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閑話休題〜蜜柑か檸檬か。
芥川龍之介『蜜柑』 vs梶井基次郎『檸檬』
私は蜜柑派。小学生の頃、大きな活字で組まれた子ども向けの単行本で、芥川の短編集を読んだ。『鼻』は面白くて繰り返し読んだし、『羅生門』は恐ろしかったが、初めての「文学的体験」をさせてくれたのが『蜜柑』だった。
二等客車に乗っていた主人公の向かいに、みすぼらしい身なりの小娘が座る。霜焼けの手には三等切符が握られていて、もとより不快と倦怠を抱えていた主人公は娘の間違いに苛立つ。しばらくして娘は、窓を力づくで開けてしまい、入ってきた黒煙に主人公は咳き込むが、そこを抜けた踏切で弟らしき小さな子供たちが三人、小鳥のように声を上げており、その上へ五つ、六つ、蜜柑がばらばらと降るのを見た。奉公へ赴こうとしているらしき娘が、懐から出して投げたのだった。これを読んだ時、一瞬にして目の前に空を舞う橙色の蜜柑が鮮やかに浮かび、文章で絵が描けるのだと初めて知った。「描写」とか「絵画的」などという単語はまだ覚えていなかったけれど、娘と弟たちの切なさに胸が締めつけられる思いがした。人生の初めの、鮮烈な出来事だった。
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梶井基次郎の「檸檬」はもっと歳をとってから読んだ。鬱屈を抱えた主人公が、果物屋で檸檬を一つ、買う。その色や形を好ましく思っていた檸檬の香りを嗅ぐうち、いっとき、心は晴れて幸福に思い、日頃は敷居の高い丸善に思い切って入る。しかし、書架から画集を何冊も取り出してみるが、憂鬱がぶり返して、それらを元に戻すことができずに積み重ね、持っていた檸檬を黄金色の爆弾よろしく、その上に置いたまま店を出る。丸善が美術の棚を中心に大爆発するのを夢見つつ。
作品の舞台となった丸善京都が閉店した時には、ちょっとしたニュースになった。それも、ずいぶん昔の話だ。今は、場所を変えてあるが、私は京都の丸善には行ったことがないので、一度、訪れてみよう、とこれを書きながら思った。今も檸檬を置いていく人がいるらしい。
文学好きには、昔から、いずれが好きかの論争があるようで、作家同士の対談で読んだ記憶がある。風俗は古びても、人間の機微は変わらないのがわかるし、果物が作品の道具ではなく、精神の象徴として輝いている。両作ともごく短く、青空文庫で読める。