昼と夜と黄昏と椿屋四重奏~ #中田裕二誕生祭2021(大遅刻)
■attention
この文章は、中学生の頃に椿屋四重奏に出会って以来中田裕二に焦がれ続けているアラサーのオタクが書いた妄文である事を最後まで忘れずに読んで頂きたい。自分としても主語は極力小さく書いているつもりではあるが、些か長い文章なため出過ぎた言い回しを使ってしまっている箇所がある可能性も充分に考えられる。読み手に要望を書き記しておくだなんて予防線を引いておくようで情けないけれど。
それと、この文章の中で触れている当時のJPOPへの印象などはあくまでどこまでも当時自尊心の塊の10代であった自分による偏見であり、また、当時の音楽への今の自分の中での印象もまた、現在では大きく変化している事も予め記しておきたい。
■“非日常”を着込め-10代の鬱屈と椿屋四重奏
4月。中田裕二が40歳になった。
それがどうした、と思う。
年齢はあくまで年齢でしかなく、猫にも杓子にも平等に襲い来る寄る波であり、それ以上の意味を持たない。特にミュージシャンなんてものは、いくつになっても円熟した感性と瑞々しい感覚を持ち合わせ、年齢相応に枯れた色気と若々しいルックスを兼ね備えたままいつまでも美しくステージの上に立っていてくれる存在なのだろうという事は、彼よりもずっと歳上の尊敬するミュージシャン達を見ていればよくわかる事だ――勿論その美しさの裏側に類稀な努力と覚悟、そして元々の素養があるという事もよくわかっているつもりだ。
だから、めでたいとは思う。この文章だって本当は彼の誕生日に公開するつもりだったが、気がついたら5月の連休に差し掛かっていた。時の流れは我々凡人にとっては残酷である。
感慨は抱きこそすれ、特別な感情はそこにはない。彼も遂に中年の域に片足を踏み込んだのだな、と思う。しかし、今年の彼の誕生日は、こんな僕でもそうクールには気取っていられない事情があった。
何故なら、中田裕二が40歳を迎えるという事は、中田裕二がソロデビューから10年を迎えるという事――、
そして、椿屋四重奏の解散から10年が経ったという事になるからだ。
これを読んでくれている奇特なあなたには説明不要かと思うが、今一度改めて記しておこうと思う。
椿屋四重奏。2000年結成。
和の心にこだわった「艶ロック」と冠された楽曲が人気を集め、結成当初はライブを“演舞”と呼び、作務衣姿で演奏するなど独特な世界観を確立していたロックバンドだ。2007年にシングル『LOVER』でメジャーデビュー、その後は作風をコロコロと変えながらも当時の日本のロックシーンで確固たる地位を築き、“邦ロック冬の時代”と呼ばれるゼロ年代後半を駆け抜けたある種カルト的なバンドだ。
と、言うのはニコニコ大百科にも載っているようなごく一般的な彼等の印象で、椿屋四重奏の真の旨みは中期以降に顕著な歌謡曲やAORをベースとした都会的なロックサウンドや、中田裕二にしか綴れない抽象と具象の狭間のような独特な歌詞世界だったように思える。
メンバーはもともと3人、メジャーデビューを迎える1年前の2006年にはサポートだったギタリストが正式加入し、バンド名通り4人組になった。
ファンキーなルックスとキャラクター、堅実なプレイングで人気だったギタリストの安高拓郎(2010年脱退)。
安定感ある演奏と懐の深さでバンドの土台を担ったひょうきんなドラマー、小寺良太。
中田の同級生で良き理解者、独特の美学を持ち寡黙で精悍な顔立ちのベーシスト、永田貴樹。
そして、天上天下唯我独尊、メインコンポーザーにしてフロントマンの中田裕二。
些か数奇な運命を辿ったバンドだったが、今でも鳴ル銅鑼や蜜、天下のUNISON SQUARE GARDENやCIVILIANまで多くのミュージシャンが影響を受けたと公言する程の存在だった。
僕が椿屋四重奏に出会ったのは中学2年生の頃。当時我が家には懸賞で当てた有線放送の機械があって、月々幾らかで音楽が聴き放題だった。今思えばサブスクのはしりだが当然そんなに良いものではなく、父親が持ってきたどでかいコンポを接続し、MDをぶち込んで曲を録音して聴いていた。好きな音楽や聴きたい曲をリクエストする時は電話。コールセンターのお姉さんの事務的な優しい声が、優等生で人見知りだった自分の狭くてイイコチャンな世界を拡張してくれる「開け、ゴマ」の呪文のようにすら聞こえていた。
丁度テスト前だったように思う。カーテンを揺らす春の陽差しに惑わされて試験勉強の手が止まらないように鳴らしていた「J-ROCK」のチャンネルから、たまたま聴こえてきたローの強いバンドサウンドのイントロに度肝を抜かれた。どれがギターだかドラムだか、ベースだかもわからないような、音の全てが混然一体となって地の果てから鳴り響いてくるような、秩序を持った地鳴りのような音だった。
みぞおちに拳をめり込まされたような衝撃と共に僕の耳を通って脳味噌へとなだれ込んできたその曲が、「幻惑」というタイトルであったのはまるで象徴的だったように思う。
僕が子供の頃はまだまだ80年代後半のバンドブームの名残りをのこしていて、ネオヴィジュアル系なんかもお茶の間を賑わせており、よくよく考えたらロックがとても身近にあったはずだった。しかしその頃の僕はイエモンもエレカシもラクリマもペニシリンも幼児記憶の彼方に消えかけていた思春期、音楽に対する自我があまりなく、小学校高学年でやっとポルノグラフィティと椎名林檎によって意志を与えられたような軟弱な脳味噌には、青臭く禍々しく、それでいて生々しい程に“生(ないし性)”のにおいがする彼等の音楽はたいそう刺激が強かった。
なかでも僕は、『幻惑』の歌詞の中の「琥珀の中にある息絶えた輝き」というフレーズに強烈に惹きつけられた。それこそ彼等に出会う前だって好きなミュージシャンを聴かれたら「ポルノグラフィティと椎名林檎」と答えるサブカルクソマセガキだったから、CDの歌詞カードを読み漁るなんて日常茶飯事だったわけだけれど、それまで「なんかすげえ」の蓄積でしかなかった作詞に対する「すげえ」の理由を、このワンフレーズに出会ったその時、僕は猛烈に知りたくなってしまったのだった。
それまでミュージシャンはテレビに出ているようなひとしか知らなかった。テレビに出ている=すごいひと達、という幼稚な認識だったから、喩えるならば見た事もない程美しい新種の蝶を街中で発見してしまったような気分だったのだ。このひとは、このひと達は、一体何者なのだ?
とりあえず、この曲のMVが観たいと思った(きっとあるはずだという謎の確信があった)。決して裕福な家庭ではなかったので、当時僕の家にはPCがなかった。最近の子供達程学校の授業でPCが必須という事もなかったし、携帯電話でIモードは使えたから特に不便はしていなかったのだが、その時初めてPCを持たないことを後悔した。
常連だった学校の図書室の共用PCで黎明期のYouTubeにアクセスし、「椿屋四重奏 幻惑」で検索する。シアターモードへの切り替えの仕方もわからない、画質の絶望的に低い小さな枠の中に広がった見知らぬ世界に、僕は一瞬で引きずり込まれた。
薄暗い部屋。
ブラウン管テレビの向こうに映るロックバンド。
腕にタイポグラフィックのタトゥーの入った美女。
シャンパングラスの中で泡を吹く煙草。
ロココ調の壁紙。
風もない地下室で、左右に激しく揺れるペンダントライト。
コンクリート打ちっぱなしの壁。
ロックバンド。
ロックバンド。
ロックバンドの真ん中でビットの粗い液晶の向こうからこちらを睨みつけるボーカリストの、ギラギラとした大きな目に釘付けになった。どことなく眠たげな落ちくぼんだ瞼に、黒いトップスの広い襟ぐりから覗く、サイダーの注げそうなほど抉れた鎖骨。細く長い腕で自分の肩をぎゅっと抱き締め、狂おしげな表情を浮かべる。
バンドとしての彼等に惹かれたのは勿論だが、僕はその時、画面の中の化け物のような大人のオトコに、いっそ悪魔的なまでに魅入られてしまったのだった。
中田裕二に魅入られてしまった中学生の僕は、学生の有り余る時間と体力とリビドーを彼と言う人格を知るために費やすようになった。当時彼がやっていた椿屋四重奏の公式ブログを、レーベルがつく前の自主運営の頃の公式サイトまで遡って読み漁った。当時の彼は意外と政治的な発言が多く、今でもインスタで観ることが出来る自ら手掛けた写真の腕前もなかなかのものだった。僕もその頃から朝と夜の報道番組で国際ニュースをチェックするようになったし、母親に買ってもらったばかりのコンデジを相棒に風景写真を嗜むようになった。
彼は子供の頃から喘息持ちで、いかにも新宿のゴールデン街の路地でピースを吹かしていそうな見た目に反し、非喫煙者だった。熊本生まれの仙台育ちで酒がとても強く、今では大好きだと豪語するコーヒーが当時は苦手で、「飲むとテンションが下がる」と言った。僕も喘息持ちで昔からあまり身体が強くなかったが、彼のお陰でそれがまるでステイタスのひとつのように思えたし、25歳の誕生日には彼と同じようにワインとちょっと高級なチーズをデパ地下で買うのが夢だった。実際のところはワインはサングリアしか飲めない、脆弱な内臓を持つオトナに育ってしまったのだけれど。
僕の彼に対する尊敬は、単なる「カッコイイ歳上のミュージシャンへの憧れ」とは少し違った。些かオム・ファタルじみていて、そのギラギラとした存在感と、「お母さんもお父さんも友達すらも知らない、テレビにも出ないカリスマ」という特殊性に僕は陶酔していた。
完全に僕の主観でしかないが、当時、ゼロ年代黎明期のJPOPは「頑張れ」と「君」と「僕」が氾濫していた。特に誰とは言わないが、バンドもシンガーもアイドルも売れる曲は「等身大の僕から君へのラブソング」「等身大の僕があと一歩勇気を出すための応援歌」ばかり。バンドシーンは言わずもがな今程盛り上がりはなく夏フェスの話題なんてテレビのニュースで耳にする事もないし、ネオヴィジュアル系ですら「死んだ」と言われて久しいし、ヒットチャートは常に誰かの課金と言う名の愛で溢れていた。
周りの友人達は二次元のオタクばかりだったので、失われた非日常を当時は今よりも格段にアングラ扱いだったアニソンやボカロ、そして死んだとされたネオヴィジュアル系に求めていた。
僕も例外なくそうだった。そんな中で出会った椿屋四重奏は、非日常の塊そのものだった。
「モノを作り出すって事は多分、いや絶対、日常を打ち破る事だ。突き崩す事だ。延々と流れる時間を止める事だ。この目に映る全てを塗り替える事だ。」
放課後に狂ったように読み漁ったブログの中で、中田裕二はこう書いていた。少なくともこの時僕の目に映る全ては彼等によって塗り替えられたし、彼等と出会わなければ今のぼくの感性は生まれていない。
結局だが、コンテンツがバズるってのは「今流行っているもの」をやるか、「今の時代に足りないもの」をやるか、の2択でしかないのだと思う。不特定多数に求められるものを作るというのはそういう事で、椿屋四重奏は明らかに後者だった。これは殆どギャンブルみたいなものだ。
アルバムの売り上げランキング、最高位は15位。世間一般からしてみたら彼等は決してそのギャンブルに勝ったとは言えないかもしれない。だからといって、決して負けたわけではなかった。僕のようなマセガキや百戦錬磨のお姉さまお兄さま方に圧倒的に指示され、ライブのチケットはソールドを連発した。彼等の地元である仙台のホールや、天下の中野サンプラザで大晦日にライブをやったりもした。
瞳をギラギラにさせた化け物のようなオトコは、しかしそれに満足していなかった。他の追随を許さぬそのストイックさは時に理解されず、「中田のバックバンド」「ワンマンバンド」などと2ちゃんで揶揄されていた(僕は当時そんな書き込みを発見しては、いちいちメロスのように激怒していた)。
今ならあの、得体の知れない化け物のような大人のオトコの心のうちが、きっと氷山の一角以下の面積にしかすぎないであろうが、手に取るようにわかる気がする。彼等はあの頃、日常の中で必死に非日常を鳴らしていたのだ。「バンドマンの生活」と言う、まんまモロでお出ししてもそれなりにエンタメとして成り立ってしまいかねない日常の中で、敢えて必死に非日常を奏でていたのだ。
学生時代引きこもりだった、またチャート10位内に入れなかった、次に作るアルバムの方向性でまたメンバーと仲違いした。そんな“真昼”の日常をそのまま歌にした方が、もしかしたらいっそのこと支持されたのかもしれない。しかし彼等はそんな青春ロックじみた、20代らしい、安直なエモさには流されなかった。「君」と「僕」が「頑張る」JPOPの世界では美徳とされる「飾り気のなさ」になんて目もくれず、非日常の花の棘で指先を真っ赤にしながら、彼等は日常の中に非日常を飾り付け続けた。
どんなに親しみやすく、どんなに万人受けしても、面白みのない真昼の日常を“等身大”と誉めそやす事を彼等は良しとしなかった。彼等の音楽こそが成熟した蠱惑の大人の世界なのだと信じて疑わなかった幼い僕には知る由もなかったが、若い彼等はあの頃、傷だらけになりながら飾り付けた空想の中の“夜”の街のランウェイを、非日常という毛皮を着込んで一生懸命闊歩していたのかもしれない。襟を立て、高いヒールで精一杯の背伸びをして。
世間一般からしてみたらギャンブルに勝ったとは言えないバンドだった。しかし確実に、彼等の手元のコインは年々その嵩と輝きを増していたように思う。
■たとえ真昼の日常を歌っても-椿屋四重奏から飛び立つ中田裕二
そんな椿屋四重奏が、終わった。
2010年冬、僕達の知らぬ間に。
実際にその場――椿屋四重奏にとってラストライブとなった、故郷である仙台のホールで行われた大晦日のカウントダウンライブに居合わせたひとによると、普段絶対に人前で涙など流さない中田裕二がとある曲間で目を伏せ、その白皙の頬に一筋の小川が流れていた、ように見えたとの事だった。
その事に関してはここでは書ききれない程の紆余曲折があった事を単なるファンに過ぎない僕でさえ知っているし、彼等にとっても歴史の教科書の年表の中の一文のようにさらりと触れてしまって然るべきものではないと思うので、ここでは詳しくは触れないでおく事にする。
椿屋四重奏で非日常を歌い続けていた中田裕二のソロキャリアの始まりは、意外にも「日常を取り戻すための歌」だった。
2011年春発表、『ひかりのまち』。
この楽曲がリリースされた年は、誰もが知る通りに日本中が未曾有の困難に見舞われた年だった。故郷である宮城が災害に苦しめられたこの時、彼はいち早くこの曲を発表し、配信での売上をチャリティに当てた。
当時中田裕二はソロデビューに際して、新しくプロジェクト名などを設けるつもりだったそうだが、この時の本名名義を今でも使い続けている。
「春のさえずりと 夏の高い空 秋のやわらかさ 冬の輝きが 全部いとしくて」
ラジオから流れてくる彼の歌声に支えられ、この曲で彼を知ったというひとも少なくなかった。
当時の中田裕二は、「椿屋四重奏で出来なかった事を果たしていく」ような歌を歌っていたように思う。1stの『ecole de romantisme』なんかは顕著で、椿屋四重奏時代からアコースティックライブなどで披露していたにも関わらず一度も音源化される事がなかった『sunday monday』や『リバースのカード』が収録され、当時たいそう話題になった。
敢えて「椿屋四重奏で出来なかった曲」をやっているように聴こえたが、椿屋四重奏から彼の歌が乖離すればする程、かえって椿屋四重奏を意識してしまう。どうしても「元椿屋四重奏のひと」というイメージがつきまとうソロデビュー直後で、僕のようなファンでさえどうしても椿屋四重奏と比較してしまっていた。今思うと失礼極まりないのだが、それは、別れの傷が未だ癒えない僕達へ向けられた彼の背中に、椿屋四重奏の陰をいつまでも探してしまっていたからだと、今は思う。
そんな根深いイメージが僕の中から払拭されたのは、3枚目『アンビヴァレンスの功罪』辺りからだった。今でもライブのキラーチューンとして人気の『ユートピア』や『MIDNIGHT FLYER』などが収録されているこのアルバム以降から、中田裕二の世界は少しずつ――しかし確実に、その様相を変えていった、ように思う。
これはあくまでも僕の場合であり、“この瞬間”をどのアルバムや楽曲から感じたかはきっとひとによって異なると思うから一概には断定出来ない。しかし、『誘惑』や『STONEFLOWER』など、今となっては代表曲と言って過言ではない『アンビヴァレンス~』以降の楽曲達からは、それまでの楽曲と比べてより強く“椿屋四重奏”を感じるような気がするのだ。いわば、「椿屋四重奏のロマンティシズム」を、今の中田裕二なりに表現しているように思える。
近年の楽曲で最もそれがわかりやすいのは2018年のアルバム『NOBODY KNOWS』収録の『むせかえる夜』。ラテン調のイントロのギターリフが印象的な楽曲だが、その世界観がすごい。コテコテのメロドラマ、今や絶滅危惧種の昼ドラのような猛烈で濃厚なラブソングだ。
なかでも僕は以下の、サビ前の歌詞がとても好きだ。
「揚羽蝶 光のフレア 蝉の鳴き声 黄金色の太陽 意識は遠のく」
僕はこのフレーズを耳にした時、椿屋四重奏が2008年にリリースした名盤『TOKYO CITY RHAPSODY』収録曲『I SHADOW』の次のフレーズを思い出した。
「蝉が命を嘆いて 風が呻いた真夜中 今も耳元にあるよ 夏は死に 冬は息絶えて 耐えて」
とても、鬱々としている。ロックバンドのメジャーデビュー盤としては完成度が高すぎるが、憂鬱すぎるアルバムだった。中でもこの曲は未成熟な破滅への憧憬を押し固めた落雁のような洗練された憂鬱さがあって、僕は大好きだった。
『むせかえる夜』の先に引用した歌詞は、『I SHADOW』のこのフレーズと似た、夏の情景のモチーフを用いている。これは彼の中に“椿屋四重奏”が今でも確実に存在している証拠だ。しかしその表現のかたちは大幅に変化を遂げ、最早この時の彼にしか出来ないものとなっている。
『むせかえる夜』の方は少年時代の想い出すら想起させる、ノスタルジックな言葉の選び方が印象的だ。一方で『I SHADOW』をリリースした頃の中田はまだ20代。この頃の恋愛はもっと背伸びがしたくて、子供時代の想い出なんか介入させたくないはずだ。こちらの方はノスタルジアがない代わりに、濃厚な「死」の匂いを感じる。
子供時代の想い出を美化出来ず、死に憧れてしまう若い頃と比べると、大人の恋愛はきっと全く様相が違うのだろう。日常の中で猛烈な狂おしさに見舞える事はあまりなくなり、我を忘れる程の想いに時々遭遇してしまったなら、子供の頃の無邪気さや必死さなんかまで思い出し、必死な自分に苦笑してしまったりするのかもしれない。
ロックバンドでこれをやったらちょっとクサイ気がする。ここまで洗練された印象には仕上がらないはずだ。『むせかえる夜』は、最早ロックミュージシャンの曲ではない。
明らかに「ロックミュージシャンの曲」ではないのに、彼の楽曲の中から彼の中の“椿屋四重奏”を強く感じるようになったということは、誰よりも彼自身が己の中の“椿屋四重奏”を惜しまなくなったという事だ。それは椿屋四重奏という巨大な十字架から己を乖離させる必要性がなくなったという事であり、「シンガーソングライター中田裕二」というアイデンティティの確立を意味する。彼は少しずつだが確実に、「中田裕二(ex-椿屋四重奏)」ではなく、「シンガーソングライター中田裕二」へと変貌を遂げていたのである。
世間一般ではもしかしたら、未だに「元椿屋四重奏の」と言った方が伝わりやすいのかもしれない。しかし、彼は今や完全に椿屋四重奏から飛び立つ翼を持っている。あの頃は高いヒールブーツを履き、毛皮を着込んでやっと指先を伸ばしていた憧れの象徴だった非日常は、今や彼の手のうちだ。
たとえ地に足をつけ、真昼の日常を歌えるような大人のミュージシャンになったとしても、彼の手は、言葉は、歌声はいつだって、“夜”を作り出す力を湛えている。
■「目に見える結果が全てではないと思います」-2021年4月17日、その“非日常”は彼の皮膚となった
そんな中田裕二が、40歳になった。今年の4月17日の事だ。
ソロデビュー10周年のお祝いも兼ねて、当日は渋谷公会堂にてライブが行われた。公演は有観客に加え配信が行われ、今まで彼のサポートバンドに参加した錚々たる面々のミュージシャンが駆け付け、賑やかな宴となった。僕は諸事情あってリアルタイムでの鑑賞ができなかったから泣く泣く配信のアーカイブを観る事になったのだが、当日、Twitterのタイムラインが阿鼻叫喚になった。
まさかと思い、虫眼鏡のアイコンをタップする。
「日本のトレンド」の欄に、「椿屋四重奏」の5文字があった。
椿屋四重奏が、一夜限りの再結成を遂げたのだ。
再生ボタンをクリックする指が微かに震える。アーカイブの残っている期間は意外と短い。早く観てしまわないと、一生後悔する。
だけど、だけど。
脳裡を過るのは三島由紀夫の『金閣寺』。夢想の中の金閣の方が、実物よりもずっと美しく見えることもある。学生時代、結局一度も観られなかった椿屋四重奏のライブ。イメージの中の彼等の姿は、どこまでも美しかった。
彼等が登場したのはアンコールだった。一度暗転した舞台に、徐に姿を現した小寺良太、永田貴樹。両氏は素浪人のような和服に身を包んでいて、足元も足袋履き。それらは後に和服好きの中田からのプレゼントである事がわかった。昔は決して高級品には見えない、何の変哲もない作務衣だったのに。客席からは戸惑ったような微かな囁きと、目が眩むような拍手が乱れ飛ぶ。
さもそこにいて当然、と言うかのように舞台に立った彼等の姿。そして演奏されたのは、椿屋四重奏最初期の代表曲『群青』。
正直に白状すると、その時僕は彼等の姿をひと目観て、「やめてくれ!!!!!!」と叫んでしまった。
彼等の姿を観て、と言うのは語弊があるかもしれない。彼等の演奏には何ら問題はなかった。むしろ完璧だった。あれから立ち止まる事なくミュージシャンとしても、ドラム講師としても活躍を続けてきた小寺は勿論だし、既に引退して地元である熊本で静かに暮らしていたはずの永田も、あの頃と全く遜色ない演奏を見せていた。
そんなふたりの姿に飛び出しそうになった涙が引っ込んだのは、誰あろう中田裕二の表情を目にした時だった。
『群青』はその頃の彼等の美学が結集したような楽曲だ。重いドラムンベースに硬質なギターリフ、叩きつけるような歌、文語調の難解な歌詞。青く深くぬかるんだ、泥まみれの決意を感じる。
「走り出す滑車に 決別を乗せた 藪騒ぐ中」
それを中田裕二は、幸せそうな笑顔で歌ったのだった。
決して明るく底抜けの笑顔ではなかった。寧ろ静かで穏やかな清々しさを湛えた、うっすらとした微笑みだった。そりゃあそうだろう、だってもう10年も一緒に舞台の上に立っていない昔の仲間と演奏しているのだ。嬉しくって照れ臭くって愛おしくて、僕が彼だったとて笑ってしまう。
だけど、僕の中の中学生の僕が思わず叫んでいた。やめてくれ!!! そんな笑顔で、そんな柔らかな笑顔で、そんな全てを包み込んでしまうような笑顔で、『群青』を演らんでくれ。あの、雨上がりの泥の中をひた走る列車に乗り込み、暗く深い夜の中の故郷を逃げるように旅立ち、深く深い群青の空の下をどこまでもどこまでも駆けていくような、あの重く狂おしく潔いロックを、そんな笑顔でやらんでくれ。
些か上から目線で僭越だが、歌は格段に上手くなっている。当然だ。線も太くなり、相変わらず華奢で儚げな美青年然とはしているが、昔は似合わなかった髭も板についた。当然だ。今の中田裕二が一番魅力的だと、僕は胸を張って言える。
しかし、長いまつ毛を伏せて照れ臭そうに歯を見せる彼を、僕は受け入れられなかった。
短いが3人の変わらぬ関係がよくわかるMCを経て、最後の曲になる2曲目が披露される。『群青』に並ぶ程の初期の代表曲、『成れの果て』。僕は既に少し彼等から心が離れつつあり、「椿屋四重奏が復活した事」そのものに対する感動だけをモチベーションに画面を見つめていた。
ボーカル始まりのストイックな構成、タイトなギターリフ。中田の粗いブレスから始まる楽曲が、たった1小節程だったか進んだ瞬間、僕は息を呑んでいた。
いた。
椿屋四重奏の――ロックバンドのボーカルの、中田裕二が。
いた。
あの頃よりも余程声がよく通る。低く落ち着いて、それでいて当時はあった狂おし気な捻れのようなものはない。歌が、上手くなってしまった。
しかしその何処か昔の、ジャックナイフのように尖っていた自分を嘲笑しながら抱き締めるかのようなうっすらとした微笑みを含んだ歌声は当時にはない濃厚な色香を放っており、何よりもその表情の変化が僕の心臓を苦しい程に鷲掴みにして離さない。
赤黒い照明の中、汗で額に貼り付く前髪の隙間から覗く眼光は薄ら鋭い光を湛え、しかし射るような一方的な強さはそこにはない。楽曲の持つ鋭さ、青臭い攻撃性を何処までも的確に表現するためだけに湛えられた、みぞおちを刺すのではなく心臓を深く深く穿ち抉るような眼差しだった。
やや乱れた和装の襟元。細かくリズムをとるいなたい足元。首を振る度に飛び散って光る汗の玉。気がついたら僕は泣いていた。そこには確かに、40歳を迎えて尚年相応以上の鋭さを備えた、“ロックバンドのボーカル”の姿があった。
「ここまでやってこられたのは、今日集まってくださった、そして応援し続けてくださった皆さんと……僕自身の努力のおかげです」
出演者全員でのカーテンコールも終わって、オーラスのアンコールで中田はひとり、アコースティックギターを抱えて照れ臭そうに言った。彼は折に触れて、何かしらの節目の度に自分のキャリアや栄光を「俺自身のおかげ」などと言い表した。昔から周囲のひとへの感謝を忘れない義理深さと、誰よりも自分自身の美学を愛する尊大さの両方を持ったひとだった。素直に「みんなありがとう!」なんて言われたら、今度こそ僕は液晶に向かってヘッドホンを投げつけてしまうかと思った。
昔より少し健康的になった頬を綻ばせて、彼は言った。「目に見える結果が全てではないと思います。今目の前のことを楽しめるか、苦しみすらも楽しめるか」
その日最後に披露されたのは、『TWILIGHT WANDERERS』。ソロデビュー10周年に際してリリースされたベスト盤に、表題曲として収録された新曲だ。柔らかなアコギの音にのせて、中田裕二が「ありのまま」と歌う事にいっそ淋しさすら感じてしまう。
「恋をただ目で追ってばかり 愛をただ欲しがってばかり ありのままなら自ずとわかるよ どれだけ奇跡なのかって思うよ」
しかし僕はこの日、「40歳の椿屋四重奏のボーカル中田裕二」をこの目で観たのだ。“あの中田裕二”が、この歌を歌っているのだ。
あの頃彼等が必死に着込んでいた真っ黒な“夜”の毛皮は、今やすっかり彼の皮膚に馴染んでもう借り物ではなくなった。彼の皮膚と、彼の生きる日常の日々の狭間に滲む無限のグラデーションが、僕達を永遠に魅了する黄昏の色となる。
僕は曲がりなりにも音楽ライターとして働き、書いた文章の対価としてお金を頂いて暮らしてきたが、椿屋四重奏について語ることだけは、今まで敢えて避けてきた。その証拠に、これまで彼等の楽曲について書いた文章は1本しかない。
言葉を選びきれないからだ。想いの方が、大きすぎるのだ。しかし避ければ避ける程に選びきれなさに拍車がかかった。どんな賛辞を用いても、指先から、口の端から、零れ出した途端に薄っぺらい常套句になってしまう。この文章だって結局はありきたりなレトリックの蓄積にほかならない。もうこうなったら、イタいオタクのクソ長文だと笑い飛ばしてくれたっていい。
中田裕二が40歳になった。
それがどうした。
それは彼に憧れる子供に過ぎなかった自分が、青春を懐かしんで喪失を寂しがるためのセンチメンタルなきっかけではない。あの喪失の時から彼が立ち止まらず脇目も振らず、落ち目にもならずに歌い続けてくれたという証なのだ。その事実は、どんな国民的大ヒット曲をリリースする事よりも尊い。
Twitterすら生まれたばかりの昔の事だ。僕は、椿屋四重奏のファンサイトを運営していた管理人の女性にたいそう仲良くして頂いていた。彼女はとても魅力的な絵を描き、全国の椿屋ファンから慕われ、椿屋に出会う前はQUEENが大好きだったと話していた。
椿屋四重奏が解散した時、彼女に言われた事がある。私が昔大好きだったフレディは、もうこの世にはいません。もしもバンドが消えてしまったとしても、中田さんは歌い続けてくれるし、りょうちんややっちんは音楽を続けてくれます。生きて音楽を続けてくれるのだから、淋しいことなんてなにもありません。彼女の言葉の重さが、今ならあの頃よりもずっとよくわかる。
この文章は、ただ椿屋四重奏の想い出話をしたくて書いたわけではない。
偉大なミュージシャンが何人も、志半ばで消えている。時世柄、この一年の間にもきっと何人も消えてしまっただろう。どんなかたちであれ――いなくなってからその偉大さに気づいても仕方ないのだ。昔から、ミュージシャンに限らず多くの才能が死んでから評価されている。中原中也や山田かまちは美しいけれど、尊敬する彼等にそうなってほしいだなんて僕は思わない。今まさに生きて歌い続ける彼を、彼等を、もっと多くの人に知ってほしい。そして彼等を知る人々に一緒に語り続けてほしいと思って書いたのだ。
君達もどうか、一緒に語り続けてくれ。忘れられないように、そして少しでも多くの、他の誰かに届くように。黄昏のグラデーションを纏い今を往く中田裕二の姿と、彼の足元へと続く、無数の足跡の物語を。
イガラシ
■参考文献
椿屋四重奏公式ブログ:https://blog.excite.co.jp/tsubakiya/
※こちらは椿屋四重奏アーティストブック『群青』にも収録されているので気になった方は是非ご一読を。ひとつのロックバンドの萌芽と喪失、そして旅立ちまでの物語を知る事が出来るだろう。