51.名前をつけよう
出てくる人 :
ロミ子、春子さん、吉岡くん、安田、ハムスター
◇ ◆ ◇
典型的なゴールデンハムスターだ。
ペットのコジマのハムスターコーナーに残っていた1匹で、周りのハムスターに比べると週齢が高く体が大きい。何度か値引きの跡がある値札を貼られた透明ケースの中で、せっせとペレットを頬袋に詰め込んでいる様子をしばらくの間じっと見つめていた路海が突然『飼う』ときっぱり言って、立派な飼育セット一式と共に吉岡家のリビングにやってきた雌のゴールデンハムスター。
路海は吉岡路海になってから、夫と共にしばしばペットショップへ通った。それでいつも遠目にハムスターコーナーを眺めて、時々近寄って、ハムスターたちの様子を見て、少し暗い顔で帰宅する。彼女の心の片隅にいつもいる『ハムちゃん』を思い出して色々考えているのか、それとも思い出と一緒に新しく踏み出したいのか、吉岡健一は尋ねなかった。何度でも一緒に訪れた。飼いたくなれば『飼う』と言うだろうし、生き物のことだから、外野がどうこう言うことでもない。
それで、その『飼う』が、29歳の誕生日を目前にした今日、彼女に訪れたようだった。
30歳になる前に決めたいと思っていた、と帰りの車中でぽそっと呟く横顔は複雑そうだったが、大切に膝の上に抱えられた小さな箱の中から『カサカサ』とハムスターがやるたび、目元が嬉しそうに綻んでいた。
「……そんで、連れて帰ったはいいけど、『吾輩はハムである。名前はまだない。』なのね。もーいーじゃないのよ、吉岡とっとこハム太郎でさァ」
湯気の立つコーヒー片手に安田康太がため息を吐いた。その隣で家主の吉岡健一が『ハム太郎は却下済みだぜ』と付け加え、自身もコーヒーに口をつける。
キッチンカウンターでコーヒーを飲む彼らの視線の先には、ローテーブルを挟んで路海と藤崎春子が向かい合い、さらに二人の間にプラケース入りのハムスターがいる。紙箱からのっそりと出てきた大きめのハムスターを見て、路海と春子は小学生のようにはしゃいだ。
「ハム太郎もだめじゃないけど、もっとハムみがあってかわいい名前にする」
と命名用の紙とペンを用意して路海。
「かわいいー。まるいね。」
とニコニコして春子。
女のあれこれを妨げるほど無粋ではないため『好きなだけ好きにしなさいよ』と中年男二人である。
当のハムスターは長く店頭で暮らしていたらしく人間に慣れ、加えてもともとあまり物怖じしないタイプなのか、特に鳴いたり動き回ったりもしない。頬袋からペレットを取り出してみたり、鼻先を天に向けてフスフスさせてみたり、その程度だ。新品のハムスターハウスには床材から餌、水、綿に隠れ家におやつと既に世話焼き吉岡が設置済みだが、入居はまだである。
ペットショップ帰りの車の中で春子に『ハムスターを飼う』と連絡した路海に、LINEではなく着信での返事があった。しばらくの間きゃっきゃとおしゃべりをしていたが、途中で吉岡に向かって『このあとおうちに藤崎さんと安田さん来てもいい?』と尋ねる。別に構わないが、なぜ康太が? 疑問に思ったものの、藤崎と共に訪ねて来た本人曰く『超たまたま、超偶然、超ゆくりなく、藤崎さんと一緒にいた』とのことで、カタギはまず選択肢から除外する金縁スモークピンクのサングラスの奥の目は泳いでいたがせめてもの情けで言及しないでやった。
そうして急遽設定された『ハムスターのお名前を決める会』である。
せっかくだから、と路海が切り出す。
「おめでたい感じのお名前もいいよね」
「うーんー……大乃国、旭富士、曙」
「貴乃花、若乃花、武蔵丸……」
「ねえアンタたちお相撲さん好きなの?」
確かにめでたいし、いずれも大横綱だが大乃国なんて三十前の子からよく出て来るものである。
そういうわけではありませんが、と今度は春子が首を傾げた。ハムスターも春子を見てじっとしている。
「でも、お相撲さんは、男性のお名前だから、もうすこしまるみのある名前の方が、きっとこちらのハムスターに似合うかもしれない。」
「おもち」
「おもち、まるい?」
「ああ、ロミ子、地域性が出るよ餅は」
この4人で言えば、吉岡、安田、路海は丸餅、春子は角餅に馴染みがあった。
「そっか〜……じゃあ、直感でいこっか。」
「鮭」
「藤崎さんったらセンスよね〜。分かる。この地球で1番『鮭』って名前が似合う生き物だもんそいつ。もう佇まいが魚偏よね。」
「一挙手一投足ハムだろ」
「あっ!待ってください……やっぱり、鮭フレークにします」
「分かる。どうせなら感あるわよね。」
「お前なんでも分かればいい訳じゃねえからな。」
「よし、おか、しゃけ、ふれー、くと……」
「ロミ子?」
結構イイ、と路海と春子が喜んでいる。
なんだって構わないといえば構わないが。
「ハムみはどこいったんだ?」
今度は『あ』と顔を見合わせる。
それで結局、二人ともまた振り出しに戻り『ハムちゃんは何がいい?』だの『ハムちゃんかわいいね』だの待ちくたびれて寝始めたハムスターに言っている。もうハムちゃんでいいじゃないか、と言わないあたりが中年二人の女慣れの賜物ではあった。
そのうち何か、リボンちゃんとかになるだろ、と放っておくことにして雑談に興じる。今年のM-1はどうだとか来年の駅伝はどうだとか忘年会に嶺二と葵ちゃんを呼びたいがみどりは預け先があるだろうかとかその程度だが。
「あ、ねぇケンちゃん、今日アレよ、あたしンとこのお通し、ハムサラダよ。ケンちゃん好きなやつ。よかったらこの後、お二人どお? 藤崎さんは来てくれるって。」
「アレか、うまいよな。ロミ子〜、今日の晩飯、康太のとこ……なんだ?」
二人して『それだ!』の顔をしている。
「路海ちゃんよかったね!」
「ぴったりのハムみ」
言いながら新しい命名用紙にサラサラとやる。
字の綺麗な子である。
「よし…おか…はむ…さら…だと……」
春子と二人で拍手をしている。
いよいよ決定のようで、今度は春子がピンクの油性ペンを取り出し、
これである。
晴れて『吉岡 ハムサラダ』たる姓名を得たハムスターは、決まりましたかと言わんばかりの面構えで大あくびをかまし、用意の整ったハムスターハウスに無事入居の運びとなった。
この日からハムサラダは吉岡家のリビングの端に外寸W620xD450xH315mmの邸宅を構え、路海の心の破損の修復に大きく貢献し、よく食べよく寝て4年も生きて、見事大往生をすることになる。
その後、吉岡家に引き取られる小動物たちには長生き『ハムサラダ』にあやかり、⚪︎⚪︎サラダとの名前がつけられる習慣が生まれ、次代のハムスターは『吉岡ポテトサラダ』になってやっぱり5年近く生き、ギネス記録を更新するのだが、それはまだもう少し未来の話。
「ハムちゃん、かわいいね!」
「ね!ハムちゃんまるいね!」
いずれにせよ、結局『ハムちゃん』としてサラダたちが呼ばれる度、天国の初代『ハムちゃん』も『呼んだ?』と顔を出していたと路海が知るのは、さらにもっとずっと未来の話。
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