服装指導で何を伝えるか? vol.169
コロナによる休校期間も終了し、本校では喚起を行いながら全校集会などを行っています。
うちの学校はキリスト教の学校ですので、毎朝礼拝をチャペルで行います。
その際には必ず服装指導が入るのですが、ここでいつも考えさせられます。
そもそも、制服を正しく着用することの意味は何なのでしょうか?
チャペルに入るときだけ、服装を整える意味を考えると大人の世界でも同じ疑問が浮かんできます。
式典の時や節目の時だけ正装をする。
ここを考えてみたいと思います。
服装が持つ意味
そもそも服装が持つ本来の意味合いは依然と比べて変化しています。
以前は働くうえでは必ずスーツというような風習もありましたが、今は時代の変化もあり、夏はクールビズなど服装にもさまざまな幅ができています。
現代において服は、どちらかというと自分を着飾るためのもの、自分を表現するためのものに姿を変えつつあります。
つまり、何か正装をするときにはその場所に向かう自分の気持ちの表れや、想いを表現しているのと同じだと考えています。
例えば、結婚式やお葬式に正装をしていくのも、その人を心から祝福したり、送り出したいと思っているからこその表れです。
学校での制服の着こなし
学校現場でも、服装については学校ごとにもなりますが、厳しく指導をする場面があります。
冒頭でも挙げました礼拝参加時、式典、登下校時ももちろん、生活の中でも、厳しく指導することがあります。
果たしてこの指導は何のためにやっているのでしょうか?
確かに制服をしっかりと着用していれば、しっかりとした人、ちゃんとした人という印象はつきます。
しかし、制服を着崩しているからと言って、必ずしもそういった崩れた人格になるのでしょうか?
そんなことはありません。
制服を着崩していいと言っているのではなく、着崩しているのには何かしらの理由があり、そこを見ることこそが大切だと思うのです。
授業と制服
授業中の服装など、正直どうでもいいと私は思っています。
そもそも既存の多くの授業事態が受け身のため、制服を正して授業を受けに行くという姿勢すら生まれないように感じます。
授業の中では、自分の脳みそを最大限生かして汗をかきやすいようにすることこそ価値があるのです。
服装が変わろうがやること学ぶことは変わりません。
しかし、私たちはどの程度学校で服装指導の本質を見て感じることができているのでしょうか。
今一度あえて原点に立ち返り、制服を着ることの意味、制服指導をする意味を考えてもいいのかもしれません。