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先生にとってのご褒美は卒業生? vol.905

昨日は組合の出張で桜木町で22:00頃まで会議でした。

いくたびにやっぱりオンラインでよかったなと思うのですが、マイクの質が悪すぎて全然音が聞き取れないんですよね笑。

で、その会議の帰りに疲れ切って駅へと歩いて帰っていると、こちらを結構な勢いで見つめてくる青年が。

「なんだろう、知り合いかな?」と思い、じーっと見つめているとあちらから声をかけてくれました。

「五十嵐先生ですよね?」

その彼は私が教員になって初めて授業を持った当時高校2年生の卒業生でした。


子どもにとってはいつまでも先生

今も別にうまくいっているわけではありませんが、当時はそれこそ初めての教員生活ということで色々と空回っていました。

自分の知識も浅はかですし、運び方もイマイチ。

毎日が反省反省の繰り返し、そんな日々だったのを今でも覚えています。

そんな時の授業を受けていてくれたのが、昨日会った彼でした。

私なんて週に2回だけの少ない絡みだったのにも関わらず、名前も顔も覚えていてくれていて、声までかけてくれる。

ただ純粋に嬉しかったです。

その生徒との思い出もたくさんあるわけでもないのに、帰りの数分間話は尽きずでした。

別れ際には自分の気持ちが軽くなっていることに気づきました。

先生にとっては成長を実感できる時間

子どもたちはどんどんと成長していきます。

先生からしてみれば子どもたちは自分が授業を持っていた時の記憶のままであるはずなのに、久しぶりに出会う時にはそんな姿から数段も成長した姿を見せてくれるわけです。

その成長過程に自分は関わっていないにしても、やはり成長して活躍している姿を見て、その成長に少しでも関われていたんだな、記憶の中にとどまって入れたんだなと思うと、なんだか嬉しい気持ちになるのと同時に、教員やっていて良かったなと思うわけです。

教員が報われるのは先の話というけれども、それはそれでいいのかもしれないとも私は思いました。

見返りを求めない無性の愛で教育していくことにこそ、教育のやりがいがあるのかもしれません。

とは言っても、自己犠牲のしすぎは良くはないですが。

いつでも連絡が取れるからこそ、逆に取らない

考えてみると、こう言った久しぶりに出会うとかその時間と空間を共有した時にしか起こり得ない奇跡は以外にも見落とされがちなのかもしれません。

特に現代社会では科学技術の進歩によって誰とでもすぐに会えるようになりました。

たとえ卒業したところでSNSを使えば連絡を取ることもできますし。

でも、その心のゆとりというか頼りにしすぎているものが逆にこう言った出会いの大切さを忘れさせているのかもしれません。

そして気づくと意識すら出会いからは遠のいていってしまうのかもしれません。

今年私は30になるのですが、同窓会をやろうという話が上がっています。

それでも、これだけSNSが発展しているにも関わらず連絡の取れない人もいるわけです。

そう言った見えない安心感に頼りすぎるのもどこか私たちの意識を侵食している部分があるのかなと考えさせられました。

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