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マイティ井上

割引あり

現役レスラーでは国際プロレス、全日本プロレス、レフェリーとして全日本プロレスとNOAHで活躍してきたマイティ井上さんが死去した。マイティさんは9月に発売した『Gスピリッツ Vol.73』で昭和49年代のプロレスについてインタビューで答えていたが、これが生前最後のインタビューになるとは思わなかった。

自分が初めてマイティ井上の試合をテレビで見たのはプロレスファンを始めた1981年10月、全日本プロレス蔵前国技館でミル・マスカラスの保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦した試合だった。この時のマイティさんは崩壊した国際プロレスから全日本プロレスへ移籍したばかりで、いきなりマスカラスの相手に抜擢された。マスカラスの保持するIWA世界ヘビー級は個人所有のベルトだったが、まさか国際プロレスの至宝と同じ名前のベルトに挑戦するとは、皮肉めいたものを感じたと思う。試合は激しいテクニック合戦の末、マスカラスが勝って防衛となったが、後年、井上本人はマスカラスを「自分のやりたいことしかやらず、相手を引き立たせない」と嫌っていた。

全日本プロレスの所属になってからはトップ戦線には立たず、アジアタッグ戦線を中心に中堅として活躍していたが、そのマイティさんがいきなりジュニアヘビー級となって、チャボ・ゲレロの保持するインターナショナルジュニアヘビー級王座に挑戦することになった。当時の全日本プロレスのジュニア戦線は大仁田厚が中心だったが、左膝蓋骨粉砕骨折で長期欠場となると、ベルトは大仁田のライバルとして扱われていたチャボ・ゲレロに渡り、その挑戦者に井上を抜擢した。決めたのは恐らく佐藤昭雄だろうが、チャボ・ゲレロに対抗するテクニシャンは井上しかいないと考えたのだろう。

しかし、挑戦してすぐ奪取とはいかず、1984年2月、地元の大阪で3度目の挑戦でやっと奪取、インターナショナルジュニアヘビー級王座は翌年にダイナマイト・キッドに敗れるまで、井上の時代が続いた。敗れた後は中堅に戻っていったが、この間はジュニアのウェイトを維持しなければならないことから、キッドにベルトを明け渡したことでひと段落つける思いだったと思う。

自分が90年代、頻繁にプロレス観戦するようになってからのマイティさんは前座のポジションが主になり、時にはジャイアント馬場さん、ラッシャー木村さんとのファミリー軍団の一員として、永源遥&大熊元司&渕正信の極悪商会と対戦すれば、大熊が亡くなると、マイティさんが極悪商会側になって馬場さんとラッシャーさんと対戦したりなど、一歩引いたスタンスを取っていた。

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