女の人がお花に見える
これまでにも散々書き散らしてきた通り、私はフェミニストでもなければ女尊男卑思想者でもない。『両性の間には身体的にも精神的にも相互に理解し合えない差異があるがお互いに尊重して生きていくことが健全な社会の形成において最も重要である』論者である。長くて面倒くさいから外では『どっちもどっちっすよねえ』とヘラヘラしている。台無しである。
その上でのこの記事のこのタイトルなので、あまり深く考えないで受け取ってもらえたらいいなと思う。
単純に感覚の話だ。
全ての哺乳類に通じて言えることではないけれど、人間にフォーカスを当てる場合、基本的に男性(雄)の方が体が大きい。女性(雌)にも背の高い人や体重がある人ももちろんいるけれど、骨格を比較してみると、明確に異なる。
男の人の骨の方がごつい。筋肉量を支えるだけある。
比べて、女の人の骨はほっそりしている。小さくてかわいい。
今、特にこの令和の時代、性別は曖昧なものになっている。
見た目がどうこう、好きな色がどうこう、いわゆる『らしさ』で分けてはいけないことになっている。そりゃそうだ。個人の嗜好と性別は関係ない。当たり前のことがようやく世に浸透してきてよかったなと思っている。
でも男女、すなわち雌雄の二者間には差異があることは明確であって、私はとりあえず『身体上の性別』で社会的個人の在り方を認識することにしている。
だからまあ要はアレである、心が女性だという男性の体を持つ人と更衣室やお風呂やトイレを一緒にしろという意見には激しい嫌悪感を感じるということである。
注釈しておかないとややこしいからぐだぐだ書いておくけれど、私は心の性別が体の性別と異なる人のことを非難しているわけでも嫌悪しているのでもない。ただ体の違いを根拠にする取り扱いの違いは必要だと主張しているだけだ。
よく登場する『安田モデル氏』は、ボディは男性なので、私は彼のことを『彼』として扱う。でも彼が男性を好きになろうと、時々女性を好きになろうと、彼は彼なのでどうとも思わない。ただし、一緒に温泉には入れない。でも友だちであることには変わらない。そんな感じだ。
何が言いたいかって、体つきの差異の違いに基づいた植物に対するイメージの違いについてのことだ。性別に係る表現をするにはこれくらい前置きを長くしないといけない世の中になった。ここまでで大体1000文字くらいだ。
やっと本題、私は植物が好きだ。
学校でやっていたのはざっくり分子生物学で、動物細胞に係る遺伝子うんぬんかんぬんどうやらこうやらを卒論にしてどうにか卒業させてもらったのだが、入学当初は植物についてのどうやらこうやらを学ぶことが目的だった。
紆余曲折あってなぜか気づくと動物細胞系の研究室に在籍していて、おそろしいことに、卒後もず〜っと、そっち系の技術をチマチマチマチマ眼精疲労と頭痛にやられたりレーザーの青い光に目を灼かれたりしながら提供して、代わりに得た幾ばくかのお金でお米を買っている。そして奨学金を返している。
でも、植物が好きというのは変わらない。
仕事にも専攻にもできなかったけれど、毎年様子を見に行くくらいはいいだろうと思って、ツツジやらバラやらなんやらを夫と一緒に拝みに行っている。
別に宣伝ではないからリンク先に飛んでいただく必要は一切ないのだけれど、⬇️のような感じでよく写真を撮ってはヘラヘラしながら記事にしている。みんなネモフィラが好きなの? 私も好きだよ。青くていいよね。
それで、タイトルの通り、私はこれらの『花』が女性に見える。
不思議なことにちっとも男性には見えない。
綺麗なお花がたくさん、大小問わず、人の手が入ろうと入るまいと咲いている様子を見ると、なんだか興奮するのだ。
可愛いと感じたり美しいと感じたりは植物の種類によるが、とにかく興奮する。『その辺に何となく……』の中でたくさん撮っている『アカバナユウゲショウ』等であれば、『かわいいね〜☺️ よかったね〜☺️』くらいの気持ちでパシャパシャ撮っているのだが、『ツツジ』特に『クルメツツジ』となると、なんだかもう、限りなく『性的興奮』に近い。
もっと言えば『恋』に近い。
むちゃくちゃかわいい女の子に恋をするような感じ。
女性器はしばしば、花や貝殻などの、一般的に繊細で美しいものに喩えられる。
誰が最初に何を目的として言い出したのかは知らないし、別に悪い気はしないが、なんとなく近い何かは感じる。
なんだかそわそわ、引き寄せられるようにして見入ってしまう。
ミズノさん実は虫なのかもしれない。
まあ私の正体が虫であるかはさておき、とにかく花を女性だと認識してしまう脳に生まれた。今のところ生活に支障はないのでこの調子で行きたい。
時々逆の現象も起こる。
人間の女性を花だと認識することもある。それは支障が起きているというのではないかというご意見は受け付けない。
年齢問わず、花に見える女性には一定の共通点がある。
かわいいのだ。
赤ちゃんだろうが若い子だろうが、同い年くらいだろうが、お姉さん方だろうが、おばあちゃんだろうが、かわいいのだ。
美しい、よりは、かわいい、に近い。
造形に係る意味合いでの『かわいい』ではない。
『なんかかわいい』である。信じられないだろう、理系大学出て理系で食べていてもこういうふわふわした表現を平気でする奴がいる。すまない、私が筆頭である。しかし理系の人にわりとふわふわしてる奴が多いのは事実である。
それで、その『なんとなくかわいい』の人々に、お水とか飲む? と言いたくなる。大丈夫、心配ない、まだ大丈夫だ。言ってないから。言い出したら世の平和のために通報してほしい。
不思議と、花に見えない人は全く見えない。
直感的に好意を抱けない人に対しては、どうやら人間のまま認識するらしい。
人間関係が最悪の会社で働いていた頃、全員が人間だった。
今は色とりどりの花に囲まれて働いているから、虫ミズノさんは幸せだ。
現状では下書きに戻してはいるけれど、私はちょっとだけ小説を書く。基本的に女性が出てくる。苦難に直面してきた女性たちについてはハッピーエンド至上主義のため、本編終了後ではみんなのんびり暮らしている。
彼女らについても、私は『花』のイメージを持っている。
何枚かを例に出すとこんな感じ⬇️
こんな感じ。
これらの女性たち、みんなにそれぞれかわいいお花を重ねているから、私の頭の中はいつもお花畑だ。おめでたいことである。
男性については、申し訳ないが心の性別が女性だったとしても、誰一人花には見えない。
代わり(?)に、樹木については男性のイメージがある。
どんな枝振りであろうと、樹木は私にとって男性だ。
イチョウやソテツのように雌雄がある樹には見えないが、松とかクヌギとか、紅葉とか、そういうふうに感じることはある。
樹木を女性のように感じることはない。
それなので、たとえば力強い松の木の近くにツツジがわーっと咲いていたりすると、たくましい男性の側でかわいい女性が楽しそうにしているように見えて、それが平和で、幸福で、特に晴れていたりなんかするともう、私は、自分でも自分自身のこういうところについて、やっていられないくらいなのだが、本当に崩れ落ちて泣くくらいに、何だかいっぱいいっぱいになってしまう。
涙が溢れてつらいのだ。
幸せの象徴なんだと思う、私にとってはそれらが。
夫は、例えるなら大きな黒松だ。
力強く、背中が広く、真面目に働く立派な男の人なので、そう思う。
兼ねてより伝えている。
夫は嬉しそうだった。
彼も私のことを喩えてくれた。
『黒松? 嬉しいなあ。ありがとう。ミズノちゃんは、アジサイみたいだよ』
ありがとう、あなた。
でもねえそれ、葉っぱ。正確には萼。がくって『萼』って書くのね。
知らなかったわ。
まあいい、愛してる。