見出し画像

被告 シンデレラへの判決 主文「Joker:フォリ・ア・ドゥ」

シンデレラストーリー


2019年トッド・フィリップス監督作の映画「Joker」におけるアーサー・フレックのキャラクターは単純明快である。彼はシンデレラだ。はじめは完全な被害者として登場し理不尽な目にあい続ける。ある日ついに彼を暴行するサラリーマンたちを射殺し、その後自分の意志で復讐の殺人を行っていく。最後には究極の復讐として世界=ゴッサム・シティに対する暴動がおこり、アーサーはジョーカーとしてアイコン、カリスマ的な犯罪のヒーローになるというストーリーである。

キャラクター設定は倫理的観点から丹念に作りこまれている。生まれは私生児であり父親は不明である。幼少期に母親とその元恋人から凄惨な虐待をうけ脳障害になり笑いの発作に苦しんでいる。将来の希望であるコメディアン稼業も才能がまるでなく、尊敬していたTV司会者マレー・フランクリンからは「まったく笑えないものを笑いものにする」ためのネタとして扱われる。最初の犯行である地下鉄のシーンにおいては、泥酔した三人のサラリーマンたちに女性が絡まれる場面に居合わせたアーサーに笑いの発作が起こってしまい、それによってターゲットがアーサーに移っている。偶然だが、結果的に自分を囮にしてアーサーが女性を救ったかのようにとらえることができる。また、三人がかりでアーサーを引き倒し激しく踏みつけるほどの暴力であり、彼は命の危険にさらされていた。アーサーが銃を使用することを観客が納得するのには十分な描写だった。仮に一人目に対する銃撃が正当防衛だとしても、逃げていくサラリーマンを背中から何度も撃つのは故殺にあたるだろうが。その時点でアーサーは単なる被害者から復讐者として変化していることがわかる。
鏡の前の暗黒舞踏。アーサーがジョーカーへと羽化した蠱惑的なシーンである。

全編を通して「理不尽の犠牲者」「無辜の被害者」の怒りが爆発し復讐を行う、という筋書きに対し丹念に「観客が同情し復讐に納得できる」理由を付与してある。普通の市民たち、つまり倫理主義的左派リベラリズムの人道主義と右派のマチズモおよび復讐的攻撃性の両方を満足させる構造が用意されているということだ。

「Joker」は一貫して被害者への同情と弱者排除社会への告発という倫理主義的観点を保持しながら、復讐のカタルシスを楽しむシンデレラストーリーである。暴動のアイコンと犯罪のカリスマとは、お城と王子様の謂にすぎない。魔法の力はジョーカーの世界では拳銃だろうし、舞踏会の内容は生放送中にマレーを射殺することであり、王子様とはジョーカーを祭り上げる暴徒たちと暴動そのものになぞらえることができる。かくしてアーサーを虐げた父の象徴であるトーマス・ウェインは暴徒に殺され、世界=ゴッサム・シティは破壊されていく。ラストシーンでの、病院の光り輝く真っ白な壁とリノリウムは白亜の城であり、残された血の足跡はいわばガラスの靴である。シンデレラがお城の中をはしゃぎまわって映画は終わる。

映画の公開後、自らをジョーカーになぞらえた犯罪が世界中で多発した。被害者意識の反転を正当性にすえた犯行は、すなわち「わたしもシンデレラになりたい、いつかガラスのくつをはいてお城で開かれる舞踏会に行くの。そして王子様といっしょになって永遠に幸せになるのよ」と夢見る、お花畑の少女と形而上学的に同一である。

きみはジョーカーフォロワーであって、ジョーカーではない


映画の外にあるもうひとつのフィクション、現実にはジョーカーは存在せず、ジョーカーフォロワーのみが存在する。ジョーカーに憧れ、その模倣を行う者は、もれなくジョーカーフォロワーとなってしまうのは皮肉というほかにない。作中世界でやられ役という必然的な要請によって用意された最底辺の存在であり、バットマンにぶちのめされ、ジョーカーに冗談のタネとして殺される、読者から最も人気のない哀れな雑魚キャラである。

仮装と銃器による大量殺人は特殊な技能も才能もコストも努力も苦労も研鑽も必要なく、ジョーカーフォロワーでも簡単に模倣できるチープさから選択されるのだが、本人たちはその安直さに気がついていない。倫理を踏み越える犯罪が、彼らの価値の根拠となるなら、それゆえに倫理というものに重きを置く他人の価値観によって定義されていることになる。
生まれてからずっと教え込まれてきた市民的な倫理主義、お仕着せの人道主義に全幅の価値判断を委ねておきながら、その単なる反転を自分の意志で成し遂げた新しい価値の実践であると思い込んでいる者に、創造できるものはただ一つしかない。自己欺瞞だ。

悪人にも分別は求められるべきであり、狂気にも守るべき儀礼的形式主義(フォルマリズム)というものがある。善良な市民との違いは、「べき」が他律ではなく自律にのみあるという一点だ。既存の価値観の反転は自律などでは断じてない。自ら模倣ではない価値を選別し実行する意志と判断力のない人間が、蔑まれるのは理にかなったことといえる。

おしなべて、この類のありふれた量産型の悪党気取り、ルサンチマンの掃き溜め、貴重なはずが何故か数多に存在するナルシスト、自称超人(Übermensch)らには自由意志への内省がまるでない。進化心理学的な観点からは、支配力(ドミナンス)形成を志向し利益を得るための心理モジュールに忠実なホモ・サピエンスが失敗し自らの適応度を低下させている例として総括できる。ジョーカーフォロワーたちの狭隘で主観的な自己認識が彼ら自身に万力のような淘汰圧をかけている。
ジョーカーがマレーに語った” My life is nothing but a comedy.” “Comedy is subjective.”という科白はいまも虚空にひびいている。

意図された「失敗」作

「Joker:フォリ・ア・ドゥ」においては、現実でジョーカーフォロワーたちを数多生み出してしまったトッド・フィリップスの反省文ともいえる内容である。
徹底した一作目の否定、「反・シンデレラストーリー」として夢見る少女たちに冷や水をぶっかけるために製作された、意図的な「失敗」作である。
映画製作において、倫理主義的観点に基づいて主人公がジョーカーであることを捨てる、つまりエンターテインメントを意図的に捨て、説教をするためにわざと結末を投げ捨てるというアプローチを筆者は見たことがなかった。珍しいパターンの失敗である。
市民的倫理主義がエンターテインメントを上回って採用されたという、貴重で稀有な失敗といってよい。

トッド・フィリップス、ホアキン・フェニックス、レディ・ガガらは、結末が不満とされても全体のストーリー展開とミュージカルは絶賛されると計算していたのだろうか。残念ながら、作品の意図とは別にそれらもあまり評価されていない。これは意図せぬただの失敗なのだろう。意図的な失敗とそうでないものが混ざりこんでしまい、この映画は評価に苦しむものとなった。
アーサーに対する陰惨な扱い、多すぎるミュージカルに反比例して減じていく劇的印象、ミュージカルのたびに停滞するストーリー進行と長すぎる上映時間は、ジョーカーを愛した罪により連帯責任として観客に課される禁固刑である。
あの結末が監督の意図した通りであり、観客の否定的評価を予想していたとしても、作品の社会的影響を考慮したことだとしても、そのメッセージを読み取れていない観客がいたとしても、失敗はやはり失敗であることに変わりはない。

一方で、筆者はこの作品が嫌いではない。役者の演技力や舞台装置や衣装などは見るべきものが多数あったと考えている。愛らしいリーの望み通り、ジョーカーと共にゴッサムで「山」と「小さな丘」をいくらでも作ればよろしいと思っていた。それが亡骸と瓦礫の山であり、Little Hellの言いかえに過ぎないとしても。
特に、アーサーとリーの二人が鉄格子越しのキスを接触禁止違反として咎められたのちに、アーサーがタバコの煙をリーの唇へ細く吹きかけ、リーがそれを吸い込む「紫煙のキス」は出色の演出だったのではないだろうか。

適切な相対化・大局的なメタ認知の構築


映画だけではなく、あらゆる作品、歴史的事実、科学的、人文学的、宗教的知識を収集する活動、いわゆる「教養」と呼ばれる自己ブランディング商品がある。ともすれば容易にろくでもないスノビズムに転じるものだが、教養とやらにも一つの美点が伺える。それは多くの知識からなる多面的な観点が生み出す相対化だ。
作品の製作者は、表現活動を通して鑑賞者に影響を与えようとするものである。現に作品は現実の人間にピエロの恰好をさせるほど影響力を持つものもある。しかし同時に、フィクションは現実を弱毒化したウイルス=ワクチンにしかすぎない。どんなに影響力の強い作品・思想・あるいは歴史的事実であっても、自らの意志で生の目的を定めるという観点からすれば、それは多層的・両義的・矛盾をも受け入れる複雑なものの考え方によって適切な相対化がなされてしまうだろう。

また、人の心を動かす寓話、おとぎ話、ナラティブや神話はフィクションであるのと同時にフィクションではない。真実の代理表象ともいえる。しかし、それら単一を絶対的なものと受け入れるのは、知的訓練を怠った証拠であろう。そしてその知的訓練は、生涯をかけて現実の出来事と、弱毒化されたウイルスを摂取し、吟味し、比較し、選択し、考察をし続けるということで行われるものである。他人とは異なる自らの実存は、一映画によって築かれていくものであると同時に、それ以外のすべてによって肯定と否定の相克がなされてゆくものなのだ。現実の言論とフィクションからあらかじめ全ての有害なメッセージを取り除いておこう、という表現規制のアプローチは、必然的に平板で一面的な、つまり無能が勝手に想定した低能向けに施すパターナリズムにならざるをえない。

どんなフィクションの傑作や現実の重要な歴史的事象も「これはこれ」として「一つの真実で考察に値するが、同時に一つの見方にすぎない」と両義的に判断できることが、適切な相対化といえよう。大局的なメタ認知の構築と言いかえてもよい。それは自身が創造あるいは選択する価値、実存にも、全く公平に適用されなければならない。この種のニヒリスティックな視点はナルシシズムの排除という解毒作用も持っている。どんなものにも多層的な意味合いがあるのだ。
全く逆に、教養が単に人を見下すためのスノビズムとなりナルシシズムと偏見を助長することもある。知的訓練によって自らの偏見を理論的に“洗練”させ正当化する例もあるだろう。しかしそれもやはり、適切な相対化つまり大局的なメタ認知の構築が失敗しているといえる。

「現実とフィクションの区別がつかない」人間たちのフォリ・ア・ドゥ


「Joker」を信じて自らをシンデレラと誤認するプリンセスは、「Joker:フォリ・ア・ドゥ」にてお花畑から市民的倫理主義の世界に引き戻されてしまった。アメリカは銃規制に失敗し続け、フェンタニル濫用の蔓延を止めることもできず、2021年合衆国議会議事堂襲撃事件を引き起こし、経済格差と教育格差による分断が進行し続け、差別と貧困の放置が全ての犯罪に拍車をかけている。あらゆる失敗の原因に目を逸らしてディープステイトと移民とWokeと極右のせいにして部族主義を基調とした連帯をはかるという七転八倒の最中である。
現在のアメリカ合衆国はジョーカーどころか、フィクションであるゴッサム・シティをもはるかに超えた惨状を呈している。現実にはどうすることもできない無力感に、善良な市民たちはさいなまれている。その事実を糊塗するために、自己欺瞞のストーリーを維持するために、フィクションで語られる価値観を操作することが必要なのだ。現実をどうしても変えられない者たちが、フィクションの影響力を恐れ、そこで語られる価値観を躍起になって変えようとする。これこそが「現実とフィクションの区別がつかない」人間である何よりの証拠だろう。
人類史というスクリーンを通したフォリ・ア・ドゥである。

トッド・フィリップスのパターナリスティックな倫理主義に則って、銃を握ったお姫様たちからおとぎ話だけが取り上げられてしまった。
何ともつまらない結末で、この現実という物語は終わる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?