87.お寿司
出てくる人 :
ロミ子、吉岡。
ロミ子は元気です🍣✨
◇ ◆ ◇
車で少し行ったところの便利な商業施設に、回転寿司屋が新しく出来た。全国展開の手堅い大手チェーンで、きちんと賑わい、きちんと人が働いており、食事処として健やかに明るい。
ある日の夕方、旬の寿司ネタと『新規オープン』の宣伝文句がプリントされた綺麗な幟に、路海がちょっとの興味を示した。結婚してすぐの頃よりだいぶ情緒も落ち着いて、最近はよく『吉岡、私あれ食べたい、これも食べてみたい』とねだってくる。吉岡健一はそんな路海の好奇心を絶対に否定せず、何にだって付き合った。実はそこまで得意ではない甘味にも、KALDIの冷凍庫の奥の方から妻が発掘してきたイマイチ正体のよくわからない謎の燻製肉にだって、ロミ子の『食べたい』には、誓って全部、この先も。
それで、ちょっとの興味というのも、可愛いのだ。気になる食べ物や店を見つけると、繋いでいる手を離して、興味の近くをちょろちょろ偵察し、わくわくした顔でサササッと戻ってくる。
「吉岡、私、回転寿司食べてみたい」
こんな感じで、いつも通り。
吉岡の方もいつも通り、おう、いいよ、と笑って答える。それで、路海が嬉しそうに目元を綻ばせてくれるのが嬉しかった。
吉岡健一に、たったの一度も飢えた経験はない。
路海にはある。
今でも時々悪い記憶の陰惨な影を振り払えず、『ごはんをください、食べさせてください、お願いします』と叫んで泣き、縮こまって怯えるほどの。
吉岡には、路海のその姿を目の当たりにすることが、他に表現しようもないくらい、本当に辛い。
起こして、抱きしめて、キッチンに抱えて行って、雑炊やうどんを作って食わせて寝かしつける。ラーメンが食べたいと言われたなら24時間営業店に連れて行ったし、お肉とご飯が食べたいと言われたならば牛丼屋まで迷わず車を出した。運転しながら涙が止まらなくなったこともある。
さぞ辛かったであろう『おなかがすいたよ』を、もう大丈夫、安心しろよ、ロミ子、俺が全部埋めてやるから。
不安なく、いくらでも食わせてやることしかできない自分が情けなかった。それでも、なにより、路海を『おなかすいた』から助け出せるなら何だってよかった。
路海は食べ物に囲まれると安心して泣き止む。
実際のところ、頼んだ全部を食べられなくても。
包んでもらって持ち帰って、ほっとした顔をしてやっと眠る。
そんな真夜中が何度もあった。
「うわあー、みて吉岡、なんでもある! ケーキもある! うわー! どうしようかな、何にしようかな!」
「食いたいものポチポチ押してけよ。中トロが旬だってよ、ロミ子。押せ押せ」
気持ちよく清潔に拭かれたテーブル席の向かいで、注文用タッチパネルを抱えた路海がニコニコして、『とりあえずガリ』と渋いチョイスをかましている。ガリまで各自で必要分を頼めるというのだから、便利な時代になったものだ。
連れ立ってあちこち旅行をする中で、各地の寿司屋に入ったことはあるが、そういえば回転寿司屋は初めてだったか。
「吉岡は? 吉岡はなんにする?」
「そうだなあ、アジあるか? アジ食いてえな、ロミ子、頼んでくれる?」
「いいよ!」
旅先のしっかりした寿司屋のカウンターでは、借りてきた猫のように大人しかったくせに、二人だとこれだ。かわいいガキ。ふん、と笑みが溢れる。温かいお茶を淹れてやる。多分飲まず、ドリンクメニューからジュースを見つけてそちらを飲むだろう。何か新しいものを『食べたい!』としている時の路海は、実年齢としての大人の路海ではなく、彼女の心の中にいる小さなロミなのだと、最近やっと分かった。
頼んだ寿司が新幹線や車を模した運搬機に乗って調子よくやって来た様子を見てはしゃぐ姿なんかは、本当に『あれ?』と思うほど幼く見える。
でも、構やしない。
好きなように頼んで、好きなようにお食べ。
「えへへ……お寿司に囲まれた……」
何皿かを自分の前に並べて写真を撮ってはうまそうにパクパク食べ、小さなうどんと小さなラーメンも食べ、やっぱりジュースを見つけてゴクゴク飲んで、満足そうにしている。
この細い体のどこに収納されていくのだろう?
「ロミ子、もういいのか? 気にしないで好きに食えよな」
うーん、と何とも言えない返事をして、タッチパネルの画面をスイスイ送り、サブメニューのところで手を止める。
彼女が最後に頼んだのは、寿司ではなく、小さな醤油ラーメンだ。
ラーメンが好きだとはよく知っているか、ここでもなのか、と面白くなって笑っていると、路海もニコッとして、あのね、と言った。
好きなものを好きに選んで、おなかがいっぱいで、安らいだ笑顔の可愛いロミ子。
「あのね、お寿司も、おうどんも、ラーメンも、私、吉岡と食べられたら、ほんとはなんでもおいしいんだ。一緒に食べてくれて、吉岡、ありがとうね。」
【87.お寿司】