
大きな器をつくる謙虚な心とは? vol.343
日常六心は普遍的で絶対的なものです。
「はい」という素直な心
「すみません」という反省の心
「ありがとうございます」という感謝の心
「おかげさまでという」という謙虚な心
「させていただきます」という奉仕の心
「いつもニコニコ笑顔」の明るい心
普遍的で絶対的だからこそ、長らく語りつかれ残り続けているのです。
そこには、特に日本人の大切にする生き方在り方、志、全てが詰まっているのでしょう。
今日はその日常六心の中でも謙虚な心について触れていきます。
謙虚さはどこから訪れる?

「おかげさまで」という謙虚な心。
これは一体どこから訪れるのでしょうか?
私はここ最近、特に4月冒頭は忙しくていがぐりとげぐりの再来でした。
3年目の時と同じように、できるだけ話してくれるなオーラ全開で仕事をとにかくこなすことに必死になっていました。
4月冒頭の忙しさは致し方ないところがあったとはいえ、それでも余裕はなかったです。
そうなると、謙虚な心など生まれるわけもなく、「おかげさまで」なんて言葉を言った覚えは一度もありません笑。
つまり、謙虚な心とは意識をすれば生まれるわけではなく、しっかりと自分の心に余裕を持った状態である必要があるのです。
忙しく、心を亡くした状態では持てるはずもないのです。
では、一体どうすれば良いのか。
それはやはり、謙虚な心に行き着くまでの日常六心を大事にすることにあるのです。
「すみません」という反省の心
「ありがとうございます」という感謝の心
があって初めて謙虚さが生まれるのです。
むしろこれらを持っていなければ、謙虚さは違った形として表出されます。
心に嘘をついた謙虚さ

それは、例えば打算的なものであったり、セルフハンディキャップあったりします。
これらをするのは必ずしも良くないとは言いませんが、この謙虚な心は日常六心のような、真に携えて意識するようなものとは大きく異なります。
打算的であれば、その関係は所詮そこまでとなります。
損得でつながった関係は損得でしか発生せず、損得でしか継続できないのです。
つまり、どんなに謙虚な心を持って相手に接したとしても、それが打算的であれば必ず相手もそのようにあなたに接してきます。
一方で、自分を下げるような使い方もあります。
例えば、すごいですね〜と褒められた時、どのように対応するかでも謙虚さが押し計れます。
この時にただ単純に
「いえいえ、そんなことありませんよ」とか「私なんて大したことないです」
というのも一見、謙虚さに見えますがこれらは自分を否定していることにもつながります。
自分を否定するということは、自分につながる全ての人を否定しているようなものなのです。
謙虚さは謙虚さでも、控えめのように見えても冷静かつ内なる情熱を持っている人こそ真の謙虚な姿勢と言えるでしょう。
謙虚さは無知の知に通ずる

謙虚というと、かの有名な無知の知で有名なソクラテスにもつながります。
あなたが一番賢いと言われても、それを疑い自分の賢さとは何なのかを問いただしながら、証明して行った話です。
つまり、私たちにとって最も愚行とも言えるのは、知らないのに知っているふりをしていること。
理科強いていないのに、さも自分は理解していると思い込んでいること。
これこそが愚かなのでしょう。
ソクラテスはこれを導き出し、無知の知として自分が知らないことを知っていることこそが真の知恵として定義したのでした。
だからこそ、傲慢にならずにただひたすらに学び続ける、成長し続ける必要があるのです。
謙虚な心はこのようにさまざまな場所でその姿を変えながらも、私たち人間の必要なものとして奥底に携わっているのでしょう。