が密になるあたりに、大きな白い塊が見えました。
 きらきら、星が照る時とおんなじに光るとりわけ美しい鱗が輝いています。
 あれはまさしく竜でした。

「やはりあれは女だな。魔法学院の長は、女が何を言われると怒るのか明るくない。おおかた、逆鱗・・に触れたのだろうよ。」

 ウルバノがにやり・・・と笑います。
 ユーマも魔法学院の長のことは知っておりました。実に真面目な人物で、さらに学究一辺倒で
世古に疎いものですから、確かに悪気はなくても、その物の言い方というのは受け取り方によってはひどくぶっきらぼうに聞こえることも多々あります。
 言わんとしていることを察しとって、同じくにやり・・・と笑い返し、男たちはそれぞれに武器を構えて一歩ずつ竜へ近づいて行きました。


竜のなかみ


 かつて悪王が禁を破って呪文を唱え、赤い瞳の竜へ姿を転じたとき、その体は軍事国家の城塞ほど巨大でした。基になった魔法使いの体格に関係なく、抱いている邪な気持ちや悪い心によって大きさが変わるのです。鱗の色も、心の闇を反映してか、ひどい痣のような深い紫や、もやもやとした黒、古くなった血の色、腐った大地の色に似て澱みます。
 その理屈でいくと、ウルバノとユーマの前にいる竜はやはり奇妙でした。
 確かに大きくはありますが、天井の高い教会ほどで、鱗の色は眩く滑らかな真珠色、内側から光っているようにも見え、瞳はリンドウを思わせる綺麗な紫。また怒りや疲労に歪んでこそあれ、面差しや骨の感じもどことなく柔らかく見えます。

 凶悪、凶悪、と言われているからそう見えるだけで、実際はそこまで残酷な意思を持っているようでもありませんでした。

 ユーマが持つ槍の穂先のきらめきを見た竜は、直後、鮮やかな緑色に光る魔法の炎を真っ直ぐに吐きました。指一本でも包まれたならただでは済みません。竜に至るまでに見た無数の炎の根本に伏せる、燃え続ける骸骨と、ころころ動く瞳がユーマの頭に浮かんで、冷や汗が額いっぱいに溢れました。

 槍を下げろ、とウルバノが言いますから、慌てて地面に置きます。
 こと竜との交渉において、魔法使いの指示に従わないほど愚かなことはありません。ユーマはウルバノを呼びいくまでの間、何人もの魔法使いや、その魔法使いの言うことを聞かなかった兵士たちが殺される様子を見ておりましたから、息を止めろと言われたなら止めましたし、ぬかづいていろと言われたなら、顔がどれだけ煤で汚れようと気にせず額づきました。

『竜よ、うつくしき竜よ』

 ウルバノが、彼が知る限り最も難しい発音で竜に語りかけます。
 彼も杖を地面に置き、傷つけるつもりはないことを示すために、衣服の前を開いて胸を晒して見せました。魔法使いの証である刺青が、たくましい胸の中心にまっすぐ通っています。この刺青は魔法使いにとって最も重要な秘密を示す呪文のひとつで、その魔法使いの姿をほしいままに変じてしまうことも命を奪うこともできる恐ろしいものでした。
 竜は何度か星屑を飛ばす炎を吐いて疲れたらしく、また、ウルバノの語りかけにも満足がいったのか、じっと口を閉ざし、光の粒を放つ魔法の瞳で見つめます。

『そなたはきっと、女の子だね。どうか、聞いておくれ、うつくしき子、真珠の肌、夜明けの瞳の竜の子よ。我が名はウルバノ・ダルタニア・アルバラ。東の国からそなたに会いに、砂漠を越えてやってきた。八度の夜、八度の朝をかけ、そなたに会いにやってきたのだ。うつくしき子、炎の娘。そなたのことを、聞かせておくれ。誰かがそなたを傷つけたのだね。私がきっと仇を取ろう。教えておくれ、そなたのことを。うつくしき子、真珠の肌、夜明けの瞳、炎の娘。月の女神も、光の司も、そなたの眼差しにはかなうまい。』

 優しい問いかけでした。
 古い魔法の言葉には、男に宛てる言葉、女に宛てる言葉のふたつがあり、男に女宛ての言葉を使うこと、女に男宛ての言葉を使うことはとんでもない侮辱にあたります。今まで竜の説得にあたった魔法使いたちは、まさかこの竜の基が女であるとは夢にも思っておりませんでしたから、みんな揃って男宛ての言葉を使っていたのです。竜が怒るのも無理のない話でした。

『こわい』

 竜が、ぽつんと言いました。
 とても若い声が、心に直接聞こえます。
 鈴を転がしたように高く澄んでいて、やはり、女の子の声でした。
 となれば、説得の仕方も変わります。
 ウルバノは優しく声をかけ続けました。

『そうか、怖いのだね。それはつらいだろう。』

『こわい、こわい。いやだ、いやなの。いたいよう、いたい。』

『そうか、そうか。なに、案ずることはない。このウルバノ・アルバラが、治してあげよう。私の胸にある、秘密の言葉は見えているね。この言葉は、私の命につながる大切な秘密だ。そなたが私を気に食わなければ、この言葉を唱えてしまうとよい。私の生き死にを、そなたに任せるよ。だから、教えておくれ、うつくしい子、炎の娘。そなたの名前は、なんと言うのだね?』

『シュリ』

 ウルバノは両腕を広げて、慎重に一歩踏み出しました。これより先は、竜の領域といって、わずかでも立ち居振る舞いをしくじれば瞬く間に命を失う不思議な空間です。命も、体も、魂も消し飛ばされて霏々と虚無を漂う一握いちあくの雪に変えられてしまう間合いですから、ユーマも固唾を飲んで見守りました。  
 あちこちで燃える炎のうちひとつが、ふっと消えました。

『シュリ、ああ、この傷が痛むのだね。かわいそうに、なんと、かわいそうに。痛かろうね。治してあげよう。さあ、シュリ、心を鎮めて。そなたの髪の色を、教えておくれ。』

『いたい、いたい。こわい、わからない。もどりたい、もどりたい。わからない。竜にされた。御師さまに、竜にされたから。こわいよう。』

『わかった。それでは、そのまま、もどりたい、と思い続けるのだよ。大丈夫。私がもとに戻してあげよう。』

 なるほど、とウルバノは思いました。 
 細かい事情はまだわかりませんが、どうやらシュリという名前のこの竜は、自分から何かを憎み、禁を破って姿を変えたわけではないようです。それならばまだ希望があります。普通、自分の意思で姿を変えた魔法使いは二度と元の姿に戻れませんが、他人に姿を変えられた者は、ウルバノくらいよく魔法を修めた魔法使いから本当の名前を呼び続けられると、運が良ければもとの姿に戻ることができます。
 シュリはまだ自分の名前も覚えておりますし『こわい』や『いやだ』、『もどりたい』と思う人間の心を持っておりますから、難しい話ではありません。

 ウルバノは根気強く、『シュリ』と呼び続けました。彼が大切に『シュリ』と口にするたび、その名を讃えるたび、燃える炎が潰えてゆきます。最後の炎がふっと解けて、焼け焦げた骸骨から瞳が失われたとき、竜の姿も失われました。

 代わりに現れたのが真っ黒な髪をした少女。
 この女の子こそが、『シュリ』でした。

 白い竜がいたことなど夢か幻のように静かな焼け野原に、風の妖精がそよそよと戻ってきたことがわかりました。そのうちに花や緑、水の妖精や精霊も戻ってきて、元の草原に戻してゆくことでしょう。
 ウルバノは気を失っているシュリに魔法使いのマントを羽織らせ、自分も身嗜みを整えました。

「西の国の凶暴な竜にとどめを刺すならば、今だぞ、ユーマ。」

 血の気を失い、真っ白な額をして浅い呼吸を繰り返す痩せた女の子でした。今はまぶたを伏せておりますが、睫毛が髪の毛と同じく真っ黒で濃く長く、綺麗な顔をしています。気がかりなのは、マントを羽織らせる前に見えた無数の鞭や火傷の痕でした。古いものも新しいものもありましたが、背中や尻、太腿の裏一面にびっしりとある鞭の痕は残酷でした。治る前に新しい傷が次々、累々と重ねられているようにも見えました。

「いいや、ウルバノ。私は僧侶だ。娘の裸は見られない。とどめを刺すこともできない。一度、我が国へ帰ろう。この娘を連れて。」


シュリ


 東の国へ向かって砂漠を渡っている夜、馬車の中でシュリが目を覚ましました。
 大きな瞳をもつ美しい娘で、天帝に指をさされてから生まれたのか、たいへん強い魔法の力を宿しているようでした。ウルバノも生まれついて強い力を持ちますが、この娘には敵わない、と思いました。
 ふらふらと体を起こして、幌の外へ出ようとするので、馬を止めます。

「ここは、どこ。」

 ウルバノの心に直接響いたものと同じ、高い声をしています。
 月を見上げる横顔がすっきりと涼しげでした。砂漠の冷たい夜風に、長い髪の毛がさらさらと揺れます。

「コール砂漠の終わりだよ。東の国が、もう見えてくる。」

 ユーマが親切に答えました。彼は本来、西の国の凶暴な竜を討ち果たさなければならない立場にありますが、この可憐な娘が竜だったとはとても信じることができず、半ば夢見心地の気持ちですらありました。

「東の国。私は、東の国を滅ぼせと言われた。お前たちは東の国の男だな。私を辱めたのか。何をした。私の体に何をした!」

 シュリが突如として激昂し、ユーマの槍をサッと奪ってウルバノの首に突き付けます。よく訓練された暗殺者よりも素早い身のこなしでした。マントがスルリと落ちて、一糸纏わぬ姿になったシュリですが、気にした様子はありません。紫色の瞳をごうごうと怒りに燃やし、黒い髪の先を妖気に膨らませた彼女の体の輪郭を、月の光が優しく透かします。僧兵のユーマは戒律に従順に生きる男性ですから、女性の裸を見ることができません。命を奪われることもやむなしと覚悟して、ぐっと目を瞑りました。
 ウルバノだけは冷静でした。

「なんとはしたない娘だろう。お前の使命などは知らん。おれは『しくじった』お前が『もどりたい』というから戻してやっただけだ。槍を下ろせ、痴れ者めが。」

「貴様、東の魔法使いだな。貴様のような男に、私が願い縋りなどするものか。」

「願い縋るよりも無様だったぞ。見ず知らずの魔法使いに、易々と自らの名前を明かし、師に姿を変えられたとまで、聞いてもいないのに吐きおったわ。情けない、なあ、愚かしきシュリよ。」

 シュリが、うっ、と息をつまらせました。
 魔法の力が強い者は自分の名前を人に教えたがらないものです。ウルバノのようによっぽど強い場合でも、滅多なことでは教えません。『ウルバノ・ダルタニア・アルバラ』という名前も、嘘ではありませんが、全て本当の名前というわけではないのです。
 それですらあまり自らは名乗りたがらないのに、シュリは簡単でした。

「お前、占い師でもないね。その愚かしさのせいか。」

 言うが早いか、ウルバノは素早く穂先を振り払ってシュリを砂に押しつけ、鞭の痕だらけの背中をギュッと踏みつけました。痛いし、苦しいのでしょう。シュリが嗚咽します。
 しかし魔法使いとは強力な呪いを使う分、とても厳しい人々で、力の序列的に下の者が上の者に歯向かうことなどは、どんな罰をもらっても仕方がないことなのです。ウルバノは評判通りの人ですから、槍を拾い、その持ち手の方でシュリの頭をパコンと一度打ちました。僧兵が持つ重たい槍です。痛くないわけがありません。
 ですがこれは相当優しい打ち方でした。
 理由は二つ。
 シュリが怪我をしていること。もう一つは、シュリが女の子でウルバノが体の大きな男であることです。

「ユーマ、おまえの槍を使ってすまない。」

「いや、かまわないが、かわいそうだ。」

 踏みつけられたまま、打たれたところを抑えてシクシク泣いているシュリは、誰がどう見てもヘトヘトに疲れていて寄るべもなく、かわいそうでした。『かわいそう』と言われてしまうとウルバノもいい気はしません。彼だって、好きで打ったわけではないのです。
 それでも確かに気の毒で、しょんぼりしている小さな背中に『おい』と声をかけました。シュリは涙をポロポロこぼしたまま振り返ります。

「何が起こったのか、聞かねば判らん。お前を東の国の俺の住まいに連れて帰るつもりだが、ここで先に選ばせてやる。ついてくるか、ここで首を刎ねられて死ぬか、どちらかだ。いずれにせよ、お前の正体が国に知れれば、ロンドの教会で見せしめに辱められて殺されよう。たどり着く道は一つだ。好きにしろ。」

「こ」

 シュリは迷いました。
 頭に血が上っていて『殺せ』と言いそうになり、また、彼女自身死んでも構わないと思っておりましたが、今日この日までずっと苦しい目に遭いながら生きておりました。得体の知れない男二人の前でただ殺されるよりも、東の国へ踏み込んで、ひと暴れしてから死んだり殺されたりした方がまだマシに思えました。

「こ? なるほど、殺されたいか。相分かった。潔い。おれは魔法使いだが、破道の者だ、剣の心得もある。いたずらには苦しませず、一度で切り落としてやろう。」

 言うなりスラリと剣を抜くものですから、シュリは慌てました。

「ころさないで」

 この『ころさないで』が自分で聞いても非常に哀れっぽく、弱々しかったため、シュリはなんだか落ち込んでしまい、次第に本当に悲しくなってきて、今までの自分の短い人生を振り返ってもいいことなど何もなかったことも辛く、気づけば大きな声でわんわん泣き喚いて命乞いをするのでした。


なぜ竜になったのか


 殺さないで、と女の子に裸で泣き喚かれては居心地が悪く、さすがのウルバノも再びマントをかけてやって、幌の中へ入れてやることにしました。ユーマは馬を操らなくてはならないので、ウルバノとシュリの二人きりになります。
 マントを強く体に巻きつけてしくしく泣いているシュリは悔しそうで、泣きたくて泣いているのでもないらしく、頻繁に涙を拭ってはおりますが、どうにも止められずに本人も困っているように見えました。
 ウルバノは沈黙に弱り、水と食物を与えてみることにしました。シュリは当然胡散臭そうな目つきをしましたが、ウルバノが『要らんなら遣らん』と下げようとすると、慌てて食べ物を引っ掴み、角へ逃げ込んでパクパクと食べました。よほど飢えていたようで、干し肉もパンも果物もぺろりと平らげ、水で流し込みます。

「鞭の痕の多い女は良い妻になると言うが、嘘のようだな。礼の一つも言えないか。さぞ無駄な鞭だったろう。」

「どうせ殺す相手に礼なんか言ってどうするんだ。」

「なるほど。どれ、吐き戻させてやろう。」

 拳をギュッと握り込んでシュリに迫ると、怯えて体を屈めますが泣きはしません。それでも眼差しは震えていて、ウルバノは呆れてしまいました。口ではパッと言い返してきますが、態度がついてこないのです。態度まで生意気であれば、ひとつ打つのでも躊躇いは生まれませんが、こう怯えられてしまってはどうしようもありませんから、頬を軽く『ぱしっ』と平手で打つにとどめました。
 それでもシュリは気持ちが弱っているせいで、ぐっと唇を噛み締めて声こそ殺しましたが、涙がぶわっと溢れます。

「お前のように気持ちの弱い者が、自分から東の国を滅ぼそうと思ったとは考えられん。師に姿を変えられたと言うが、一体何があった。話せ。話せば、打たずに許してやるぞ。」

 シュリは迷って、なかなか話し出そうとしません。

「話したことが御師さま・・・・にばれたら、鉄の杖で百叩きにされる。」

「お前の周りには、焼ける骨しか見当たらなんだ。おれとユーマの他に生ける者もなかった。骨を見るに、魔法使いがほとんどだ。お前を助けに現れる者なかったし、今もいない。その御師さま・・・・というのも、お前が殺したのだろう。」

「御師さまが私なんかに殺されるものか。」

「話さないのかね。」

 よほど師匠が怖いのでしょう。シュリはムッと黙り込みます。ウルバノが懐から魔法使いの杖を取り出して、百でも千でも顔を打とうと脅しをかけ、実際に頬をぴしりと打っても言いません。
 ウルバノは仕方なく、シュリの細い手首を掴んで体を自分の膝の上に乗せ、食べたばかりの腹を圧迫し、丸いお尻をビシッと杖できつく打ちました。シュリは苦しさにと痛みに喘いで泣き始め、ウルバノの掌に涙の粒がたくさん落ちました。

「話す。やめて。おなかがくるしい。やめて、やめて。」

「最初から素直に言えば良い。白状するのだね。」

 膝から下ろしてやるとシュリはすっかりくたびれた様子で頷き、諦めた様子で話し始めました。

 曰く、シュリの言う御師さま・・・・は父親とのことで、シュリの他に息子が八人もありました。その八人の兄は皆それなりの魔法使いとなって、仲の悪い東の国との再びの戦争を起こして勝利を収めるため、国家の戦士として訓練を積んでおりました。シュリは最も強い力を持って生まれましたが女の体のため、ことあるごとに役立たずやら、男にさえ生まれていればと言われ続けました。父からも母からも兄たちからも冷たく当たられ、謂れのない罪で毎日鞭をもらい、それでも注目してほしくて、必要としてほしくて、必死に魔法の力を練りました。

 先日の東の国との小競り合いで、八人の兄が皆死にました。
 弱った父親は、自分が竜になることも考えましたが、ひとり生き残った役立たずの娘を先に使ってから、禁を破ろうとしたようです。シュリはようやく両親から期待を受けたことを喜びましたが、与えられた使命は人間の姿を捨てて竜になり、決死の肚で東の国へ乗り込むことでした。

 シュリは上辺でこそ堂々と受け入れましたが、心の本当のところでは嫌でした。
 自分の努力は全く関係なく、生まれ持った力だけを見られ、女に生まれたばっかりにこんな扱いを受けることに対して、辛く思いました。
 竜に変身させられたあとのことはシュリもよく覚えていませんが、逃げ惑う男たちの悲鳴や踏みしめた死体の感触は生々しく残っています。それで気がつけば、目の前にウルバノとユーマがいたのでした。

 話し終えたシュリはぐったりと力を失い、そのまま横になって目を閉じてしまいます。ウルバノは特に叱りもせず、荷物の中から毛布を取り出して、シュリの小さな体にかけてやりました。彼は厳しい人ですが、心の優しい人でもあるのです。

 シュリは薄い目蓋を伏せたまま一筋涙を流し、頬を掻くふりをしてそれを拭います。東と西の国境を、馬車は早足で越えてゆきました。


東の国にて


 西の国の凶暴な竜のことは取り逃したと伝えよう、とユーマが苦い顔で言いました。彼は気持ちのまっすぐな青年で、また神に仕える敬虔な人間でしたから、嘘をつくことが辛いのです。
 しかしながら、同じくらい、弱いものを憐れむ気持ちを持ち合わせている人でもありました。無理やり姿を変えられ、苦しみもがいた末に『西の国の者を』殺したシュリを教会に引き立てていって裁判にかけることは出来ません。 
 もしも『東の国の者を』殺していれば、どんな事情があれ、教会まで連れてゆかなくてはいけませんが、シュリはその点において無実です。

 道中、ことのあらましはウルバノから聞いており、とりあえず傷が落ち着くまで彼のもとにおくのが良いのではないかと提案したのはユーマでした。
 ウルバノはこれ以上の厄介ごとは御免だったものの、確かにほったらかしにしておいて、万が一東の国の真ん中で本当に自分から竜になられても困ります。そしてもし本当にそういった事態になった場合、どうせ通訳や戦いで自分が呼ばれるのです。同じことならば、と彼は仕方なく受け入れることにしました。

 付け加えれば、シュリはウルバノよりも強い力を持って生まれた女の子のようですが、ウルバノよりは魔法のなんたるかを修めていないことがよく分かっていたというのもあります。もっとも、彼よりもく魔法を修めた者は、片手で足りるほどしかこの世に生きてはおりませんが。

 夜道をさらに影から影へ渡って帰るユーマを見送り、ウルバノは自分の住まいの扉の取手をつかんで、振り返りました。シュリが庭の真ん中あたりでぽつんと立っています。ウルバノの住まいには庭と畑がありました。育てているのは薬草ですが、妖精が果実の種子を勝手に埋めたりすることもあるために果樹が育って、甘い香りがしっとりした夜の空気に満ちていました。ちょうど、収穫の時期でした。

 ウルバノは何と声をかけたものか迷い、試しに一つ赤く熟れた果実を獲ってシュリに持たせます。彼女は甘い匂いがする丸い実を不思議そうに見つめ、少し困った表情でウルバノを見上げました。紫色の瞳の中で、魔法の光がチカチカ燃えている様子を、ウルバノも何だか言い表しようのない気持ちで見入ってしまい、二人の間には少しの間沈黙が流れました。
 食える、とぶっきらぼうに、先に口を開いたのは年上のウルバノでした。

「食える。さっき、少し吐いたろう。吐き気に効くから、齧っておれ。」

 疲労と恐怖のせいでシュリは馬車を降りてすぐに吐いておりましたから、確かに口の中を少し爽やかにしたいという気持ちはあります。それでもこの果実は西の国に実らない種類ですから、どう食べて良いかもわかりません。

「西の国には、無いからな。これは林檎と言って、東の国の名産だ。」

 そう言いながら、ウルバノはシュリに遣った林檎を小さなナイフで切りました。果肉が月の光を反射して青白く、なおのことよく薫って、シュリはさくさくと食べました。西の国は砂と灼熱の国です。獣の革や美しい織り物の産業は盛んですが、果物はおろか、野菜もほとんど獲れません。それにシュリは特に女の子を差別する家庭に生まれましたから、食事の順番も下女と同じで、父や兄たちの食べ残しの汁物を黙って啜るしかありませんでした。

 りんごは甘く、すっきりしていて、シュリは泣きながら食べました。
 訳もわからぬまま祖国を出て、永代に亘る憎き敵と教わった国の魔法使いに食べ物を恵まれ、それを拒むことができない自分にも、飢えにも乾きにも、悲しい気持ちになりました。
 ウルバノは薬の調合のためにひとつ、シュリのためにふたつ林檎を獲って玄関を開け『入りなさい』と促しました。

 ウルバノの住まいは静かでした。
 天井も床も深い飴色の木材で、布の類は魔法使いが好む見事な紅色で統一されています。壁一面に魔法の本がしまわれて、台所近くの天井からはハーブや薬草、小さなとうもろこしなどが下がっています。よほど急いで家を出たのか、薬草を煮ていたであろう鍋がそのまま洗い場に置かれておりました。

「一人で暮らしているのか。」

「時々近くの森から妖精が来る。おれがいなければ、勝手に遊んでいるよ。」

 シュリは、ふうん、と鼻で返事をしながら、テーブルに置かれている本の陰に隠れている妖精を見つけました。ネズミの姿を借りた小さな妖精です。まさか家の主人が帰ってくるとは思っていなかったようで、逃げ損なったように見えました。

「ねえ、そこにいるよ。ネズミのフリをしているのが。逃げ遅れたんだ。」

「こいつはしょっちゅう物を齧りに来るのだ。おい、やめろ、その型は齧るんじゃない。帰った、帰った。」

 妖精がとととっ、とシュリの足元をすり抜けて、壁の隙間に消えてゆきます。奥に住んでいるのでしょう。ウルバノはあまり気にした様子もなく、テーブルの上に荷物と林檎を置いて、ソファに座りました。
 シュリは立っていました。そういうふうに育てられたせいで、男の人から『良い』と言われるまでは座ることができないと信じています。ウルバノは『良い』と言いかけ、言葉を引っ込めました。先に湯を浴びさせなくては薬を遣れません。
 引き出しからたくさんの布と大きなタオルを取り出してシュリに持たせ、湯を使えと言いました。ウルバノは数ある魔法の中でも炎の魔法が得意ですから、形の良い石の中に炎を宿し、水に沈めて、すぐに湯を沸かすことができるのです。
 シュリは何かを諦めたように黙って頷き、風呂場へ入ってゆきました。

 風呂場には薬の匂いがするお湯が沸き続ける大きな瓶がありました。そっと覗き込んでみると、底に大きな燃える石があり、周りから白く細かい泡がひっきりなしに生まれています。手を浸してみるとちょうどの温度で、シュリは安心しました。手桶が壁にかけられており、西の国では見ない形の、おそらくは石鹸もあります。触ってみると次々と豊かに泡が生まれ、あまりにモコモコするものですから、慌てて元の位置に戻しました。

 体を清めながら、シュリは暗い気持ちになります。
 このあとあの男から辱めを受けるに違いありません。もしそういうことが起こっても、敵の寝首を掻くため、父や兄、見知らぬおじたちから、シュリはいやと言うほど『訓練』を受けました。体が引き裂かれる痛み、打たれる痛み、シュリはいつでも痛い思いをさせられ、失うばかりでした。
 体を汚されるのかと思うと悲しくなりましたが、今までと違って林檎をひとつもらっていますから、一番ましなのかもしれません。お湯はあたたかいし、石鹸は良い香りがするのに、シュリの体は凍えていました。


師弟


 体に布を巻きつけて出てきたシュリの表情は暗く、ウルバノは傷が痛むのだろうと思いました。彼女の背中の上の方には深い切り傷があり、周囲の肉も熱を持って腫れていたのを見ております。熱と痛みに効く薬を棚からおろしながら、シュリに向かって、椅子に座れと命じました。
 何か生意気を言い返してくるかと待ちましたが、意外なことにシュリは素直で、木製の椅子におとなしく座って傷を見せます。細い背中、細いうなじでした。黒くたっぷりした髪の毛を胸の方にまとめて避けている様が、場違いに綺麗でした。
 とはいっても、ウルバノも大人の男ですから、怪我をしている女の子に襲い掛かろうという気持ちは全くありません。言うことを素直に聞くのであれば打たないし、大人しくしていると約束するのであれば拘束する気もありませんでした。

「この薬を塗って、三日もすれば傷は塞がる。大人しくしていると約束するなら、置いてやる。約束できないなら、柱に縛り付けてユーマに送りつけるぞ。」

 シュリは小さな声で、大人しくする、と言いました。
 ウルバノは一応のところ信じることにして、刷毛で薬を塗ってやります。結婚していない女の子の肌を直接触ることは、罰を与える時以外避けなくてはいけません。
 驚くほど大人しく、本当に素直にしているシュリのことを、ウルバノは少しも怖いと思いませんでした。もしも彼女が彼と同じほど魔法を修めていて、年もいくつか重ねていて、恐怖に打ち克つ心得をもっている女ならば、恐れたでしょう。
 でも、目の前のシュリは、どれにも当てはまらないのです。
 薬をきちんと塗って、清潔な布をあててやりながら話しかけました。

「お前は祖国に帰りたいかね。」

「戦士は、行けば帰れぬと教わった。だから帰ろうとも、帰りたいとも思わない。お前のことも、あの坊主のことも殺してやりたいが、易々とはいかないだろう。私はお前に辱めを受けて殺されるのだろうが、西の国の手練が、いつの日か必ず東の国を打ちおおせるぞ。」

「いくつか間違いがある。おれはお前を辱めない。それから、易々とはいかない、ではなく、無理だ。最後にもうひとつ。おれはお前を殺さない。」

 シュリは怒って、なぜだ、と噛みつきます。

「そうする理由がない。女が必要なら花街で買う。お前は確かに星の光の加護を受けて生まれたかもしれないが、幸か不幸か女に生まれた。魔法を学問として修めていない女に、少なくともおれは殺せない。最後のひとつだが、お前を殺すのは惜しい。あまりにも惜しい。」

「惜しいだと。」

「ああ、惜しい。いい瞳をしている。さぞ優れた星読みができるようになるだろう。おれは、力のある若い者を殺すほど愚かではない。どうだ、おれのところで、学んでみないか。いずれにせよ、弟子でも妻でも客人まろうどでもない女を家に置き続けるわけにもいかん。帰れぬ戦士は死んだ戦士だ。死んだなら、恐れるものもないだろう。」

 シュリは面食らい、黙ってしまいました。星読みとは、占い師の中でも最も優れた位の者ができる予言や予知のような、超常の技術です。この世で最も偏屈な魔法使いですら、星読みには従うと言われています。想像もしないことでした。シュリはいつだって女の子というだけで蔑まれ、バカにされ、瞳が忌々しいからと顔を黒く分厚い布できつく巻いて暮らすよう命令されていたくらいでしたから。

 ウルバノがあまりにも真っ直ぐな瞳で、シュリの魂まで透かして見ようとしてきます。これは強い魔法使いの悪い癖で、肉体という器を超えた部分を、つい覗き込んでしまうのです。肉体は嘘をつけますが、魂は本当のことしか示しませんから、シュリが黙っていても返事はばれてしまいました。

「お前の魂は答えているが、おれはお前の口から聞きたい。」

 シュリも負けじと見つめ返しました。背が高くて顔がよく見えていませんでしたが、やっとわかりました。この男は嘘をつく人間ではありません。瞳が、東の国の者にしてはずいぶん珍しい紅色をしております。西の国ではありふれた色ですが、その中でも一番美しく、情熱があり、覗き込む者の心を捉えました。

「わかった。」

 降参でした。ちっとも陰りがありません。本心からシュリに魔法を学ばせようとしています。それでもシュリは全くのいいなりになることが悔しく、心に鍵をかけ、ツンと澄まして付け加えました。

「ただ、私の体には西の国の血が流れている。隙さえあれば、お前がなんと言おうとお前を殺す。あの坊主もだ。覆して見せる。西の国から手練が攻め込んできたのなら、私はすぐにロンドへ乗り込む。いいな。それが弟子になる条件だ。」

 ウルバノが不敵に笑います。弟子としてはあまりにも無礼な口の聞き方ですが、今日のところは見逃してやろうという笑い方でした。

 くして二人の間には師弟の約束が交わされ、庭に林檎がよく薫る月夜の晩、悪王討伐から20年を孤独に過ごしたウルバノは風変わりな弟子を、生まれてこの方ずっと実の親にすら蔑まれ続けた孤独なシュリも、新たな師匠を得たのでした。


魔法使いの弟子


 三大陸にその名を轟かせるウルバノ・アルバラの一番弟子として、シュリは日々を忙しく過ごしておりました。朝起きてから夜眠るまでの間、魔法を学ぶほか、住まいの中のことや庭のこともこなすのです。

 力仕事や明らかに危険な作業はウルバノが全て担いましたが、繕い物や料理、薬草の世話はもっぱらシュリの仕事でした。というのも、料理はともかく、魔法使いのローブの繕い物や薬草の世話は、魔法の力が強い者が担う方が効率が良いのです。シュリが繕ったり織ったりした布は、より丈夫になって雷も水もそう易々とは通しませんし、薬草は緑を濃く鮮やかにして大きく育ちます。ウルバノが育てても十分よく育ちますが、シュリがこまめに水をやったり土を混ぜたりして育てた薬草の方が遥かに優れた効果を示しました。

 シュリは繕い物も庭仕事も嫌がりませんでした。
 そこはウルバノも意外なところで、むしろ自分から望んで『やる』と言ったのです。条件付きの弟子となってから既に三年、季節は規則正しく巡り、彼女は一生懸命作物を育て、遅くまで機織きしょくに励み、正しく覚えた光の魔法を使ってたくさんの本を読みました。東の国の言葉で書かれた本の中に、西の国の言葉で書かれたものもありましたから、照らし合わせたり、辞書を引いたり、シュリは努力家でした。そして彼女はいつしか、ウルバノも驚くほどの早さで、一番難しいとされる『守りの魔法』を使えるようになったのです。

 才能ある者の中でも、一番か二番かに早く正確に覚えられたのは、一重にシュリの惜しみない努力にありました。才能を持って生まれることよりも、努力を続けることの方がよっぽど難しいのです。

 しかしながら同時に、学べば学ぶほど、シュリの力は研ぎ澄まされ、危険なものにもなりました。
 そのことは彼女自身よく理解し、気をつけようとつとめて意識するのですが、有り余る魔法の力が時折体から弾けるように出て行って、庭の植物の命の周期を撹乱させて獲っても獲っても際限なく林檎や薬草が育ち続けたり、妖精たちを混乱させて家の中で暴風を起こしたり、森の精霊が道に迷って住まいの天井に巨体で座り込んできたりと散々でした。

 そのたびにウルバノは『いい加減にせんか!』と怒って後片付けに奔走するのですが、シュリを鞭で打ったり逆さに吊って殴ったりは絶対にしません。彼は自分の弟子の力が桁外れに強いことを知っていましたし、嫌がらせでわざとやったのではないと分かっているからです。
 もっとも、若い人へ向けて書いた魔法の教科書用の原稿が燃え尽きたり、水浸しになったりすることには落ち込んでいましたが。

 魔法の言葉で書いた原稿から、シュリの力にあてられた文字がむくりと起き上がり、テーブルの上で妖精と一緒に踊っている姿を見た彼の落胆ぶりと言ったらありません。こうなってしまったら最後、どんなに頼んでも文字は原稿用紙へ戻らず、目を回した妖精と一緒になって千鳥足でルンルンと、森の奥深くへ姿を消してゆきました。
 そしてその一連の様子を見ていたシュリは散々『殺してやる』だの『仲良くなりたいわけじゃない』だの言っていたことを引っ込めて、『ごめんなさい』としょんぼりして謝るものですから、怒ることでもありませんが、ウルバノも怒るに怒れずため息をつくばかりなのでした。

 そんなシュリの様子が一変したのはつい最近、秋の終わりのことでした。
 ほんのちょっとの隙を見て、本当にウルバノに向かって鋭い刃を突きつけたり、毒の魔法をかけようとしたり、おてんばとするには度を超した行いを繰り返すようになったのです。
 一生懸命務めていた機織もいい加減になり、畑に出ても林檎の木の下で座り込むばかり。ネズミの姿をした妖精や、満月の夜にだけ現れる一つ目の巨大な精霊とは親しんでいるようですが、ウルバノの言うことはさっぱり聞きません。
 ウルバノは師匠として三度目まで見逃しました。
 然し四度目、刃を翻して襲ってきたシュリの細い手首を掴みます。四度目からは厳しく罰を与えなくてはいけません。これでも彼はかなり忍耐強かった方で、普通なら二度目から食事を抜いたり、一晩中外に吊るしたり、山の奥に捨て置いたりするところです。

「いたい、いたい!」

 シュリが泣き喚きました。彼女には36回の鞭が与えられました。内訳は、お尻に24回、太腿の裏に12回、いずれもスカートをまくり、細くよくしなる・・・竹の鞭で叩きましたから、くっきりとミミズ腫れになっています。

「シュリ、姿勢を崩すな。今日お前の分の食事はない。日が沈むまでそこで立っておれ。」

「いやだ!」

 シュリは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらカンカンに怒っていました。そうなると頭に血が上って、行いにははずみ・・・がついてしまいます。怒りに任せて彼女の力がパッと弾け、暖炉の炎が激しく勢いづき、部屋の中が一段も二段も明るく暑くなりました。ウルバノも炎の魔法においては随一の腕前ですから、この程度の炎では怯みません。弱めなくては、と思った時、テーブルの上の書類が一段と激しく燃えました。やっとのことで書き直した教科書の原稿です。その原稿だけが囂々ごうごうと燃えましたから、シュリの意図がなくてはできません。つまりわざと狙って原稿を燃やしたのです。

「出ていけ。」

 ウルバノは低い声で唸るように言いました。
 シュリは胸の前に手を持ってきていて、自分のしたことに気づき、おろおろしながらもまだ紫色の瞳は怒っています。

「出ていけ!」

 怒鳴られて、シュリは転がるように玄関から飛び出し、深く静かな涼しい森の中へ逃げ込んでゆきました。
 家には穏やかさを取り戻した暖炉と、原稿の燃え残り、やってしまった、と頭を抱えるウルバノが残りました。


シュリの気持ち


 月の光がよく降って、森は蒼然とし、静かでした。
 シュリが下草や小枝を踏む音がはっきりと聞こえ、その割りには茂みの深い影にすっと吸い込まれて轟かず、彼女は自分がこの世で一人になってしまったような不安を抱えながら、それでも必死に走りました。

 鞭をもらったお尻と太ももが布と擦れて痛みますが、悔しい気持ちに比べればなんと言うことはありません。それに、ウルバノからもらった鞭は、今まで彼女が受けてきた鞭に比べると驚くほど数が少なかったし、驚くほど加減されていましたから、こうして走ることなんかは、全く平気でした。
 ただ、心がどうしても痛み、息が上がり、涙も止まらず、シュリはついに立ち止まって『えーん』と顔を覆って泣きました。

 もうどこから走ってきたのかもわかりません。
 星を見れば容易いことですが、夢中になって走り込んだ森は、ウルバノが管理する『迷いの森』です。彼が置いた目印を見失えば、あっというまに迷ってしまう不思議な森でした。ユーマもこの森を抜けてウルバノに会いにきますが、彼は全く魔法を使えませんから、さらによくよく注意して通っています。本当は、シュリの魔法の力を正しく使えば帰れないことはないのですが、その正しい使い方も、まだ学んでいる途中でした。

 いくら妖精や精霊と親しんでも、この森は人間の世界ではありません。
 普段は友好的でも、森の中では途端に態度を変える精霊もいますし、死してなお森に迷い込んだ寂しがりの幽霊や、迷い続けるうちに幾重にも呪いを纏ってしまった大変な悪霊もいます。
 その木陰に、茂みに、真後ろに、いるかもしれません。
 シュリの命を貪って、同じく彷徨える魂にしてやろうと寄ってきた悪霊が。
 くるぶしにひんやりと、冷たい空気がまとわりつきます。
 背中にひやりと怖気おぞけが走ります。

 立ち止まっている場合ではありません。
 せめて一粒でも星が見える場所に出なくては、いつ頭からバリバリと食われたり、口の中からするりと入り込まれて体を奪われるかわかりません。心配しなくてはいけないのは後者の方です。シュリは力が強いので、その体を奪った悪霊がより強い存在になって、好き放題魔法を使いかねません。良い方ならまだしも、悪い方に使うでしょう。それこそ、竜に変身するかもしれません。大陸を統べようとした結果、国も民も自分の命の形も全て失ったかつての悪王は、地獄の一番深いところへ落ちて今も悪魔に魂を引き裂かれ続けていると聞きます。シュリもそうなるかもしれません。

 暗い暗い、深い闇の底で一人。

 ハッと息を飲んで振り返ると、悪霊がいました。
 向こうが見えない真っ黒なもや・・に、人間の目玉が二つ浮かんで、じっと黙ってシュリを見つめています。見つめながら近づいてくるのです。少しずつ少しずつ、迫ってくる二つの眼球。
 シュリは悲鳴をあげて逃げ出しました。
 それからどんなに背筋に『何か』が触れても、決して振り返りませんでした。
 振り返れば、悪霊と目が合います。 
 なんであれ、悪と目を合わせてはいけないのです。

 夢中になって走っているうちに、ぽっかりと開けた場所に出ました。
 しんと冷える森の泉です。
 爪先を浸して初めてそこに水があるのだと分かるほどに澄んだ水が、砂の底からこんこんと湧き出てくる不思議な泉には、生き物がいません。水が綺麗すぎて、生き物が住めないのです。生き物が住めなければ、妖精も精霊も寄り付きません。
 泉の真ん中には真っ白な枯れ木が何かの生き物の骨のように横たわっていて、風も吹かなければ、砂地には草の一本も生えないのです。シュリは胸を抑えて泉のほとりに座り込みました。月の光が燦々と、白い砂地の上に、彼女の影を青く色付けていました。

 恐る恐る振り返ります。
 もう誰も追いかけてきてはいませんでした。

 泉を縁取る砂地を避けて、背の高い草が生い茂っています。
 そこにはさらさらと風が吹いて草と草が擦れ合うささやかな音も響くのに、シュリが今休んでいる場所は不思議でした。

 この泉のことはウルバノから聞いていました。
 月光の力を宿した水が湧き出る泉があって、深い傷を癒す薬を作るときに用いるのだと教わっています。つまりは飲める水です。シュリは一口分だけ掌に掬って飲みました。
 罰をもらった場所も、焼けつくような喉も息が跳ねて苦しい肺も、すーっと熱が自ら逃げていくように落ち着き、痛くも苦しくもありません。それに、恐怖や怒りにささくれ立っていた心も平坦になってゆくのがわかりました。

(悪いことをしてしまった。)

 落ち着けば落ち着くほど、自分の行いがどんなにウルバノをがっかりさせたかも分かります。根気強く、やっとのことで書き直した何度目かの原稿を、今度ばかりは、シュリもわざと焼いたのです。
 鞭が痛かったからではありません。
 彼に刃が届かなかったことが悔しいからではありません。

 シュリは悲しかったのです。

 弟子になってから、シュリも一生懸命努めました。気に入られようと思ったわけではありません。学びたかったのです。今まで『女なんか』と蔑まれ続け、読書は基本的に聖典以外許されませんでしたし、自ら学ぼうとすれば、身の程知らずという罰で一晩中鞭打たれました。シュリの背中にはその時の傷跡がくっきりと残っています。強く打たれすぎて皮膚が破けてしまったのです。治療もしてもらえませんでしたから、痕になって、二度と消えません。

 一度傷ついた体は傷つけやすかったのか、父や兄たちは焼けた棒や煙草を押し付けて、シュリの体をぼろぼろにしては凌辱しました。いつからか、シュリはそれらに対して泣きも喚きもしなくなり、心の一部がくしゃくしゃに竦んだまま、体は大人になっていきました。

 そんな中で、思いがけず『学んでいい』と言われたのです。
 学ぶ時間を少しでも多く取りたくて、繕い物や庭仕事、料理や洗濯なども頑張りました。
 街への買い物も連れていってくれました。
 あちらこちらと興味津々で、きょろきょろ、うろうろするシュリを、ウルバノはたったの一回だって怒ったことはありません。古代の本や、人魚の血でできた貴重なインク、精霊の骨が閉じ込められた珍しい石に、魔法使いのローブとして仕立てるために要する絢爛な布、調合に使う薬草の束や、琥珀色に光るお酒……『ウルバノ、これはなに? あれはなに?』と数え切れないほど尋ねました。菓子なんかも買って与えてくれました。シュリは菓子を食べたことがありませんでしたから、おそるおそる口に運び、一口で気に入りました。
 でも、実のところ、これはシュリの大切な秘密なのですが、いちばんのお気に入りは、ウルバノがくれたあの晩の林檎のまま変わりませんでした。

 ウルバノはシュリが菓子に喜ぶ様子を見てから、しばしば紙幣を持たせて一人でおつかいへ行かせるようになりました。おつりを渡そうとしても、気になったものを買え、試したいことを試せ、と絶対に受け取りません。それなので、シュリは東の国の言葉の辞書の購入や、見たことのない食べ物代に充てました。暗くなる前に帰れば、ウルバノは何も言いません。暗くなってから帰ると、よからぬ奴もいるのだから、とたっぷりお説教をされました。『よからぬ奴』というならば、ウルバノやユーマを『殺してやる』とのたまうシュリだってそうなのですが、どうにもこの頃ウルバノの頭からは、その点がすっかり抜け落ちているようでした。

 実を言えばシュリもそうなのです。東の国は豊かで、たくさんの人間や物の行き交いがあり、西の国と違った植生を見たり触れたり食べたりすることも楽しいと感じていたのです。

 そしてなにより、悪王討伐の際のウルバノの活躍を、人々が今も語っていることを不思議と誇らしく感じました。その人、私のお師匠様なの、とは口が裂けても言いませんでしたが、胸が温もりで満ちるような気持ちになるのです。

 シュリにとって、ウルバノも、時々遊びに来るユーマも、あまりにも穏やかな男たちでした。二人とも、シュリを痛めつけたり力尽くで言うことを聞かせようとはせず、間違ったことをすれば丁寧に言葉で正し、魔法の飲み込みが早いこと、庭仕事に優れていること、努力して学ぶことを手放しに褒めました。

 ですから、ウルバノやユーマを『殺す』ことなど二の次になっていました。
 自分は強くなろうと思えば、どこまででも強くなれる気がしました。そしてそれらが外れていないことも、学んでいく途中で分かりました。
 力の使い方、魔法のなんたるか、禁じられているものがなぜ禁じられているのか、ウルバノは真摯に教えてくれました。知識を得たシュリが、彼自身を本当に殺すかもしれないというのに、きちんと教えてくれたのです。
 彼は何度でも言いました。

『まことの価値とは、肉体ではなく、まことの命に賦されるものだ。 』

 そんな日々を積み重ねるうちに、シュリはいつしか、ウルバノのことを『殺したくない』と思うようになりました。それどころか『もっと褒められたい』や『役に立ちたい』とすら思いつつありました。竜になった自分の変身を解く技術がいかに困難なものか分かるようになってから、彼がどれだけ優れた魔法使いなのかも理解しました。

 然しこれらは秘めたる想いにしなくてはいけません。
 公には死んだことになっているシュリですが、いくら師といえど、ウルバノは敵国の男なのですから、ほだされてはいけないと思ったのです。
 でも、褒められるたび、街は楽しかったかと笑い掛けられるたびに気持ちはかしぎました。

 ところが、ウルバノがある日言ったのです。
 西の国の魔法使いたちが次々と禁を破って条約違反の魔法を使い、勢いを盛り返し、一時的に東の国が劣勢になった頃でした。

『お前、何を企んでいる?』

 寝込みを襲うこともなく、毒を盛ることもなく、懸命に学ぶシュリが不思議だったのでしょう。何かを企てていて、油断させて、自分やユーマを襲う気なのではと疑ってきたのです。

 シュリは、自分の心に、まだバラバラになりそうなくらい悲しめる機能があることに驚き、また、傷つきました。
 必死にこなしていることを、悪事の企ての一部と取られることが、こんなに辛いとは。 
 役に立ちたいと思った気持ちを疑われることが、こんなに悲しいとは。

 だからちょっと、困らせてやりたかったのです。
 でも原稿まで焼くつもりがなかったのは、誓って本当のことなのです。
 どういうふうに謝れば許してもらえるのか、考えているうちにまた辛くなってきてしまいました。許してもらえるとは思えませんが、シュリだって、疑われたことが悲しいまま過ごしてきたのです。『でも、だって』と、苦しみは石化の魔法のように広がって、心を凝らせてしまうような気がしました。

 途方に暮れて物思いにふけっていると、遠くの方から『シュリ!』と人の声が聞こえました。低い、男の声です。名前の持ち主を探している『シュリ!』でした。

「シュリ! シュリや、どこだ、返事をしなさい! シュリ! シュリや!」

 夜の、この森の、こんなに深くまで踏み込める人間はそうそうおりません。ウルバノ・アルバラその人の声です。
 シュリは応えるかどうか迷いました。
 どんな顔をしていれば良いのかも分かりませんでした。

 でも、胸の奥がじわっとあたたかくなり、喉に熱い空気が詰まって、涙が勢いよく溢れ出て、気づけばシュリは自分でも驚くくらい大きな声で、

「ウルバノ!」

 と叫んでおりました。



想いを告げる


 腰に剣と魔法の杖を提げたウルバノの姿を見つけた途端、シュリは少しも辛抱がきかずにわあわあと泣きました。安心して腰が抜けてしまい、立ち上がることもできません。
 ウルバノは困った顔で足早に歩み寄ってきて、シュリの体のどこにも怪我がないか、悪霊に口づけをされていないかを調べると、長いため息をひとつ吐いて、『無事でよかった』とぶっきらぼうに言いました。

「ウルバノ、ばか、ウルバノのばか、私、……私は、なんにも、企んでなんかない! なんにも……」

 シュリはへたり込んだまま、自分がなぜ怒ったのか、悲しかったのかを必死に伝えました。途中で何度もつっかえましたし、涙が溢れて全く止まらずに話しにくいし、黙って主張を聞いてくれるウルバノが怒っているのか怒っていないのか判別もつけられず、それでもどうにか頑張って『原稿を焼いてごめんなさい』まで辿り着きました。
 もうそこにはギラギラと燃える瞳を持って『殺してやる』と意気込んでいた女の子はおらず、好きな相手が、信頼する相手が、どういう気持ちで話を聞いているのかを気にする年頃の娘がいるばかりでした。
 ウルバノはシュリが落ち着くまで黙って待ち、ひくひくと肩を揺らすだけになった頃、口を開きました。

「シュリ……おまえが一体どういうつもりで過ごしていたのかは、よく分かったよ。心無いことを言って、すまなかった、シュリ。原稿は、また書けばいい。おまえの気持ちも、よく分かった。疑るべきことではなかった。おまえが一生懸命にやっていることは、分かっているんだよ。怒鳴って、すまなかった。怒鳴らなくても、話せば分かることを、怒鳴ってしまった。この通りだ。おれはおまえに、許してもらえるだろうか。」

 真摯に言って、シュリの頬に流れる涙を拭います。長く、骨張って少し乾燥した熱い指でした。ウルバノは年齢の割に、価値観自体は師匠の影響でやや古めかしい、昔ながらの魔法使いですから、普段は娼婦でない、嫁いでいない女の体に触れることを恐れます。しかし、今日ばかりは違いました。彼もまた、シュリを探しながら、どうして聞き分けの良い弟子が突然態度を変えたのか、色々と思い返して、自分の失言に気づいたのです。
 それで、その日からずっとシュリが傷つき続けていたことを思うといてもたってもいられず、すぐに家を飛び出し、彼女の強い魔力の気配を追ってずんずんと迷いの森をかき分けておりました。彼には、亡霊も悪霊も近寄りません。鬼気迫る彼の方が、よっぽど恐ろしいからです。
 早く見つけて謝らなくては。許してもらえるだろうか。ウルバノもまた不器用ですから、道中大変不安な思いを抱えておりました。

「シュリ、答えておくれ。」

 シュリも男に体を触られることを嫌いますが、相手がウルバノであれば、嫌ではありませんでした。むしろ、指だけではなく、掌のゴツゴツした感じや、逞しい首や、力強い肩に触れてみたいと思いました。
 いいよ、許してあげる、と頷くと、ウルバノはニコッと笑ってくれました。

 甘えて『おんぶして』と言ってみても良かったかもしれません。
 ウルバノはきっとしてくれたでしょうが、シュリは意地っ張りでしたから、自分で涙の残りを拭って立ち上がり、自分の足で歩いて帰りました。
 ウルバノの案内があると、出口まではほんの十分も歩きません。曰く、迷いの森は、迷う者をより迷わせ、迷わぬ者は迷わせないのだそうです。シュリの心の迷いがそのまま迷いの森を深くしたのです。確かに言われてみれば、帰り道は明瞭に開けているように感じましたし、悪霊や幽霊の気配も感じませんでした。

 あっという間に森を抜け、住まいから漏れる暖かい明かりが見えました。林檎の木がほのかに照らされていて、いつもの様子にほっと安心します。シュリにとってはもうウルバノの住まいこそが『帰る場所』になっていたのです。
 風呂場の窓から湯気ものぼっており、彼がお湯を沸かしていてくれたのかと思うと申し訳ないような、くすぐったいような、そんな気持ちにもなりました。もちろん意地をはって、ツンと澄ました顔は崩しませんでしたが。

「腹が減ったろう。おまえの分も、きちんとあるから、暖炉の前で食え。風呂に入って、今日はもうよく眠るんだ。明日から、気兼ねなくまた学べばいい。」

 食事は無しと言われていましたが、しっかり残されており、シュリが愛する林檎もありました。一等照りと香りの良いそれは、今日収穫して食べるのをずっと楽しみにしていた林檎でした。ウルバノはぶっきらぼうにみえますが、事実よくよくシュリの様子を見ているのです。
 シュリは本当に食べていいのか少し迷いましたが、あまりモジモジしていてもウルバノを困らせるだけですから黙って食べました。温め直してくれたのでしょう。スープもパンも、デザートの林檎も空っぽのお腹によく沁みます。食べている間にまた涙が出てきました。
 シュリは本当は、泣き虫なのかもしれません。

 食事を済ませて食器を流しに下げると、ちょうど湯浴びを終えたウルバノが出てきました。彼は薬草をしょっちゅう練っていますから、お香のような軽やかな草のような良い香りがします。その香りが温められて、シュリの胸とお腹の奥の方をずきんと刺しました。顔がカーッと熱くなり、熱が出た時のように耳まで火照ります。ウルバノは怪訝な顔をして『夜道をふらふらするからだ』とお小言をかまし、暖炉の前のソファに座って伸びをしました。彼のいつもの癖でした。

 シュリは念入りに体を洗いました。
 体の肝心なところに不具合や汚れはないか気にして、なぜかひどく緊張します。別に、ウルバノはいつも通りなのです。シュリだってこの後、自分の部屋の自分のベッドに入って眠るばかりのはずですが、ドキドキして仕方がありません。こんなことは初めてでした。
 体が、皮膚がそわそわして、ちょっとの刺激にも鋭敏です。お湯を浴びても、毒消し草を噛んで口を清めても、わずかに触れたウルバノの指の熱い感じが頬から離れません。シュリは『もっと触れて欲しいな』と思いました。
 あの堅物にどう言い出せば良いのか、見当もつきませんでしたが。

 居間に戻ると、ウルバノがテーブルの上で何やら細かいことをしています。
 いつもネズミの姿を借りた妖精にかじられたりいたずらをされる型があるのですが、この型というのは、魔法の力を込めた装飾品を作るために用いる特別な代物です。湯上りのシュリに気がついて、ウルバノがふと顔を上げました。

「シュリよ、ちょっと来い。」

「お説教なら聞きたくない。」

 ウルバノがニヤッと笑いました。どうやら、違うようです。

「おまえの力を借りたい。ここに座ってくれ。」

 シュリは肩を竦め、一杯の水を飲み干してからウルバノの隣に座りました。心臓がドキドキと早鐘のように鳴り、瞳が勝手に潤む感覚があってシュリは困惑しましたが、いつものようにツンと澄まして、なるべく無表情を貫きます。
 ウルバノが弟子の前に並べたのは、小指の先ほどの小さな石ころでした。よく目を凝らすと、守りの魔法の文言が彫られています。とても小さな文字ですから、ネズミの姿を借りた妖精に彫らせたのでしょう。他に、風や水の妖精の印鑑もされています。

「これは、守りの石だ。ユーマたち僧兵に遣りたい。おれが力を込めても良いのだが、おまえが力を込めた方が、効果がある。おまえの石の方が強いなら、おまえに作ってもらいたい。」

「ねえ、ユーマは、西の国を、滅ぼすつもりの戦いに出るの?」

 ウルバノの赤い瞳が暖炉の瞳を反射してか、それとも彼の心を映してか、きらりと光りました。シュリは同じような瞳で見つめ返しました。

「そうだ。」

 シュリは言葉では返事をせずに頷きます。
 この三年で、西の国がいよいよ追い詰められていることはシュリも知っていました。街や人間が好きな妖精が、畑仕事をしているシュリに教えてくれるのです。ほとんどの妖精には悪意も善意もありませんから、シュリが西の国の民であろうが、東の国の民であろうが、海の民だろうが山の民だろうが、関係がありません。

 西の国は、離れてみると異様に不穏な国でした。
 軽々しく禁を破り、姿を変える者が大勢います。中には、シュリのように無理やり姿を変えられた子どもや女たちもいるようでした。姿を変えられた女子どもは、シュリのように魔法の力が強いわけでもなく、魔法を学んだわけでもなく、ただ混乱して暴れ回って狂い、突然倒れて死ぬのだと言います。
 術をかける者も未熟なのか、完全な竜にはならず、顔だけは人間だったり、逆に体は人間で、首から上だけが竜になっていたり、残酷な行いが毎日起こっておりました。

 ウルバノも三年の間に五度ごたび六度ろくたびも戦場へ赴いて、決まって、とても暗い表情で帰って来るのです。
 やりきれないことをしなくてはならないのでしょう。
 酒の量も多くなり、シュリが話しかけてもしばしば上の空だったり、白髪が増えてしまったり、傍目に見ても気の毒でした。

 そんな中、シュリは彼にお守りを持たせました。
 ネズミの妖精と、林檎の木を植えた妖精が、川辺からまるまるした小さな石を運んできてシュリにくれたのです。石というのは水晶で、長い間川の流れに洗われたおかげで滑らかで、生き物の住めないほど澄みすぎたあの泉の水を固めたように透けていました。
 魔法の力を封じ込めるのには、これ以上ないくらいぴったりな石です。

 シュリは別に、ウルバノを恋しく思っていたからお守りを作ったわけではありません。もしも彼に死なれてしまったらどうしよう、と心細く思いはしましたが、断じて恋しいからではない、と自分に言い聞かせて、一生懸命練習した守りの魔法を封じ込めました。
 水晶は美しい緑色になって、夜でも、朝でも、変わりなくピカピカと輝き、持っていると心が安らぐ守りの石になりました。持つ者が魔法使いであってもなくても、心に丈夫な守りのヴェールが為され、迷いや悪夢を跳ね返してくれる上等な守りの石です。

 ユーマと勇者アダン、僧兵たちと戦場で合流すると言って出立の支度をするウルバノの背中に『これ、あげる。』と声をかけた早朝をシュリはよく覚えています。霜が畑の土をぐいと持ち上げる寒い朝でした。
 前の日の晩、ネズミの妖精が『やあシュリ、石は、やっぱりウルバノの旦那に遣らないのかい』とチューチューうるさいので、あげることにしたのです。

 ウルバノはきょとんとして、小さな石を受け取り、じっとシュリを見ました。
 シュリの方はなんと声をかけて良いのかわからずに、爪先で床の木目をぐりぐり踏んで黙っていました。
 師は言いました。

『シュリ、ありがとう。』

 シュリはその時のことを、一生忘れないだろうなと思います。
 今もまた、小さな石ころたちに力を込めながら、その時の、涙が溢れるような気持ちが思い起こされるのです。どうかこの石を持つ者が、心の闇にも世の鬼にも惑わされず、命の形を失わず、誰にも姿を奪われず、帰るべき場所に帰れるように、願いを込めて石に息を吹き込めます。

 守りの石がちかちか、ぴかぴか、テーブルの上は宝石箱をひっくり返したように彩られました。いくら魔法の力を吹き込んでもシュリはけろりとしているから、やはり彼女は天から選ばれた子に違いないのです。

「私は、西の国で生まれたけれど、もう故国だとは思わない。」

「シュリ」

 涙が止めどなく溢れてきます。
 シュリはウルバノに、本当は、戦場に行って欲しくなかったのです。

 街の人々は『戦う男』を尊びました。出立する男たちを見送る女たちは、人前では泣いてはならないことが暗黙の了解になっていて、シュリはその光景をみてゾッとしました。愛する夫、愛する息子、兄や弟、恋人たち、今生の別れになるかもしれない最後の挨拶すら、自由を謳う東の国で、自由にさせてもらえないのか、と。
 そして、見送る側が皆女だということにも、ゾッとしました。普段あれだけ女の権利に前向きな東の国も、結局のところ、こうなのかと失望もしました。

 だからシュリは、街には降りず、いつも家から見送ることにしていました。
 静かで、二人とも特に言葉を交わせない、悲しい沈黙でした。見送った後の悲しさも嫌で、どんなにネズミの妖精や花の妖精が構いつけてくれても、彼ら妖精には体温がありませんから、シュリのひとりぼっちは際立ちました。

 嫌だな、と思って見送る気持ちにも驚きましたが、望まぬ竜の姿から元に戻してくれた、林檎を恵んでくれた、傷薬を塗ってくれた、いくらでも学ばせてくれて、見捨てずに家に置いてくれた師匠のことを、シュリは、本当は、絶対に失いたくなかったのです。

「ウルバノ、私、私……」

 行って欲しくなかった時の悲しい気持ちが、迷いの森をまっすぐ抜けていく広い背中がどんどん見えなくなっていく時の寂しい気持ちが、戦火が激しく東の国の魔法使いが何人かやられたと報せを受けた日の晩に一睡もできなかった時の苦しい気持ちが、よみがえりました。

「私はあなたのもとへ帰りたい。あなたと一緒に生きていきたい。師弟でいられなくても構わない。ウルバノ・アルバラ、あなたと一緒に、いつまでも。」

 ウルバノの腕が、シュリの細い肩を抱きました。 
 彼の厚い胸板に抱かれて、その首から提げられた飾りが、シュリがいつか渡した守りの石であることに気づきます。
 ウルバノは肌身離さず、大切に持っていてくれたのです。

「おれもだよ、シュリ。おれの名を、おまえに遣りたい。受け取ってくれるか。」

 シュリは深く頷きました。

「私のこの守りの石で、西の国の女や子どもたちを、悪から守ってくれるなら。」



ふたり


 二人はウルバノの寝室にいました。 
 シュリは抱きしめられた時、我慢ができなくてキスをねだったのです。ウルバノは少し迷った様子でしたが、ちゅ、と小さな音が鳴る程度のキスを返してくれました。触れ合った唇が、より深く重ねられるようになるまで時間はかかりませんでした。
 もう師弟には戻れません。
 ウルバノも、シュリも、それを分かって抱きしめあい、大切な者に贈るキスを、シュリは辿々たどたどしく、ウルバノは力強く繰り返しました。

『ここではよくない。シュリ、おいで。』

 彼は年長の男として、きっかけに責任を取るつもりで誘います。シュリは頷きました。手を繋いで寝室へ行くまでの短い時間が、一瞬にも、永遠にも感じられました。

 ウルバノの寝室は静かで、窓から月の光が差して、しんと静まりかえっています。冷たい空気が、ひんやりしたシーツの感じが、余計に二人の体温を際立たせるようでした。
 シュリはベッドの上で大事に大事に衣服を脱がせてもらいました。一枚脱ぐごとに、首筋や鎖骨、胸の膨らみの上、肩甲骨の間や、かつて虐げられて負った古傷に唇が寄せられます。通った鼻柱と熱い唇が触れるたび、シュリは気持ち良くて体を丸め込みました。

 ウルバノも裸になって、二人は広いベッドに寝そべっています。シュリは恥ずかしくて目を開けていられませんが、ウルバノに『おれを見ろ』と優しく命ぜられては逆らえませんでした。

 ウルバノの体は逞しく、大きく、たくさんの傷跡がありました。火傷、切り傷、刺された痕……数えていけばきりがありません。ここ最近の戦傷もあれば、悪王討伐の旅路で負ったであろう古傷もありました。旅の中では十分に治す時間も物資も無かったのか、抉れた痕もありました。竜の爪痕です。おれは竜にゆかりがあるのだ、と彼は笑いました。

 シュリの体にもたくさんの傷跡がありましたが、いずれも古いものです。祖国にいた頃、乱暴に扱われ、虐げられていた頃の傷跡が背中や乳房にありますが、ウルバノに引き取られてからの傷はありません。家出をする前にもらった罰の痕は、泉の水を飲んですっかり治っておりました。

 鞭の痕が無いことに気づいたウルバノが喉の奥の方で笑っています。泉の水を飲んだなら罰をやった意味がないではないか、もう一度打たなくては。そう言ってシュリのお尻をパチン!とひっぱたきますから、たまったものではありません。ウルバノは素手でも十分力が強いのです。シュリは慌てて、いやいやをして、甘えて許しを乞いました。痛いことは痛いのですが、どうにももっと別の、むずむずした感じがするのです。

 どちらかといえばその『むずむずした感じ』が怖くて、恥ずかしくて、お願いですから痛めつけないでください、と縋りました。
 ウルバノはやっぱり喉の奥の方でくつくつ・・・・と笑い、お尻を叩くことは許してくれます。代わりに、もっと別のことをしました。シュリを抱き寄せ、胸をやさしく触って、頭のてっぺんや耳にキスをしてくれるのです。

 シュリは自分の体が父や兄、見知らぬ無数のおじたちに好き勝手凌辱されることには慣れていましたが、こんなふうに大切に扱われたことはありませんでした。兄たちは徒党を組んでシュリの体を取り囲んで痛めつけましたし、父やおじたちは、口にするのもおぞましいことを嘲笑いながら繰り返しました。
 ですから、自分の体、つまり女の体には何の価値もないのだと擦り込まれてしまい、大切にされるべきものではないと思い込んでいたのです。

 ウルバノの大きな手が、シュリの乳房を大切に包みました。下からゆっくり揉んで、乳首をそっと摘みます。そのまま、彼はシュリの頭と心に向かって『可愛いシュリ』と語りかけました。シュリはその度に心があたたかくなって、体がやわらかくほぐれていくのを感じていました。
 大きな手はあちこち撫でてくれます。
 おなかも、腰も、お尻や太腿、シュリが『気持ちいい』と思うところを全てちょうどよく撫でてゆくものですから、魔法よりも不思議でした。

 そのうち、一番肝心なところに指が触れました。
 指紋が分かるくらい、その一粒の感覚は鋭いのです。シュリはまた、ギュッと目を閉じてしまいます。ウルバノは今度は叱りませんでした。しばらくするとシュリの体いっぱいにとてもきもちいい波が、ぱっと押し寄せます。
 感じたことのない全ての感覚に、シュリはもう冷静でいられません。怖くも悲しくもありませんが泣いてしまい、ウルバノに慰められて、また違った波に呑まれるのです。何度も繰り返されるうちに、シュリはすっかり参ってしまいました。

 くたくたになった弟子の足をそっと開かせて、ウルバノは太い指を用いました。よく濡れてあたたかく、体の緊張もなく、健気にひくひくして震えていますから、痛みは感じないでしょう。
 ウルバノは花街の女を抱くことには慣れていましたが、シュリのように『自分の体なんかいらない』と嫌悪している女を抱くのは初めてでした。花街の女たちは朗らかで、気持ちが良くてもそうでもなくても『よかった』と言うのです。
 シュリはそうではありませんから、ウルバノも慎重でした。

 指を出し入れしていくうちにまた気をやって脱力し、どうしてよいのかわからなくなって泣いています。この女の子がどうしてあの竜になれたのか、わからないくらいに『普通の娘』でした。 
 ウルバノはシュリの頬にキスをして、唇と唇を重ねます。小さな、柔らかい唇でした。ほんのひとくちで食べてしまえそうなほど簡単です。ちゅっちゅっ、と啄むうちに、シュリがそーっと目蓋を開いて見せました。紫色の美しい瞳が潤んで燃えていて、綺麗だな、とウルバノは素直に思います。魔法の瞳をあまり真正面から覗き込むべきではありませんが、体を重ねる時には別でした。それで、シュリもまた、ウルバノの紅色の瞳を『綺麗だな』と思っておりました。

 シュリの体の入り口に、熱の塊が優しく触れて、少し慣らした後、ずぶりと入り込みます。
 痛くも辛くもありません。ずっしり、一番奥まで入り込んで、思わず、あっ、と声が出てしまうほどの強さでした。
 貫かれて腰が浮きます。背中が反ります。体が熱く、爪先をぎゅっと握り込みました。
 シュリはウルバノが自分の体の中に入ってきてくれたことを嬉しく思います。特に、衣服をすっかり脱いでしまっても、お守りだけは外さないでいてくれることを、一番嬉しく思いました。
 体の奥の方をトントンと突かれて、きもちよさに狭まる視界の中、緑色のきらめきが、彼の体の動きに合わせて前後に揺れておりました。
 次第にその揺れも激しくなり、シュリもウルバノも限界で、汗をかいて、二人は大きさが全く違う体をぴったり重ねて、長いこと抱きしめあっているのでした。


竜になった女の子


 シュリがウルバノの妻になって三年もしないうちに、西の国は滅びました。
 物資もなく、人もなく、捨て身の戦いをするしかなくなっていた西の国は、戦いに参加させてはいけない者たちをみんな竜にしてまで戦わせようとしたのです。

 ところが、その思惑は全く外れました。
 わずかに残った優秀な魔法使いが術をかけても、女子どもは竜に変身しないどころか、魔法使いの体の方が生きながら石に変じてゆくのです。西の国の陣営のあちこちで同じことが起こりました。
 女子どもは皆、守られていたのです。

 西の国に潜り込んだ東の国の間者がよく働きました。
 彼らは、大魔道ウルバノ・アルバラから『とあるもの』を預かって、西の国の魔法使いが乱暴を行う前に、戦いに参加できないはずの者たちへ渡していたのです。もちろん、西の国の者のふりをしていますから『より強い竜に変ぜられる』とうそぶきながら。

 とあるもの、それは色とりどりに輝く守りの石でした。
 特別に強い魔法の力を込められた守りの石は、女子供たちが体のどこかに隠し込める小ささで、飲み込む者もありました。

 ウルバノも、ユーマも、勇者アダンも守りの石より力を得て戦場を駆け巡り、西の国の長の首を討ち取りました。長を討った時点で西の国では戦える者がほとんどおらず、残ったわずかな者たちも次々に自決し、守りの石にて姿と魂を守った女たちの中にも自ら命を断つ者がありました。それは長く西の国に生きた女の最後の意地だったのかもしれません。生き残った大半は幼い子供たちでした。

 子どもたちのほとんどは保護されて、東の国の教会各地に引き取られて暮らすことになりました。皆、西の国の者独特の、真っ赤な虹彩をした美しい子どもたちでした。今や稀代の賢者と名高い大魔道ウルバノ・アルバラの瞳も同じ紅色です。

 シュリは自分の夫の生まれが西の国であることにやっと気がつきました。
 二人は、それぞれ違った事情はあれど、祖国を滅ぼしたのです。
 事実、西の国の生まれの者の中には、二人を『裏切り者』と呼ぶ人々もありました。自分たちだって逃げ延びたのに、祖国滅亡の謂れを、魔法使い二人になすりつけなくては、辛くてやっていられなかったのかもしれません。

 戦争が終結して、二人とも、十分に働き、十分に傷つき、十分、人間に疲れてしまいました。
 東の国において、あの戦争で守りの石を戦士たちに持たせ、秘密裏に活躍したのはシュリという『男の子』になっていたのです。ウルバノはもちろん、勇者アダンもユーマも憤り、シュリが女の子であることを主張しましたが、国はそれを認めませんでした。勇者の一、大僧侶ヘスティアのように修道女の出身でない女は、戦争に関わっていないことにしなくてはいけない、と、人々が信じていたせいでした。

 次第に、シュリを『慎みがない』などと非難する者まで現れる始末で、ウルバノは街という街に火が燃えうつるほど怒り狂いました。
 燃え盛る炎に人々は怯え、今度は魔法使いを怒らせた愚か者に非難が集まり、また他の者が非難され……戦争は終結したというのに、別の戦いはいつまでも無くなりませんでした。

 少し痩せたシュリが、いつものようにウルバノの胸に抱かれながら林檎を食べて、ぽつんと言いました。

『私、あなたと一緒に、静かな場所で暮らしたいな。』

 ウルバノは泣きました。涙は胸の奥から溢れました。シュリのほんのささやかな願い事が、なぜ叶わないのか、叶えてやれないのか、辛かったのです。
 彼はこれ以上、たとえ天帝であろうと魔王であろうと、小さなシュリを傷つけさせてなるものかと固く心に決め、二人は抱きしめあい、やさしい口づけを交わし、微笑みあい、『あること』を願いながら、お互いに本当の名前を呼び合って、満月の夜にそっと目蓋を伏せました。

 もう、いつまでも一緒です。


 ある日、国王から祝福を受けた僧兵長、ユーマが迷いの森を抜けて、ウルバノとシュリを訪ねました。
 ところが住まいは空っぽで、ネズミの姿をした妖精が、幾千もの命を救った守りの石を造った型を齧ったり、花の妖精が窓から注がれるひだまりに微睡んでいるばかりで、目的の二人の姿がどこにもありません。

 テーブルの上には、一冊の本がありました。
 僧侶のユーマに魔法の言葉は読めませんが、どうやら、ウルバノが苦心して書いていた魔法の教科書の原稿をまとめたもののようです。茶を運ぶシュリの優しい横顔や、頭を抱えながらペンを走らせるウルバノの姿の幻がふっと浮かんで、おなじように、ふっと光にほどけて消えました。
 風が吹く音しか聞こえない静かな家の中で、ユーマはそっとページをめくってゆきます。ほとんど分かりませんが、最後のページは大陸共通語で綴られており、読むことができました。


 我が妻、愛するシュリと共に記す。
 若き魔法使いたちよ、体に囚われてはならない。
 まことの価値とは、肉体ではなく、まことの命に賦されるものである。
 男も女もなく、学び、やがて諸君らが世を豊かにすると信じている。

 我らが祖国、滅亡せしシュルタンの名をここに残し、筆をく。


 ユーマは震える指で本を閉じ、庭へ出ました。
 林檎の木が一本、しゃんとして立っています。
 もうここにはシュリの姿も、シュリを呼ぶウルバノの姿も、現れないでしょう。二人とは二度と会えないことが自然に分かりました。

 迷いの森から、勇者アダンと大僧侶ヘスティアが歩み出てきて、ユーマは膝をついて礼を尽くします。二人はユーマにとって師とその夫であり、姿を晦ました友人の掛け替えのない友なのです。先の満月の日から連絡がつかなくなったウルバノとシュリをひどく案じて、他国にいながらその影を追っておりました。
 勇者の顔つきを見て、ユーマは体の中に、なにか名状しがたい気持ちが、予感としてすとんと落ちてくるのを感じました。

「ユーマ、中立の国の海域でね。」

 アダンは優しく語りました。

「二頭の竜が小さな島で、仲良く暮らしている姿を、港の者が見たと言うよ。」

 じわり、と目頭が熱くなりました。
 ユーマはシュリの出自について、何も知らないと嘘を突き通しておりました。
 シュリが竜に変じていたことも、その変身をウルバノが解いて師弟になったことも、この世ではユーマしか知りえぬことなのです。
 戦火が最も激しい頃、ウルバノが西の国の生まれであることに疑いの目がかかり、またシュリという出の分からぬ娘を囲っていることにも疑惑が向きました。それでもユーマは何も知らぬ存ぜぬを貫き通し、二人を陰ながら守っていたのです。
 ところが、勇者アダンにはお見通しでした。

「それに、船乗りたちを襲うこともせず、ただ見守るばかりだとか。中立の国の海域では、私たちは何もできませんね、ユーマ。」

 師であるヘスティアも、優しく言いました。
 ユーマは黙して応えます。
 夫妻がさみしい瞳で、からっぽになった友の住まいと林檎の木を見つめ、やがてアダンの方が再び迷いの森へ引き返してゆきました。ヘスティアがローブを翻して続きます。二人には、小さな三人の子供があるのです。その三人には魔法の才があり、末の子は女の子でした。世にはまだ、それを惜しむ心ない声もありました。

 ユーマは勇者たちに続こうとして思い直し、友人が妻と共に書き残した一冊を大切に包んで懐へしまい、自分も迷いの森へ踏み入ります。力強く、怒りにも似た足取りでした。自分にできること、しなくてはならないことを知ったのです。
 一人でも多くの者に、最後の手紙を読んで欲しいと、魂が突き動かされる気持ちでした。迷いの森などは真っ直ぐに抜けてしまって、この魔法の本を広く世に知らしめなくてはいけません。

 もう誰からの言葉も届かぬ竜となり、二人で静かに愛しみあって暮らすことを選んだ、まことの魔法使いたちのために。






【竜になった女の子】 おしまい








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