じいちゃんの遺言
最近よく思い出すから、母方の祖父の話。
別に私は好きではなかったし、祖父も私のことを大して好きではなかっただろう。同じように、別に嫌いでもなかっただろう。
奇妙な祖父と孫だった。
私は母方では最初の孫だったけれど、特にチヤホヤはされていない。
なんなら幼少期は顔立ちが父方に似ていることをネタに『あちらさんの血筋なんやね』くらいのことを言われるくらいではあった。クソである。
でも、祖父母の家で暮らしている期間、衣食住と読書に不自由したことはなかった。書斎があって、本がみっちり、壁一面にたくさんあった。戦火を逃れた古くて貴重な本もあって、その辺りの価値は大人になってから知って、欲しいという人に譲って回った。祖母は中国語の読み書きができたから、中国語の本があったし、母は英語とフランス語の読み書き喋りができるから、そのあたりの国の言葉の本は本当にいくらでもあった。ちなみに私は読めない。遺伝子の敗北とはこのことよ。
余談だけど、私は理系に進学して今のところ理系職で食べているだけで、実は文系科目(歴史科目を除く)の方が点数がよかった。多分、高3の担任の『文転したら選び放題だぞ』の誘いに乗っていたら、語学系の大学に行っていたと思う。選び放題というのは言い過ぎだけど理系大学よりは選べた。
私の密かな夢は翻訳業か航空業界で、仕事として色んな国に行きたかったのだ。
予算やらなんやら、興味がある分野やらの理由で結局理系のままだったけど。そして冬休みを費やして真面目に勉強した政治経済で死ぬほど滑った上に被災してとんでもねえ状態になったけど。
しかしまあ人生何があるかわからないもので、というよりも、実際に理系に進学して理系就職してみて分かったのは、当然の如く英語を使う必要があることで、そして大きな学会の開催地が海外なこともちょこちょこあって、なんだか微妙にかする感じで夢は叶っているから不思議である。
とはいうものの、私がよく使う『英語』は正確には『科学英語』で、海外の小説をすらすら読むだの詩的表現も訳せるだのそういうことでもない。諸々と実験するにあたり根拠を探すやら手順を調べるやらの際には嫌でもアルファベットと睨めっこをする羽目になり『Hello,everyone! My name is Green!』くらい長い単語にはちあったり、その単語に適切な日本語訳がまだあやふやだったり規定が微妙だったり、言葉って奥が深いのである。率直にいえば扱いきれないのである。
ちなみに医療系に行くとここにドイツ語だのラテン語だのも平気なツラして割り込んでくるから注意が必要である。ミズノさんはもう医療従事者ではないけど、仕事で必要だから今もラテン語を使っている。ラピュタが滅ばないようにラテン語も滅んではいないのだ。姿をあんまり見かけないだけで。
なんだっけ。そうそう、祖父母の話だった。
あの連中、compliance の概念を獲得しないまま生き存えやがって、私の顔について、整形したのちには『〇〇ちゃん(私の母)にそっくりの美人さんやねえ!』などとボケる前からほざくようなアホだった。
いや待てよ、ほざいていたのは祖母か。
『二重がやっぱりええわな』とボソッとほざいていたのが祖父だ。どっちでもいいか。ロクでもないことには変わりがない。
ロクでもないけど、何もかもがクソ年寄りだったわけではない。
私は祖母が作ってくれたあごだしに麦味噌を溶く甘い味噌汁を『おいしかった』と思って今でも時々作るし、今は自治体に譲渡した果樹畑に、変わらず巡り続ける四季の移り変わりを愛している。
どちらかといえばロクでもないことばかりしていたクソガキは私(と安田モデル氏)の方だったのだけれど、怒りも否定もしなかった。ただ見守られていた。
二人ともボケ尽くしたり死んだりした、この現在、今もなお私の中に残っている、なんともいえないけど大切であろう魂の骨格みたいなものを与えたのは、悲しきかな、私が生まれ持ったナチュラルな顔を否定した二人だったのだ。
特に祖父の方。
寡黙で、この人は完全に昔ながらのド理系の人で、特に電気回路だの数学だのに大変強かった。専門書もあった。戦後は手に職で、そっち系で食べていたのかもしれない。詳しいことは知らない。喋らないし、私も聞かなかったから。
ただ、祖父が電気まで引いてきた秘密基地みたいな納屋が好きでしょっちゅう遊んでいた。祖父は時々ふらっと様子を見に来て、焼き芋をくれたり、ぼちぼち日が暮れるごろになると軽トラで乗り付けて、私と安田モデル氏を荷台に乗せて(ダメだろ)家まで帰る(運搬する?)こともあった。
でも荷台から見た景色は綺麗だった。
風が髪の毛の間に気持ちよくて、太陽はどんどん山の間に隠れて見えなくなって、川の中は暗くなって魚の影が一緒になって、水の匂いがした。
まだ全然少年の頃の安田モデル氏の睫毛が長くて綺麗だったし、時々パッと差す落陽に照らされて橙色になった私の指先なんか今みたいにガサガサじゃなくて、ちんまりしていて、爪がつるつるで本当に可愛いお嬢さんだった。
私たちは荷台に乗せられている間、荷物のふりをして、必ず黙っていた。
まあ、本当のところは、舌噛むから黙ってただけなんだけれども。
学校に行かなかろうが、どうにもイマイチまっとうでなかろうが、祖父は本当になんにも怒らなかったし、説教じみたこともしなかった。
ず〜っとそんな調子だった。
私はあのど田舎の、目の前に大きくて綺麗な川がどうどうと流れて、いつでも、てっぺんに雪を冠した高山の鋭い鋒が聳える空が見えた滅びかけの自治体で、コンプラ意識はないけど孫を憎んでいるわけではない、くたばり損ないの二人に預けられていた時期が、嫌いではないのだ。私の顔と性別を、受け入れてくれなかったことは許さないし、ボケようが忘れようが死のうが悲しくはないけど、あの時間ごと恨んでいるわけではない。
前触れもなしに両親が迎えに来た日、空港まで祖父母が見送りに来た。
うまく表現できないのだけど、私には不定期に、決まった家のあっちこっちに預けられては迎えに来られる変な時期があったから、慣れてはいた。
親になってはいけない男女が子どもを産むと何かがおかしくなるのだろう。
大抵の場合、親になってはいけない男女は底なしのバカだから、考えなしに、あるいは都合よく考えてぽんぽこ何人も産むし、私の親もそうだった。
だから『親だ』というだけでどうにも夢見がちな人を見ると、ミズノさんはいまだに思春期になってしまって、指をさして嘲笑いたくなる。
親が期待しているほど、子どもに親は必要ないし、子どもが期待しているほど、親は子どものことなんか考えていないよ。
悪い意味でもあるし、良い意味でもそう。
特に親は、子どもに縋るな、見苦しい。
自分でなんとかしろ、自分のことくらい。
それで、ある一定以上の年齢の人には通じると思うのだけれど、空港のお見送りロビーと出発ロビーのガラスの壁には有線の電話が備え付けられている。今は多分ないんじゃないかな。
ガラスの向こうの祖母は長話だった。
あの人は子どもを産んではいけないタイプの女だったけど、悪人ではなかったから、いざ預かっていた子どもがいなくなると思うと毎度のことながら寂しかったのだろう。ずっと、名残惜しそうに、ほんとにずっと喋っていた。次はいつ会えるのか、気にせず泊まりに来ても構わないとか、ばあば寂しい、とか。
でも飛行機に乗らなくてはいけない。
ある程度自分の意思を持つようになってはいたけれど、この国の法的にも心と体の発育的にもまだ子どもだった私にはどうしようもないことだけど、もし、本当にもし、バカ二人の都合の良い時だけの子どもに戻らないで、祖父母と暮らし続けることを選ぶことができたなら、どうだったのだろう?
幸せだっただろうか?
今、こんな、気づけばぼちぼち30歳も終わっちゃう今、結構ショックを受けるような大病もしちゃったり、手術はしたけどひっそりとした不安はいまだにあったり、実は親が最近大流行の『毒親』だったことに気付いちゃったけど今更人生取り戻せるわけでもなし、大事な夫の声で『寄生虫』とか『外れ嫁』とか幻聴が聞こえるくらいには毎日命がやばい今みたいな、こんなふうには、なっていなかったかもしれない。
でも祖父は祖母に電話を譲られて一言、
『元気でやれよ』
と言った。
一緒に暮らせないことは分かっているのだ。
だって私たち、うまくいかない家族がただ連続しているだけだったのだから。
それから祖父母には、数えるほどしか会っていない。
私は何かの間違いで、ゆとりとはなんぞや的思想の、やたらと拘束時間の長い高校に通ったし、選んだ大学はどの家からもとても遠いところにあったから。
他に会いに行く者もいなかったから、祖父母の認知症はどんどん進んだ。
電話をかけるたびに痴呆が進んでいるのが分かった。
おかしいな、と気づいたのは私と自治体の人で、案の定な感じになっていた。
最後に電話をかけたとき、祖母はぶっこわれたラジオのようで、私のことを若い頃の母と間違え続けていて、いつ帰るのかいつ帰るのかと何度も聞いてきた。
事情はお察し、母も帰らなかった人だった。
痴呆というのは『いったりきたり』を繰り返しながら進行していく。
ふとした瞬間に『今』に振り子が止まることがある。
祖母は昔空港でしたように、祖父にスマホを譲った。
祖父も無事バッチリボケていて、音量調節機能を失ってやたらでかい声だったが、やっぱり、『元気でやれよ』と言った。
正確にはこうだ。
『ミズノー!!ミズノー!!元気でやれよー!!元気でやれよー!!元気でなあ!!元気でやれよー!!!』
それから、祖父は脳梗塞で倒れて、施設にしばらくいたけどあっさり死んだ。
祖母もとんでもねえ痴呆バアさんになっていたから、同じ施設に入った。
仲のいい二人ではあったから、一緒に暮らし続けられたならよかった。
その程度には、私はあの二人のことを嫌いでないのだ。
祖父母と暮らすことを選ばなかった私には今、激しい希死念慮がある。
しっかり文字にするなら
『死ぬ以外ではもうどうしようも解決出来ない状態にあるのに死なずに生きていることに絶望しているから一刻も早く自殺しなくてはいけない』
という感じ。
自分はそんなことまったく一度も考えたこともないああバカバカしいと思う自信満々の人もおられるだろう。
死んではだめだよとおっしゃる優しい人もおられるだろう。
でもこれは脳のエラーで、スピリチュアルや愛ではどうにもならない、科学で立ち向かわなくてはいけない病気の症状なのだ。
病院に掛かって、諦めずに薬を飲んで、変な宗教には惑わされないで。
科学英語を駆使して、頑張って海外メーカー問い合わせなどもして、実験動物の皆さんにも協力してもらって働いた私が今まで係ってきた業務範囲には脳の病気も含まれる。皮肉もいいところだと思う。
人生、何があるかわからないけど、なんとなく最初から決まっているような道筋から信じがたいほど離れていくなんてことは、多分滅多にない。
これもまた、良いか悪いかは別にして。
道から逸れて、死ななくては、と焦るたび、祖父の声が聞こえる。
元気でやれよ、は、あれは、多分、遺言だったのだ。
あのジジイ、だいぶ早い段階から遺言を用意していやがったのだ。
残念ながら、私はいつも瀬戸際にいる。
夜になるたび、不安なことが起こるたび、たやすく一歩を踏み出さなくてはいけないと信じて体が勝手に動くことがある。
でも、瀬戸際でいつも聞いてる。
じいちゃんの遺言が、確かに私を引き止めている。
元気で暮らせる日が来ることを、私だって信じて待っている。