【11/9】ライク・ア・レター・イン・ア・ボトルーーKEYTALK、2年ぶりの全国ツアー千秋楽を観た
KEYTALKがアルバムを出さなかった。しかも、2年も。
2年程度なら、それ程珍しい事でもないと思われるかもしれない。もう5年も10年もアルバムを出していない、HUNTER×HUNTERみたいなバンドだって少なくないなか、何を贅沢を言っているのだろうとは我ながら思う。
先日、11月9日に行われたKEYTALKの約2年ぶりのツアー千秋楽に赴くにおいて、音源を改めて聴き直しているとき、ふと、彼等が“2年もアルバムを出していなかった”という事実に気づき、やや戦慄した。彼等に限って、それは言わば異常事態なのだ。
なんたってメジャー以来年1単位で必ず音源を出していたバンドだ。過去には「ライブでたくさん曲をやりたいから」という理由で1曲平均3分、17曲入って1時間足らずのアルバムも出した程だった。そんな音源達を引っ提げてインディーズ時代には車一台で全国ツアーを回りまくり、メジャー進出後には夏フェスを制覇し、大トリを飾り、ファンクラブイベントまで積極的に行っていた。狂気の沙汰、とまでは言わないが、立派なワーカホリック、いつ休んでいるのかリスナーに心配すらされていた。
そんな彼等が約2年のブランクを挟んで、初めて迎えたツアー最終日。アンコール最後の曲を前に、メインコンポーザーたるベースボーカル首藤義勝はゆっくりと、言葉をひとつひとつ丁寧に、噛み締めるようにして言った。
「先が見えない中作り始めた今回のアルバムですが、それでもいつかみんなと会えて、直接伝えられる日が来ると想いながら作った曲を最後に、心を込めて歌って終わりにしたいと思います」
いつもの彼の、落ち着いた心地好い高めの声音。アルバムのリリース告知後に公開されたアーティスト写真よりも深い色味に変わり、襟足が少し伸びた髪。
2年のブランクの重さを実感するとともに、我々リスナーが当たり前だと思っていた彼等の日頃の八面六臂の活躍こそが実は真の異常事態で、その当たり前の儚さを改めて知る。
ライブ当日の天気は当代きっての晴れ男バンドにはあるまじき大雨だった。会場はZepp Tokyo。年内に閉館し、その跡地には都の開発でまた別の、大きなイベントホールが出来るという。年内はここでのライブに行く予定が筆者には他になかったため、久しぶりのKEYTALKのライブでありながらZepp Tokyoの姿を見るのは最後という事になる。
余談にはなるが、筆者が初めてKEYTALKのライブを観に行ったのもZepp Tokyoだった。5年以上前のやはりアルバムリリースツアーの最終日。その日も確か台風が直撃して、横殴りの雨に殴られながら物販に並んだ覚えがある。その日に同行してくれた友人が、最後のZepp Tokyo公演となるこの日もまた、雨の中物販に付き合ってくれたのがなんだか感慨深かった。
開場30分前、入場。ライブハウスにクロークはないため近所の大きめのコインロッカーを探し歩き、傘を預けた後で見慣れた会場へ踏み込む。
フロアに流れる毎度お馴染みの統一感のないSEを耳にして、何故だか安心した。『打上花火』やアルマゲドンのテーマ……ずっと耳を傾けているうちに、どうやら映画主題歌をテーマに選曲してあるらしい事に気づいた。今回もおそらく選曲担当は巨匠だろうか? 映画をモチーフとしたアルバムのアートワークを意識したものなのだろう。
やたらライブグッズの着こなしに熱が入っているフリーク達で溢れるフロアを見下ろし、2階席に就いた。フロアには椅子が並べられていて、いつもよりずっとヒトの密度は抑えられていたが、それでも抑えられない程の熱気に少しずつ、2年前最後に味わった感覚を思い出していく。
開演時間ほぼピッタリ、暗転と共にいつものように出囃子のメタルナンバー『物販』が鳴り響く。波が引くように収まる私語と、相反するように燃え上がる空気。弾かれたように一斉に立ち上がる観客達。溢れ出すような拍手。声こそ出せないものの、この瞬間を待っていたぞと言わんばかりのひとびとの零れんばかりの想いが、4人の音楽家達を苛烈なまでに迎え入れた瞬間だった。
駆け込むようにして姿を現す4人。お立ち台に立ち、腕が千切れんばかりの勢いで手を振りながら満面の笑みを見せるリーダー小野武正。勢い余ったドラムの八木優樹が巨匠――ギターボーカル寺中友将の背中を台代わりに、華麗な馬跳びを披露して定位置へ向かう。優雅な所作で両手を振り、ゆったりと定位置に戻って青磁色のジャズべースを手にする義勝。
彼等の一挙手一投足すべてが、ああ、KEYTALKのライブに来たのだな、という実感を覚えさせる。
1曲目に披露されたのは巨匠の作詞曲による『もういっちょ』。彼がライフワークのように制作を続けている夏ロック、お祭りロックの最新進化系、“高速BPM演歌”とでも言うべき和メロが美しいアッパーソングだ。一度聴いたら忘れられないイントロを奏でる力強くもペーソスのあるギターに軽快なビート、奏でながら楽器隊は時に目配せをし合い、楽しげに跳ねる。まるでメタルバンドのような複雑且つシブいギターソロを奏でる武正の髪色がいつもの金髪から青みがかったシルバーに変わっている事に気づいた。
そしてなにより、縦横無尽という言葉が最高に似合う音の洪水の上で、秩序的ながら自在に踊るツインボーカルの歌声に胸が詰まる程嬉しくなった。彼等の楽曲はそのキャッチーさや夏フェスのイメージからかあまり“歌”に注目される事が多くないように感じているのだが、このとき改めて、とんでもなく歌の上手いボーカルがふたりもいるバンドなのだと感じさせられた。巨匠の豪快でありながら底の深さを感じられるヴィブラートが信じられない程の強度と広がりを持ってフロアいっぱいに轟いたとき身が竦んだし、一聴すると可愛らしい印象すらある義勝のハイトーンは、弦楽器のようなローの響きと小さな金管楽器のようなハイの透明感を持ち合わせていて、ライブで聴く度くらくらする。
そんな分析めいた感想を抱けるのもあの夜から1週間以上が経過した今だからの事で、その夜は彼等から次々と繰り出される怒濤のような攻撃を一心不乱に受け止めていく事しか出来なかった。
このときのセットリストの最も特異な点としては、普段はクライマックスやアンコールで演奏される文句なしのキラーチューンである『MONSTER DANCE』が開始早々の2曲目に演奏された事だ。観客の大半も驚いたようで、辺りがややざわついていた印象がある。しかし容赦なく展開されるあの耳慣れたイントロ、まるでカオスなのに何処か茶目っ気のある複雑な展開を完璧に乗りこなす演奏に身を委ねていると、あの特徴的な振付さえもう半年ぐらいは踊っていないかもしれないはずなのに、自然と身体が勝手に動いて踊れてしまうのだから不思議だ。
このキラーチューンの登場で完全に観客の心を掌握した彼等は、義勝作詞曲による近年最高に攻撃的と言っても過言ではないプログレロック『大脱走』で更にフロアをレイヴの如き空間へと変えていく。この曲中、2階席からはほぼ彼等の姿を目にすることは出来なかった(!)。それもそのはずだ、ほとんど真っ暗に暗転した舞台上は赤と緑とピンクのネオンサインのようなレーザーが縦横無尽に踊り狂い、その攻撃的な光の隙間からかろうじてメンバーのシルエットが見えるぐらいだったのだ。しかしそれがかえって美しかった。まるで宇宙空間の中を、この宇宙を創造したはずの彼等と共に彷徨い転げ回っているようでとにかく楽しい。しかも、姿ははっきりと観る事が出来なくても、響き渡る音と歌は確実に“彼らのもの”なのだという実感が湧いてきた。――いや、当たり前と言えば当たり前の事ではあるのだが――KEYTALKが演奏する音はその他のロックバンドに増して記名性が高すぎる気がするのだ。バスドラムの音、ギターのアルペジオ、バッキング、控えめなのに時々狂ったようにメロディアスになるベース、いずれかひとつ取っただけでも、演者の顔が見えてくるような気さえする。ここまでわずか3曲、それだけで「ああ、KEYTALKのライブに来たんだな」という実感をこれでもかと味わわされる。
――などと感慨に耽っている暇を与えてくれる程、ライブ中の彼等に慈悲はない。畳みかけるように演奏された武正作詞曲による『ダウンロードディスコ』に会場はまた異常な盛り上がりを見せた。何故なら今回リリースされたアルバムにはツインボーカルのふたりによる作詞曲しか収録されておらず、ふたりに負けず劣らず優れたソングライターである楽器隊のふたりによる楽曲は演奏されないかと思われたからだ。しかも、ただでさえ高BPMの複雑な構成とツインボーカルのコンビネーションが活かされるどころか試される激しい掛け合いが印象的な曲だというのに、音源の1.5倍ぐらいのスピードで演奏されたものだからまるでジェットコースターに乗せられているかのような勢いではらはらしてしまった。きっと彼等自身も会場のボルテージに当てられて、逸る気持ちが演奏に現れてしまったのだろう。まるで、音階というごく最低限の秩序のみを有した洪水に吞み込まれてしまったようだった。なす術なく流され、連れ去られ、迷子になり、帰り路すらわからなくなってしまう。しかしそのなす術のなさが、目の前の音楽に集中するほかない不自由さが、日常のありとあらゆるすべてを忘れさせ、“楽しい”という感情しかない状態へと導いてくれる。身体がふっと軽くなり宙へ浮くような乖離感。いささか乱暴なこの快感を味わったのは、KEYTALKのライブが初めてだったかもしれない。
しかし今回のライブでは、今までのKEYTALKのライブではあまり感じられなかった感覚を覚える瞬間があった。それは、アルバムでも異彩を放つ義勝作詞曲による歌謡ロックナンバー『不死鳥』、そして今までライブで披露される機会がほぼゼロに等しかった、八木作詞曲の『誓い』が演奏されたときだった。
無駄なものを一切排したようなタイトでシブいギターが奏でる旋律は武正のいつもの鮮やかで賑やかなそれとは一線を画す艶やかさを見せ、ガラス玉のメリーゴーランドのようなレーザービームがツインボーカルを囲むようにして美しく彩る。その中心で歌う巨匠のボーカルはいつもの伸びやかなイメージとは異なり、どこか叩きつけるような、荒々しく切なげな響きを聴かせた。インディーズ当時から愛用しているプレシジョンベースに持ち替えた義勝の細いシルエットが赤い逆光の中に浮かび上がる。ファルセットとトップボイスの間のような、まるで胸を搾り上げられるかのような狂おしさを孕んだハイトーンが、曲が進む程に朗々と深みと広がりを湛えていく。彼等を囲むレーザーは曲が進むにつれ赤に変わり、まるでいつ爆発するかもわからない導火線のように染まっていく。その様はこの曲の持つ静かな熱情を表現しているようだった。あの光景とそのとき抱いた感情は、“壮絶”としか言いようがない。
そこから畳みかけるようにして披露された『誓い』もまた違った壮絶さを醸し出していた。特にオチサビとアウトロの洪水のようにシューゲイズする音像は、もう二度とKEYTALKのライブでは体感出来ないのではないかと思ってしまう程に異質だった。真っ白な光に包まれて歌う義勝の中低音は何処か呪文染みて聴こえ、作曲者である八木のドラムはいまだかつてない程に手数が多く、その演奏が熱っぽく狂気を孕んでいく程に照明が赤に変わっていく。演奏が終わる頃には、彼等の立つ舞台の上はまるで炎に包まれているかのような荘厳な空間に変わり果てていた。
そんな演奏を披露してみせたその直後に、彼等は信じられない程に茶目っ気しかない顔を覗かせるところがどうにも憎めない。それまで毎回ライブの度に展開されてきたお決まりの「ぺーい」コールを武正が煽れない事を鑑みて観客にエア「ぺーい」を求めたり、それに合わせて八木がサンプラーを操ってメンバーの声による「ぺーい」音源を載せてきたり。個人的にはステージ上に専用扇風機を完備している義勝の傍に巨匠がやおら近づき、「義勝、チャゲアスごっこしよう」と声をかけていた一幕が好きすぎて未だに2日に1回は思い出してしまう。(因みに義勝はその呼びかけに無言で拳を突き上げる“エアYAH YAH YAH”で応じていた。なんとも愛すべきひとたちである)
ライブの最後に武正は、少しおどけながら改めて2年ぶりのツアーへの想いを語った。「バンドの音楽はライブでお客さんと一緒に育てていくものだと思っている」と前提したうえで、やっと披露する事が出来た新しいアルバムの楽曲だけでなく、これまでずっと演奏し続けてきた楽曲達もまた「僕のお腹のようにすくすくと」育っている、と言い、心底嬉しそうにあの快活な笑顔を見せる。ハイテンションに観客やスタッフ、そして何よりメンバーへの感謝を口にした八木の弾けるような笑顔にも、安堵に似た感情を覚えた。
一方で、このとき巨匠はそれまでの伸び伸びとした様子から一変、少し思い詰めたように言葉を丁寧に、ひとつずつ選びながら話し始めた。
「ライブが出来ないのにアルバムを作ることは正しいのかと、悩み、沢山話し合いました」
アルバムが出来るまでの葛藤を赤裸々に語る彼の言葉からは、フロントマンの真っ当な責任感が痛い程に感じられ、それに耳を傾けている方も胸が痛む。彼は、どうやら前日のセミファイナルで涙を流してしまったらしい。
しかし、彼等は様々な葛藤や逡巡を乗り越え、今、この場に立っている。「また次も、『ACTION!』というアルバムを超える作品を必ず作りたいと思います」と口にする巨匠の晴れやかな表情から、その現実の奇跡的さを改めて思い知らされた。
音楽だけに留まらず、“何かを表現/創作する”という行為は、まるで書いた手紙を瓶の中に詰めて、海に流すような行為だ。必ずしも誰かのもとに届くとは限らないし、自分が望んだかたちで届くとも限らない。誰かの手に届いたそのときには、すっかり瓶が潮にやられて腐敗し、インクも滲んで読めなくなってしまっている可能性だってある。だからこそ、表現や創作といったものには、ある種の“祈り”のようなものが込められている事が多いのかもしれない。きっと誰かの手に届いて、大切にしてもらえるはずだと、愚直なまでに信じて行動するほかないのだと。
だけれど、この“祈り”は本来は“楽しい”だけでも良いはずのものだ。誰に届くのかな、ちゃんと読んでもらえるかな、もしも読んでもらえたなら、もしかしたら友達になれるかもしれない。そんなワクワクだけを胸に秘めて、おまじないのように行うのがきっと健康的なのだろう。どんな創作活動だって、最初は娯楽から始まっているわけだし。そしてそれは、手紙を発見する方――音楽や芸術を享受するオーディエンス側も同じだ。誰が書いた手紙なのかな、寧ろどこの国の言葉なのかな? 知らない世界に想いを馳せて、楽しめればそれで良いはずなのだ。実際、KEYTALKはどんな表現にチャレンジしても、ずっとそのスタンスを貫いていたバンドだった。
しかし、2020年。
気づけばバンド音楽は、もっと切実で少し悲壮感すら孕んだものになってしまっていた。
閉店に追いやられたライブハウス、延期になったツアー、目的を見失った音源、顔の見えないヴァーチャルな歌手がもてはやされるヒットチャート。ライブハウスや音楽フェスをホームグラウンドにしたミュージシャンは、背負うものが多すぎて、その表現に身を切るような切実さが滲むようになってしまった。今までのように、“楽しい”だけのお手紙を書いてはいられなくなってしまったミュージシャンが沢山いた。
それでも、どんなに切実な“祈り”のかたちになっても尚、KEYTALKの音楽はどこまでも楽しいままでいてくれたのだった。それって、凄まじい奇跡だと思う。
「今、KEYTALKで一番カッコイイ曲は一番新しいアルバムの曲です。だから、最後は新しいアルバムの曲を演奏します」
そんな巨匠の言葉でアンコール最後に演奏されたのは『ラグエモーション』。なるほど、ライブを締めるキラーチューン『MONSTER DANCE』が早々に演奏された理由がわかった。まるで伏線が回収されたようで思わず膝を打ちたくなるセットリストだ。
ライブシーンの先が見えない中でアルバムを作り始め、「いつかみんなと会えて、直接伝えられる日が来ると想いながら作った曲」だと義勝が語ったこの曲。離ればなれであるからこそ増していく恋心を描いた可愛いポップソングが、部屋でひとりで聴くよりもより切なく、そして楽しく響いた。
踊念仏というものがある。高僧・空也が開き、一遍が広めた踊りながら唱える念仏のスタイルの一種だ。身分を問わず、献身的に生き、念仏を唱えればどんな罪人や自堕落な人間でも救われるという大乗仏教の教えに基づいたもので、浄土宗や浄土真宗でよく見られる考え方である。
人間は昔から、楽しく騒ぎながら祈り、その心を慰めていたのかもしれない。
日本人は祭りが大好きだ。ここまで夏フェスやらなんやらが市民権を得たのは、その辺りのお国柄の影響もあるのかもしれない。そもそも祭りは追悼や、生きる者の心を慰める意味を持っているものだ。たとえひとときだけでも、たとえ現実逃避に過ぎなくても、過酷な現実の辛さを少しでも忘れられれば、それだけで生きていけるものなのだ。楽しい音楽に祈りを込める彼等の行為は、音楽家として至極真っ当だと言える。
この日の公演は、KEYTALKにとってもZepp Tokyoでの最後の演奏だった。MCの合間に義勝がその事に言及し、舞台の板の上を撫でて「お疲れ様」と小声で呼びかけていたのも印象的だった。
義勝はまた、いつもより大きな声で「ありがとう」と何度も、何度も告げていた。言葉にしきれなかった、歌からも零れてしまった感情が溢れるような声をしていた。
もう二度と見上げないかもしれない観覧車を見上げ、海風に吹かれながらゆりかもめに乗り込んだ。数時間前までアスファルトを叩いていた雨は、すっかり上がっていた。
どんなにままならない日々が続いても、時間だけは平等に過ぎていく。もうあの夜から1週間以上が経った。あのときまだひとつ歳下だった同行の友人も、先日誕生日を迎えて同い歳になった。あの日の観衆の熱気、バンドの佇まい、腹に響くような音圧もすべて、ふと思い出そうとする度に幻のように気が遠くなってしまう。
それでも、あの日彼等がZepp Tokyoで鳴らした祈りは現実のものだった事に変わりはなく、それを思う度にどんなに目の前の現実が嫌になっても少しだけ救われたような気持ちになれた。まったく、踊念仏の時代から人間とはなんて現金な生き物なのだろうと、愛おしさすら覚えるのだった。
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