人から「ありがとう」と言われることが人生の充実を増やすとしたら、テクノロジーの進化はその役割を消し、人の充実を奪うのだろうか?
地方に住んで一つ大きなカルチャーショックがある。それは能力値ではなく、関係性だったり爽やかさ、人間関係で仕事が振られるということだ。
つまり、
果たして高度で無味乾燥な負担免除(スキル、テクノロジー)は要らないのだろうか?
スマホとSNSという膨大な情報と、他人に惑わされて(ITリテラシー教育のなされないまま)社会が空洞化し、先進国で最も自己中で、最も自殺率の高い国ができあがってしまった。
貨幣というテクノロジーは感謝を減らしたか?
大工さんに家をつくってもらい、漁師に魚をとってきてもらう。
生きるためには、自分のできないことを誰かにしてもらい、そこに感謝が生まれ、必要とされ、承認が生まれ、心を充実させる、というプロセスを人は踏んできた。
やがて時代は進み、貨幣が生まれた。一度、貨幣に変えてしまうことにより、誰が釣ってくれた魚かがわからなくなり、感謝が減った。
駅員さんが切ってくれた切符を改札機がするようになった。会話も感謝も減ったのである。
人の役割
テクノロジーで面倒は減る、が、そもそも人と人はどうして生きているのだろう。
人と心を通わせて交流をして喜びを得るためではないだろうか。
仕事した後に飲むビールはうまい。我慢した後に出すトイレは気持ちい。バネはしゃがみこんだ後に高く飛ぶ。
その過程を楽しむものなんじゃないだろうか。
ジェットコースターもスノボーも結局同じとこに帰ってくるんだよ。無意味なものだと思わないか?
つまりプロセスなんだ。
低いバランスシートでゆとりのある生活を
地方にきてまず驚いたことは飲食店の営業時間の驚愕の短さ、そして自己都合ですぐ休んじゃう。朝8時から13時まで営業、みたいなうどん屋さんばっかりな香川だった。
ついつい、「それでやってけんのかよ!」って余計な突っ込みを入れたくなるが、家賃相場を考えると、やっていけるのである。
つまりBSを低く設定し、沢山儲からなくてもよいので自由時間を優先するということだ。
ここで
都会の高いスキル=多機能なテクノロジー と仮定する。
香川のうどん屋の論理で行くと、家賃が低いので、時間やゆとりある気持ちを蔑ろにしてまで多機能なテクノロジーは必要がない。
高機能と高プライドにへつらって、生産性を高める必要はないのである。
それなのに僕は東京から地方に移って、高価なスキルと人脈を与えて”あげる”というスタンスを無意識にとってしまって、うまくワークしないことがあった。反省しかない。
人の目的
大事なことは隣にいる人間を幸せにし自分が幸せになることだ。
無味乾燥な負担免除(テクノロジー)が誰を幸せにするのだろうか。(力仕事をテクノロジーで負担するなど、身体の延長としてのテクノロジーはがんがん導入するべきだ。働き手は減少していく)
本当にスマホは人を幸せにしているのだろうか。
生産性だけに囚われてはいけない。目的は幸せに生き、幸せに死ぬことだろう。
生産性はあくまで手段だ。
ジョブスは今わの際に、もっと家族との時間を大切に、もっと旅行をしたらよかった言って最期を迎えたらしい。
負荷をかけて稼ぎたい時期もあるだろう。ゆとりを持って生活したい時期もあるだろう。
ただ主体は自分だ。テクノロジーに支配されてはいけない。