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浅野起州とIWA JAPAN

割引あり

IWA JAPANの社長である浅野起州さんが亡くなられた。享年72歳。10月5日にIWA JAPANの解散が発表され、当日に公開記者会見の場に現れたのが最後の姿となった。

浅野社長のことを語る前に、IWA JAPANという団体のことを振り返りたい。IWA JAPANは杜撰な経営の末、活動休止になったW☆INGの後続団体で、W★INGプロモーションでマネージャーとして活躍していたビクター・キニョネスによって設立。旗揚げ当初はキニョネスのルートでテリー・ファンクやキャクタス・ジャック(ミック・フォーリー)、テリー・ゴーディやタイガー・ジェット・シンなどが参戦。また、さくらえみやTAJIRIがデビューしたのもIWA JAPANだった。
当初は日本人エースに荒谷信孝(荒谷望誉)や金村ゆきひろ(金村キンタロー)がいたが、旗揚げして間もなく荒谷はWAR、金村はFMWへ移籍したため離脱。その代わりに、大仁田厚と袂を分かったターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原の真FMWが参戦し、後藤が実質的に日本人エースとなった。インディーでトップだったFMWが大仁田厚の引退と共に低迷すると、1995年8月20日にFMWの聖地だった川崎球場へ進出。一時はFMWをしのぐ勢いを見せていた。

ところが、キニョネスが自分の配下のレスラー達と共にIWA JAPANを離脱し、FMWへ鞍替えすると、山田圭介(ブラック・バッファロー)が代表に就任。WWEでフロントを務め、全日本プロレスでブッカーを務めてきた佐藤昭雄を専務取締役として招き、ECWとの提携で巻き返しを図ろうとした。しかし、今度は佐藤が新団体FFFに誘われ、後藤ら真FMWと共に離脱してしまう。
IWA JAPANも活動休止の危機に晒されたが、なんとFFFが旗揚げを前にして崩壊してしまった。そこでIWA JAPANはFFFに参加するはずだったザ・グレートカブキを招き、団体を存続することができるも、1998年にカブキが引退すると、翌年には山田が代表を辞任し退団してしまう。

そこで表舞台に出たのが、後援者としてIWA JAPANに携わっていた浅野社長だった。

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