生き方の芸風
最近、文章を書くとnoteにアップしてしまう癖がついてしまった。公開用の文章ばかり書くのはよくないような気がしてきた。淀みが失われてしまう。
(時代的なメディアと個人のかかわり方に関連しているのでしょうが、人間の深遠さがないことになっていく気がします。そのうち本当になくなってしまいそう。)
いろいろ思うところが多すぎて、また、すべてを公開してはいけないような気もして、けれども、公開したくなってしまう露出狂的な欲求もあり、書いたもののところどころを抜粋してしまおうかと思います。
暗号のようになってしまうかもしれない。
一晩寝てわかったことがあります。私の走り方は、セミの脱皮観察することで舞踏譜とか間というものを感得したり、シュノーケリングで体の研究や体への刺激を入れたり、ご飯を真剣に作って食べたり、さまざまなダンスを経験してみたり、複数のダンサーさんから様々なインプットをいただくなどです。それらの行動はいがらっしというダンサー、もとい、芸術家彫りだし作業だったのでしょう。芸術家の作り方ってどこにも明文化されていないから、これを実践できているということに関しては自分を誇りに思っていいと思う。一定の効果は出ている気がします。
さいきん人からいただいた言葉。「生活を大切にしなさい。」(大野一雄)
げ。わたしは雇用されるのが向いていないだけじゃなかったんだ…。いろんなレイヤーにおいて、型を踏襲するのが不得意なのだと思う。
おもえば博士論文にしてもそうだった…。「たかが博士論文なんだから、テーマに正面から向き合うのではなく、範囲を区切って、体裁整えてさっさと完成してしまえ」と何人に言われたろう。「なんだかすごいsophisticationを感じるのだが、これは一体何?」というコメントをくださったプロフェッサー(宗教学)はすでに亡くなってしまった。彼女の死に間に合わなかった。完成できなかった。完成しないというより、空中分解という語がふさわしい。ある程度形になってくると、制作過程の中で疑問がわいて変容させ続けて壊してしまう感じ?視点をくるくる移動させるので、物の見え方が変わってしまう。コーヒーカップ一つでも、見る角度によって取っ手が見えたり見えなかったり、底しか見えなかったりするように、くまなく語ることはできない。それと同じ。
割といつでも、ビギナーズラックというか、恐る恐る挑戦する一つ目はよくできるのだが、回数を重ねれば重ねただけ、時間をかければかけただけ、空中分解の度合いがすごくなってしまう。私は私が見つめているスケールそのものを完成するだけの能力もスキルも持っていなくて、いつまでたってもそれが足りる日が来ないことがわかっている。老眼なのに、見つめる力だけが成長してしまう。ああそうか。遠視だから、近くが見えにくくて老眼が早く進んでしまうのね。
(書いた当時ではなく、まさに今思ったのですが、これは脱構築?にみえるかもしれない。そういうとカッコよく響いてしまうけれど、それだってもう古いし、そもそもデリダは好きではない――あ。頭の中で何かつながってしまった。先週ハイデガー後期の『ヒューマニズムについて』を友人から紹介されたのですが、いま私に響くのは大文字のBeingなのです。客体化しようのない、自分もその一部としてとりこまれているような、境界線がない大いなる存在。いっぽうで、脱構築って、どこまで行っても現世的だし、客体化から逃れられないよなあ。だから苦手なのかもしれない。)
今回はダンスですが、やっぱり同じ方向、空中分解に向かっているかもしれません。
このジャンル越境型の癖?は何なのだろう。治らないんですよ…。
(おそらくジャンルにかかわらずBeingにtouchしたくなってしまうのだと思う。その試みは(構造的に)必ず挫折するので、現世的に成功できない、収入やステイタスにつながらないという悲惨なオチにあらかじめ運命づけられている気がします。)
でも、空中分解する過程が私の在り方だったり作品だったり、ととらえることはできないだろうか。一生成功しないという生き方の芸風。成功しなかった経験が、私をおそろしく豊かにしてくれているのですが。それを認めるのは逃げですかね。
そんなのはマスターベーションだという意見もあるでしょうが、人生なんてマスターベーション以外の何物でしょうか。
要 立ち止まる訓練。
要 視点を固定する訓練。
要 複眼的には見ない訓練。