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レビューの後日談と統合の体験後の選択

2020年にFAP療法の本が出版されたときに、私が初めて統合を体験したときのことをamazonのレビューで書きました。

後日談です。
このレビューの中で、「私は何も語らないままで治療を続けて、統合を体験した」と書いたことについて、そうではなかったことがわかりました。
このレビューを書いた私は、自分のことを何も語らなくても治療してもらえるなんてうれしいと思いながら治療を受けていたので、何も語っていないと思っていたのですが、実際には交際相手とのトラブルについて、先生に話していたそうです。
他の記事で書こうと思いますが、私には、生き延びるために知らない誰かが勝手に生きていた期間があり、その誰かの出来事は、私にはあまりよくわからないことがあります。
今回も先生に指摘されるまで、そのことに気づきませんでした。
FAP療法を教えてくれた知人のお子さんが障害があって何も話せなくても、代わりに話せるご両親がいたわけで、同じように私が何も話せなくても、代わりに話していた人がいたことがわかりました。

私がレビューで自分の体験を書こうと思ったのは、FAP療法を受けて変化した体験が誰かの参考になるかもしれないと思ったからでした。
それと、体感をともなう形で浮かんできた映像は、当時の身体反応が再現されているように感じられたこと、それが自分の体験だという実感が湧いてくる感覚が伝わればいいなと思ったからでした。

フォルスメモリー(過誤記憶)の可能性について説明してもらったとき、それが現実に起きたことなのか、そうではないのかはどちらでもよくて、その出来事が私の中に浮かんできたこと、そのことが重要だという風に説明してもらったので、自分の中でどちらかを判断しないまま、いったん受け止めました。

それまで信じ込んできた現実とのあまりの違いに、どちらが現実なのか頭が激しく混乱する中で、私のよりどころとなったのが、体感でした。

初回面接で先生と対面した時に、「高2から鬱で」という言葉を発しただけで、涙が流れ出したことに自分が一番驚いていて、まだ何も話せていないのに泣き出すなんて弱くて甘えていてダメで変な奴だと思われてしまうとパニックになりました。

先生は何も言っていないのに「違うんです。いつもはこんな風に泣いたりしないんです。大丈夫です。」と一人で慌てて訳の分からない弁解を必死になってしている私を見て、先生は爆笑してくれました。

先生のその反応を見て、頭では「泣いている人に対して爆笑するってどういう反応?」と思いながらも、つられて私も笑ってしまって、いきなり泣いてしまった恥ずかしさも忘れて、一気に緊張が解けた感覚になりました。

そして、この先生になら何を話しても大丈夫なのかもしれないと深い安堵を感じていました。
憐れみや同情を向けられるのではなく、ただ受け止めてもらえたという感覚が初めてで、その安心感に身体はすぐに反応して涙が流れたという不思議な感覚は今でも鮮明に残っています。

幼少期から人前では決して泣かない人になっていた私の中の張り詰めていた何かが、一瞬で解けて解放された感覚は、魔法のようにも感じられました。

私はこのことをきっかけに、頭で考えるよりも身体が何かを伝えていることに注目して、その反応をよりどころにするようになりました。
 
蘇った記憶を自分に起きたこととして受け入れて生きていくか、それとも、それまで信じ込んできた現実をそのまま生き続けるか、大きな分岐点に立ったような気持ちになりながらも、私は自分の身に起きたことを受け入れながら生きる道を選択しました。

というのも、その記憶をなかったことにして生きてきた時間の中では、私は感覚を麻痺させて何も感じないようにして生きることしかできなかったからです。

どこからくるのかわからない得体の知れない恐怖を感じないようにするために、強いお酒を飲み続けたり、過食嘔吐を繰り返したり、強いたばこを深く吸い込んだりしながら、このまま体が壊れてくれたらいいなと密かに死に憧れていました。

そんなことは誰にも言わないし、表面ではハイテンションで無茶することを楽しんでいる、という振る舞いをしながら、何も考えられず刹那的に生きていました。

自分が何をしているのか、何をしたいのか、自分の内面を見ることが異常に怖くて耐えられないという感覚に直面したのは、大学三年生の就活の時でした。

今まで自分の中の怖い領域には近づかないように、うまく回避しながらやりすごしてきたことに直面せざるを得ない状況になって初めて、この恐怖は異常だと自分でも認めるようになりました。

その恐怖を異常だと感じながらも、周りにそれを説明することができず、ただ自分のことが本当に全くわからないと言うだけでは、自己分析から逃げている努力が足りない怠惰な学生でしかない、と自分を責めるしかありませんでした。

どうがんばっても自分のことがわからない。
自分が何を感じていて何をやりたいのか全くわからないし見当もつかない。

この感覚はきっと誰にもわからないだろうと感じながら、私の異常さを人に知られてはいけないと恐れるようになりました。

何もわからない私の真っ暗な空洞に、人間らしい何かをインストールしなければ、と。

普通の人たちが言うことを真似したり、想像したりしながら、一生懸命に普通に見えるように振舞わなければならないと思えば思うほど、それが嘘だとバレることに怯えるようになりました。

死にたいと思えば、それはただの甘えだという厳しく裁かれる言葉が浮かび、それならもう、はじめからこの世に存在していなかったように存在そのものを消したい、消えたい、と強く願うようになりました。

その強い思いは、甘えと安易に裁く言葉に対抗するための、そんな生やさしいものじゃない、とわからせたいための、激しい怒りに満ち満ちたものだったと、今振り返ると思います。

当時の私は感情が麻痺していて自分の感情がわからず、ただ消えたいと願うばかりでした。

何かが破裂しそうなのを必死に圧縮している、その圧迫感で常に息苦しいような、ひたすら苦しいのに、何が苦しいのかがわからない、という状態で頭がおかしくなりそうでした。
 
そういう自分ではどうすることもできないことを無かったことにする、というのが私の得意技のようになっていきました。
辛くて苦しいと感じることは、なかったことにして、明るい現実を設定する。
その現実の中を生きる自分を演じ切る、という風に。

これが現実に適応するためだけに生きていた私が編み出した唯一の生きる術でした。
そうやって私は、何度も自分の人生を新しく設定しながら、衝撃的な出来事の記憶に直面しないように生き延びていました。

(つづく)
 

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