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三宅乱丈『pet』『fish』

 三宅乱丈『pet』は特別に好きな漫画だ。大学時代に先輩から教えてもらった。"ペット"と呼ばれる特殊能力者達は、それぞれが独自のイメージを用いて他人の記憶を操作することができる。風、水、魚、ドア。続編のタイトルが『fish』であるのは、主人公のヒロキが魚のイメージを使うからだ。ヒロキが魚のイメージを選んだことにも理由があるのだが。「五十嵐くんだったら何のイメージを使う?」と内藤先輩はニコニコしながら話しかけてきた。

人は、「ヤマ」と「タニ」を持っている。「ヤマ」とは、その人を支え続ける記憶が作った「場所」であり、「タニ」とは、その人を痛め続ける記憶が作った「場所」である。人が持つ数ある記憶の「場所」の中、このふたつの特別な「場所」にのみ、「彼ら」はそういう名前を付けた。「ヤマ」と「タニ」、どちらを失っても、人は生きていくことが、できない…。

 『pet』の序文にあるように、この漫画において最も重要なのが「ヤマ」「タニ」という基本設定だ。そして、俺がこの漫画に強く惹かれる一番の理由もそこにある。
 『pet』と『fish』が何の話かというと、失恋の話であり、喪失の話である。こんな想いをするくらいなら初めから出会わなければよかった。関係性の終わりには誰しもそんな考えが浮かぶことだろうと思う。誰かを、なにかを愛すれば愛するほど、それを失った痛みは命に関わるのだから。身体にはなにひとつ傷が残らないのに、身を引き裂かれるような痛みに耐えられない。この喪失の痛みが他と比べて致命的かつ持続的なのは、ヤマとタニが同じ対象によって作られているからだろう。なにかと出会い愛し合った過去の記憶がヤマとなり、それと離別する現在の記憶がタニとなるからだ。もちろん、実際のヤマとタニはそんなに単純な構造でもないのだが。そして『pet』はその葛藤を読者にも突きつけるだろう。最初からすべてなかったことにもできますけど、どうします?

 人間は二度死ぬ、という例の話を語ったのは作詞家の永六輔らしい。人間は二度死ぬ、一度目は心臓が止まったとき、二度目はみんなから忘れ去られたとき。きっとその通りなのだと俺も思う。だけど、一度目と二度目が逆の順序で訪れることも世の中にはままあるはずだ。まず忘れ去られて、そのあとで人知れず息絶える。人間は二度死ぬと言うなら、そのとき一度目の死を迎えたことになるのだろうか。そしてさらに言えば、他人から忘れ去られるまえに自分自身が自分自身を忘れ去ってしまうことだってきっとあるはずだ。『pet』を読みながら、俺は認知症や記憶喪失患者の姿をたびたび思い浮かべていた。そして姉の姿を。
 臓器疾患の治療において成す術がなくなったあと、最終的に姉が精神科病棟に転院させられたことを母親はひどく恨めしく思っているようだった。ここはあの子のいる場所じゃないのに、精神には何の問題もないのに、と何度か聞かされた。母親のなかにある差別心やプライドを薄らと垣間見ながら、俺は曖昧にうなずいてやり過ごしかなかった。
 精神科病棟に転院してから亡くなるまでの数日間、鎮痛剤の副作用で姉の精神はひどく混乱していた。かろうじて誰が誰かはわかるけれど、記憶がばらばらになっているようだった。姉自身がそのことに戸惑いながら、支離滅裂な言葉を拾い集めて俺たちに投げかける。「必死に頑張ってるんだよ。でも言葉を探しているあいだに何を考えていたかわからなくなっちゃう。伝えたいことがたくさんあるのに伝えられない。誰も待ってくれない。ピーマンに乗って宇宙に飛んで行っちゃう。ピーマンってなんだろう。おかしいよね」。強烈な鎮痛作用によって絶望のなかに留まることすらも許されないのだろうか。それでも姉の明るさは消えなかった。生きたさと死にたさが目まぐるしく入れ替わっているようだった。それはまさにヤマとタニの境目が無くなっていくような体験だったのかもしれない。俺は今でも思うのだ。あの数日間のあいだ、姉はまだ姉だったのだろうか。そして、心臓が止まったあとの身体は、いつから姉じゃなくなっていたのだろうか。

 それを忘れるくらいなら死ぬ、その記憶こそが自分なんだ、それを失ったら生きていく意味がないんだ。人間にとって、記憶とはそれほどの価値があるものなのではないかと思う。そう思えること自体が幸福かもしれないけれど。命に関わる、プライドに関わる。記憶こそが人間を人間たらしめているのだと、『pet』を読んでそう思った。

 「ベイスターズ優勝!みんなでさ、そんな感じがいいよね」
 俺は病室の壁にもたれて泣き崩れていたが、ガッツポーズをして見せながら姉がそう言ったのを聞き逃さなかった。その言葉は、点滅する青信号を走り抜けて、降りていく踏切の遮断機をくぐり抜けて、あらゆる障壁のあいだを一直線に突き抜けてきたように感じた。優勝。みんなでさ。その響きはあまりに幼かったけれど、これが姉の魂なのだろうと俺は信じた。そのときの俺の記憶を幸福だとか不幸だとか言えるだろうか。白い部屋に窓から光が射していて、母と姉と三人だけで過ごしているあの時間を。姉の人生がもう長くはないのだということを決定的に知らされ続けるあの時間を。幸福だとか不幸だとか、どちらでもいいと今の俺は思う。とにかくそれを忘れるわけにはいかない。

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