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プロ棋士になれなかった側の世界(1)
はじめに
振り返ると、周りの人に恵まれ続けた囲碁人生だなとしみじみ思います。残念ながらプロ棋士になることはできませんでしたが、普通の囲碁ファンの方にはできない面白い経験をたくさんしてきたなと思い、noteを書こうと思いました。
文才には自信がありませんが、ダラダラと私の人生を振り返ろうと思うので、よかったら読んで見てください。
いいねやフォローなどしていただけると続編のモチベが湧くかもしれません。
自己紹介
現在はしがないOLですが、囲碁関連で自己紹介おしておくと、以下のような感じです。
囲碁歴23年(2024年現在)
元院生(最高Bクラス)
元宋光復九段門下/元洪道場生
主な実績:
全国高校囲碁選手権大会優勝(個人1回・団体2回)
全国高等学校総合文化祭 囲碁部門 優勝
全国高等学校囲碁選抜大会9路盤部門 優勝
全日本女子学生本因坊優勝
国際アマチュア・ペア碁選手権大会JAPG CUP優勝2回
A Iで勉強するのが当たり前になった今、参考になるかわかりませんが、私が受けた指導法なんかも記憶にある限り書いていければと思います。
※活躍しているプロ棋士の皆さんやお世話になった方にご迷惑をおかけしたくはないので、登場する人物は実際の人物とは関係ありませんと記載しておきます。
生粋のテレビっ子
小さい頃の私はとにかくテレビっ子で、幼稚園に行って、友達と遊んで帰ってきたら、テレビに齧り付いてドラマやアニメを見ていました。
ドラマやアニメの影響を受けて、それが将来の夢になるなら、魔法使いに忍者、外科医にテニスプレイヤーとたくさん選択肢があったはずなのに、3歳の私が「やりたい!」と両親にお願いしたのはなぜか「囲碁」でした。
家にある絵本のセリフを覚えて祖母に読み聞かせをしたり、パズルでタイムアタックをしたりしていた私は、小さい頃から頭を使うことが好きだったのかもしれません。
囲碁をやったことがなかった両親は、娘のわがままに応えるために、紙の碁盤を買い、ルールを覚えて私に教えてくれました。囲碁を始めた当初の私は2眼ある石を一生懸命殺そうとするくらい相手の石を取るのが好きでした。
自分たちだけでは手に負えなくなった両親は、近所の囲碁同好会に私を連れて行ってくれました。しかしそこはおじいちゃんばかりで、初心者中の初心者の3歳の少女は全く相手にされませんでした。途方に暮れていると、その中の1人のおじいさんが親切で、私は晴れて毎週金曜日にH川さんに囲碁を教わることになりました。
当時のおじいさんにしてはすごくハイテクで、私との碁を毎回パソコンに打ち込んでは、どこがいけなかったかプリントしてまとめてくれました。私は触ったことのないパソコンに興味津々で、毎回関係ない文字をタイピングしては優しく嗜められえていました。クソガキですね。
H川さんに教わること数ヶ月、同世代と切磋琢磨できる環境があれば囲碁がもっと楽しくなるはずと、「緑星学園さいたま」を紹介してくれました。
同世代の囲碁仲間
おじいちゃんばかりの環境で数ヶ月過ごした私は、同世代の子供たちが囲碁を打っている光景に驚きました。ヒカルの碁の世界みたいで、すぐに、ここで囲碁をやりたい!と言って教室に通うことになりました。4歳になる手前のことです。
プロ棋士のO澤先生のお父さんがやっていると知って、「プロ棋士になる!」と軽率に言っていた私はウキウキでした。
最初は14級とかだった気がするのですが、石を取るのが好きで、必死に相手の石を追いかけていたら自然と棋力も上がっていきました。
6歳になる頃には初段をもらって上級クラスで勉強させてもらえるようになりました。クラスが上がりたての頃は、今までのクラスと違って年上のお兄さんお姉さんばかりで緊張していたことを覚えています。でも持ち前のコミュ力ですぐに仲良くなりお姉さん達に可愛がってもらいました。ありがたい。
緑星学園本校
東中野にある緑星学園の本校にお邪魔したことが1度だけあります。(そこにも辻さんがいて、姉妹?と聞かれたことを星Iくんが覚えていてくれたので本当だと思います。)
私の朧げな記憶によると、数局の対局の後、布石感覚クイズがありました。
A・B・Cの3択を出されて、生徒一人一人が順番に、3人のプロ棋士の先生方の前にある碁盤に答えを示し、一番良い選択肢は😆(5点)、2番目は😀(3点)、一番悪いものを選ぶと😩(1点)のように顔とジェスチャーで点数を教えてもらえる仕組みでした。
私はなぜか布石感覚がよく、約10問のうち1点の選択肢は選ばずに終えることができました。
しかし、得点集計の時間が事件を引き起こします。
当時は小学1年生で足し算を習ったばかり。5+3など2つの数字を足すことならできましたが、10個の数字を足し算するなんてやったことがなかった私は、自信無いなあと思いつつ点数を言い、3位という結果でお菓子をもらうことができました。
帰りの車でお菓子を食べていると、母から「1点を取らなかった割には、言ってた点数が思ったより低かったね」と言われ、点数を書いた紙を見せると、やっぱり計算ミスをしていて、本当は1位を取れていたことがわかりました。もっと良い景品がもらえたじゃん、、と落ち込んでいる私に母がかけた言葉は「もったいな。計算できないなら後ろにいたプロの先生に聞けばよかったじゃん。」でした。(お察しの通り、小中学校のテストで90点台を出すと、点数を褒めることはなく、何を間違えたのかを追求してくるタイプの母です。)
私(6歳)は心の中で、(初めての場所で、あの緊張感で、初対面のプロの先生に話しかけられるわけないやん…)とツッコミを入れつつ、26歳になった今でも少し傷ついています。私が親になったら、こういう場面では、計算ミスしても3位とか天才じゃん!と褒めてあげたいです。
私の性格
囲碁をやっている人あるあるですが、私も例に違わず、全てのことに負けず嫌いでした。(今はだいぶ落ち着いてきたと思っていますが)
私の負けず嫌いエピソードは以下の通り。
幼稚園の時、泥団子は誰よりもサラサラに表面をコーティングできましたし、鉄棒もできるまで練習して空中前周りでグルングルンやってましたし、学芸会があれば主役に立候補し、風邪で休んでいた時に役決めが終わってしまっていて主役になれなかった時は泣きました。縄跳びの技ができるようになると持ち手にテープを貼ってもらえたのですが、どんどんテープが増えていくのが嬉しくて、学年で唯一、二重とびを成功させて金のテープを貼ってもらいました。
小学1年生の時、校内の硬筆展で何の賞にも選ばれず、自分の字が下手であることにショックを受けた私は、次の日から字を猛練習して次の年には金賞を取りました。その時にできた中指のペンだこは今も残っています。
小学5年生の時には、学校の図書室の貸し出しカードが25冊ごとに色が変わるのが嬉しくて毎日図書室に通い詰め、400冊くらい読んでいた記憶があります。おかげで受験勉強で国語には苦労しませんでした。将来子供ができたら本だけは読ませようと思います。
上記の通り負けず嫌いの限度を超していた私の棋力は順調にあがり、二段をもらった小学2年生の7月、母から衝撃の一言を言われます。
「仙台に引っ越すから、夏休みが明けたら新しい学校へ通うのよ。」
え、仙台ってどこ。。