アメリカ育ちの私が考える、他人の目を気にする日本人の良いところ
こんにちは。
株式会社Kanatta代表取締役社長の井口恵です。
先日、真鍋淑郎さんがノーベル物理学賞を受賞されましたね!
私が高校在学中、同じ横須賀高校出身の小柴昌俊さんがノーベル物理学賞を受賞されました。
そのときは久々の日本人の受賞、しかも高校の先輩ということで、とても嬉しかったことを覚えています。
真鍋淑郎さんは日本人とはいえアメリカ国籍を取得されていることも話題になっていますが、今日こんな記事を発見しました。
この記事を読み、私はとても共感しました。
ノーベル賞受賞というすごい成果を出されている方に対して「共感」と言うのも烏滸がましいですが、、記事の題名にもなっている「日本の人々は、いつも他人を気にしている」という言葉は、日本とアメリカの違いをとても的確に表現されていると思います。
そこで今日は、私が感じている日本とアメリカの違いについてお話ししたいと思います。
他人の目を気にしないアメリカ人
私は父の仕事の影響で、小学校の6年間をアメリカで過ごしました。
そのため、今でも「アメリカに戻りたいと思わないの?」とよく質問されます。
それに対する私の答えは、NOです。
理由は、日本の方が便利で安全だから。
たしかに会社で働いていた時は海外での自由な働き方に憧れて、海外勤務を希望していた時もありましたが、自分で会社を経営する中で自由なライフスタイルを手に入れることができた今、わざわざ家族と離れ離れになって、おそらく世界一治安が良くて交通の便もいい日本を離れて海外で暮らしたい、という気持ちはありません。
ただ、幼少期をアメリカで過ごせたことはとても良かったですし、そのような機会を与えてくれた両親には心から感謝しています。
なぜなら、先程の記事の中で真鍋さんも仰っている通り、アメリカでは他人の目を気にしなくて良かったからです。
他人と同じであることを重んじる日本
私は中学1年生の途中という絶妙な時期に日本に帰国したのですが、そのときはどうしても日本の学校の文化に馴染めず、登校拒否をしようかと思うくらい学校が嫌いでした。
理由は、他人の目を気にしないといけなかったからです。
それまでの6年間、自分がやりたいことをやり、他人の目を気にせずどんどんチャレンジすることを推奨されていた環境で育った私にとって、調和や集団の美を重んじる日本の考え方はとても窮屈でした。
まず最初につまづいたのが厳しい校則です。
「なぜみんなと同じ制服を着なければいけないのか。」
「なぜ髪の長さや色、結び方まで指定されなければいけないのか。」
疑問を並べ出したらキリがなかったです。
小学生のときにピアスを開け、もともとの地毛が茶色い私にとって、そもそも校則をすべて守ることは不可能だったので、真面目に全て守ってはいなかったのですが、厳しい校則で縛られた結果みんなと同じになることを強いられている気がして、とても違和感を感じたことを覚えています。
他人との違いが評価されるアメリカ
それまで私が育ったアメリカでは、他人と違うことが評価されました。
「恵は髪が黒くてツヤツヤしてるから羨ましい」
「恵の英語はアクセントがあって特別だからかっこいい」
こんな調子で、いつも周りからみんなとは違う自分の個性を褒めてもらっていました。
(ちなみに「アクセント」というのは要は英語が日本語訛りだということなので、あまり格好良くはないはずなのですが、それも個性として受け入れてくれていました。)
教科の評価も同じで、得意な教科は飛び級する、不得意な教科は落第して下の学年の生徒と一緒に受ける、ということが可能で、得意不得意があることも個性として尊重されていました。
実際私も数学とReading(国語の中で読解力に特化した授業)は飛び級し、Vocabulary(国語の中で語彙力に特化した授業)は落第していました。
かなり凸凹な成績でしたが、不得意な科目のことは特に触れられず、得意な数学をどんどん伸ばすように言ってもらい、頑張って勉強していたことを覚えています。
それが日本に帰国すると、苦手(というか一度も勉強したことがないので知識ゼロ)の社会について猛烈に勉強するよう指導され、得意な数学はもう何もしなくていいと言われました。
自分の得意分野を否定された気がして残念な気持ちを抱いたのもそうですが、何より数学と英語の時間、私が暇そうにしてるのが他の生徒の迷惑だからちゃんと聞けと言われたことに対して反抗心を抱いたことを覚えています(笑)。
そのころから、「日本では自分が将来のために得意分野を伸ばしたり、上の学年の生徒と一緒に授業を受けるなどの挑戦することよりも、みんなと同じであることが重視されるんだ」と思い、それまで好きだった勉強もあまり好きではなくなってしまいました。
日本とアメリカの行動基準
こういう話をすると、個人を尊重してくれるアメリカの方が良いね!と言われがちなのですが、アメリカの考え方をそのまま日本に導入するのも危険だと感じています。
なぜなら、日本人は無宗教の方が多いからです。
何故ここで宗教?と思われるかもしれませんが、海外の方とお話ししていると、信仰を大事にしていることがよく分かります。
一見とても自由に生きているように見えるアメリカ人も、何かの決断をするときに「神に背かないか?」とか、「自分の行動が信仰的にどうか」という点をかなり重視していて、神様の存在が彼らの行動規範になっていることを感じられます。
一方日本人は、おそらく仏教や神道を信仰している方が多いのだと思いますが、そこまで信仰心の強い人は多くないように見受けられます。
私もそうですが、仏教徒らしいことをするのは正月やお盆くらいで、逆にキリスト教のお祭りであるクリスマスやハロウィンに盛大なイベントを開催したりします。
ではそんな日本人の行動規範は何かというと、「世間」です。
何かよくないことをしてしまった際に、「世間体を気にしろ」とか「世間に顔向けできない」という表現をしますが、要は他人にどう思われるかが日本人の行動の基準になっているのです。
「旅の恥はかき捨て」ということわざにもある通り、日本人は他人、中でも普段接点を持つ人の目を気にしていて、逆にそうでない場面では多少恥ずかしいことをしても構わないと思う傾向にあります。
よって、日本人がアメリカの文化を部分的に採用し、他人の目を気にしなくなると、行動基準がなくなってしまい、とんでもない行動に出る人が一定数現れるかもしれません。
日本人が持つ他人に対する思いやり
以上の通り、他人の目を気にするという日本人の特性は決して悪いことではなく、むしろ日本人の行動基準そのものになっています。
そして、日本人がそのような行動基準を持つことによるポジティブな影響ももちろんあります。
私が特に印象的だったのが、東日本大震災の際の日本人の行動です。
信じられないような悲劇が起こっている中、日本ではほとんど暴動や略奪が起こらず、小さい子供も含め、生活必需品を求めて長蛇の列に整然と並ぶ姿などが海外メディアに称賛されました。
このとき、私は日本人であることをとても誇りに思いました。
もちろんこのような行動は、単に他人の目を気にしていることに因るものではなく、日本人の持つ品格や助け合いの精神のあらわれだと思います。
ただ、海外メディアの反応を見て、他人の目を気にすることは、つまり自分以外の人に思いやりを持つことでもあるので、それ自体は決してネガティブなことではなく、そのような行動基準を持つことによるポジティブな影響も計り知れないと感じました。
自分以外の人に思いやりを持って接することができる日本人が、海外のようにいろんな人の個性も尊重できるようになったら、今よりもっと住みやすい、素晴らしい国になる思います。
そうなるためには、私が取り組んでいるジェンダーの問題をはじめ、人種や宗教など、さまざまな違いを受け入れられるようになる必要があります。
それは長年同じ人種だけで生活してきた日本人には時間がかかることだと思いますが、きっといつか実現するはず。
そうなったら今回ノーベル賞を受賞された真鍋さんのような才能あふれる方が日本国内からどんどん輩出されて、日本がより豊かな国になると信じてます。
そのような未来を目指して、まずはジェンダーという側面から貢献できるよう今後も尽力します!
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