仏教における身体性(大げさなタイトルをつけてみた)

2021年8月21日 22:36

白隠(1686-1769)の「夜船閑話」の現代語訳にネット上でばったり出会ったので、おもわず足を止めて(?)読んでしまった。前回「夜船閑話」を読んだのは、たしか頭痛に困り始めたあとなので、10年以上も前だ。

それにしても、白隠の健康オタクっぷり、自己の身体の観察フェチっぷりといったら頭が下がる。迷いなく呼びたい。わが師、わが友、ソウルメイト。当時はnoteなんかないので、夜、菜種油か何かの明かりをたよりに、一人、その日に気づいた身体に関する発見を硯に向かって書き溜めていたにちがいない。誰に見せるわけでもなく、でも記録したい。うはー、こんな変化あったー、み つ け た ―、的な。一日の終わりに、白隠と差し向かい、互いの本日の発見をシェアし合いたいが、300年の隔たりはいかんともしがたい。

とはいえ、文字記録は時空を超えることができるので、私はいま白隠の恩恵を受け、かつ、一人で対話することすらできるけれども、もう一人のわがソウルメイト、時衆の一遍(1239-89、ダンサー)とは、つながるのが難しい。

ダンスが時空を超える方法はあるのだろうか。

現存する念仏踊りは、ゆっくりで動きの少ないものであるが、一遍が活動していた当時の踊りは「欣喜雀躍」と説明されているから、現存するものとはかけ離れたものだったろうと想像するよりない。(※1)私はついアフリカンダンスを思い浮かべてしまう。汗飛び散らせて地を踏み鳴らすような。そのように踊る心理状態を「共有」してつながるという方法があるかもしれないが、それが本当に「共有」なのかどうか確認する方法はない。

不要な情報でしょうが、「一遍聖絵」等に描かれた一遍は背が高く、筋肉質で引き締まり、ほかの宗派の開祖の見た目とは一線を画しています。
身体、使いましょうね。

※1 中世の能の上演スピードを復元したものを見たことがあるのだが、現在の能よりも数倍はやく、あんな速さで幽玄って何?という感じであった。念仏踊りがいまよりずっと速く激しいものだったろうと考えるのも的外れではないと思う。

いがらっし

#ダンス
#舞踏
#身体意識

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