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三沢光晴を忘れない
2009年6月13日、三沢光晴が亡くなって、もう15年が経過しようとしている。
自分もこれまでプロレスヒストリアを含めて三沢が亡くなった日を何度も振り返っているが。改めて振り返ると、一報を知ったのは「プロレス格闘後DX」での試合速報で、一時心肺停止という言葉が出た。
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自分はこの時も、三沢はどんなに苦境に立たされても、必ず立ち上がってくると信じていたが、一抹の不安があったのも事実だった。亡くなる1ケ月前の京都KBSホール大会、会場入りした三沢はどんなにしんどくてもファンサービスにはしっかり応じていたのに、この日ばかりは”近づくな”と言わんばかりのオーラを出して、ファンサービスを拒否していた、
当時のNOAHは日本テレビによる地上波中継が打ち切り、TV局から支払われる放映権料が大幅にカットされたことで、資金繰りに苦しみ、また三沢自身も全日本プロレス時代からの四天王プロレス時代のダメージが齢を取るにつれて出始め、満足にトレーニングもできない状態にだった。それでも三沢は自分が出ないと観客が入らないという責任感でリングに上がり続けていた。
しばらくしてYahoo!ニュースで三沢の訃報を聴いた瞬間、ショックを受け愕然としていた。そして思ったことは”バカやろう!””ふざけんな!”の言葉だった。なぜだかわからない、自然と出た言葉だった。今思えば悔しさがこみあげてきたのかもしれない。
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三沢の死因は「頚髄離断」(要は首の脊髄が切れた状態)なのだが、医師によると、その症例は見たことがないらしく、車の轢き逃げに遭って何メートルか引きずられたか、頭を2~3回捻って回すようなことで初めて見られる症状で、頸椎が離断するなら、首の骨骨折や脱臼があるはずなのに、骨には損傷がなかった。そんなことが起こりうるのか、医師ですらわからない、つまり齋藤彰俊のバックドロップが原因で起きたことなのか、わからないというのだ、人の体の中はまだわからないことがあるというが、三沢がなぜ亡くなってしまったのか、今となっては永遠の謎になってしまった。
三沢が亡くなった15年、亡くなってからもいろいろあり選手も入れ替わってきたが、今でもNOAHという看板だけは残っている。NOAHの看板は三沢光晴が遺してくれた数少ない財産、それは今でも変わらない。
「スパルタンX」が流れるとき、三沢光晴が出てくるのではと今でも思う。それがある限り、三沢光晴の存在は忘れることが出来ない。