お母さんが、お父さんが、クラスメイトが、部活の友達が、当たり前にできることを、難なくできる子、こなせる人間に、私もなりたかった。
やさしさがあれば、誠実さがあれば、努力があれば、できる人間になりたかった。
どれだけ憧れて生きてきたことか。1桁の年齢の時から、生きてきた日の数だけ、ずっと。

思いやりがあれば、誠実さがあれば、努力があれば、できるのだと思ってた。私には努力が足りないんだと思った。方法が間違っているかもしれないと思って、たくさん調べて、論文も読み漁って、すべて試した。高インパクトファクターの手法の前に折れるたび、積み重なった確率の掛け算の数字を見て、「人間ではない」と言われているような気がして、絶望した。周りの子にもたくさん聞いた。「できない」という概念を分かってもらえなかった。

私が私を毎日呪った。毎日。自分を責めなかった日なんてない。頑張らなかった日なんてない。どうしてこんなに怠惰なんだろう。どうしてこんなこともできないんだろう。思いやりや誠実さが足りないのかな?きっとそうではないと思う、となると、努力が足りないんだ。もっと頑張らなきゃ、頑張ろう、頑張らなきゃ。

今ならわかる。怠けてたんじゃない、頑張ったんだよ。私が「努力の超人・鋼の意志だ。それゆえに当たり前のことが当たり前にこなせてるんだ」と思って尊敬してきた「みんな」は、超人並みの努力と鋼の意志をもってして、やっていたわけではなかったんだ。むしろ、それらのことに関しては、私はきっと「みんな」より、ずっと頑張ったんだ。それなのにできない。できないことすら理解されない。「できないってどういうこと?」

「人間として当たり前のこと」だと、よく言われる。「最低限のこと」とも言われる。私も、ずっとそう思ってきた。今も、思ってる。

ごめんね、でも、思いやりがないわけじゃないの、誠実さがないのじゃないの、努力が足りないのじゃないの、できないの、ごめんなさい。ごめんなさい。
私が一番求めてきた。できると信じて期待して、頑張って、頑張って、自分の期待を自分で裏切って、どうしてだろうと泣いてきた。ごめんなさい。それでも、できないの。ごめんなさい。

生まれない方がよかったのだろうか。
何度も、何度も。何度、そう思ったことだろう。
私がいなくなった方が世界が良くなる、なんて、そんな傲慢なことは、思ったことがない。符号を変える価値なんて私にはない。ただ、価値がないんじゃないか、当たり前のことも当たり前にできない人間には(無条件に愛してくれる家族以外にとっては)価値がない。価値がなく、迷惑をたくさんかける人間でも、世界に存在するだけでエネルギーを消費する。それは、存在として総合的に負なのではないか、と、何度も何度も、考えた。考えたくもないのに、自分に絶望するたび、思い知らされた。
私に、無条件で愛してくれる家族がいてよかった。その自信がなかったら、「私の命と幸せを何より望んでくれている人がいる」という自信がなかったら、どうなっていただろう。
私が、世界を愛していてよかった。世界の無機物・有機物・生命を愛していてよかった。「世界は美しい、だから明日は必ず美しい」という自信がなかったら、私はどうなっていただろう。
私は家族に幸せでいてほしいし、私は世界に欲情している。
私を構成するたった2つの自信が、私の内にあるものではなく、外にあるものでよかった。普遍でよかった。

「どうしたってできるようにならない」とやっと分かった。できないのは、私のせいじゃなかったんだ。怠け者だから、だらしないから、不真面目だから、できないんじゃないんだ。
救われた、と思った。できないことは変わらないけれど、もう、自分で自分に勝手に期待して、自分で自分を裏切ることを、繰り返さなくていいんだ。「諦める」べきなんだ。と知って、たしかに救われた。
私を抱きしめてあげたいと思った。よく頑張ったねって。あなたは、頑張りが足りなくて歩けなかったんじゃない、脚が生えていなかったんだよ。そのことを責めなくてもいいよ。って。
涙がたくさんでた。そのことを知れて良かったって思った。

真面目だよね、頑張り屋さんだよね、意志が強いね、と言われて、いつも不思議だった。当たり前のこともできないほど、こんなに怠惰で意志の弱い人間なのに。私は、そんじょそこらの誰にも負けないくらいだらしない、意志が弱いって。だから、他者から掛けられた反対の言葉を、すこし自分のものとして取り扱えた時、おどろいた。すこし経ってから感動した。涙が出た。

しかし、だ。
覚悟はしていた。だけど、知らなかった。
「自分に期待できない」ことが、こんなにつらいんだって。
つらさがすぐに無くなるとか、いつか全く取り除かれるとか、そんなことは思っていなかった。でも、「自分で自分に勝手に期待して、勝手に自分を裏切る」という終わりのないループから抜け出してほっとし、これよりつらくなることはないと思っていた。

吐くような思いをして、自分を滅多刺しにして、たくさんの血を流して、自分を沈めるほどの涙に浸かって、やっと「ふつう」への憧れを捨てようとした、捨てられたと思った。

でも、やはり「ふつう」を求められる。「とくべつ」であることを褒め称え、時に囃し立てる一方で、「ふつう」でないことを責められる。そんなの矛盾している。できるようにならなきゃ、と思って、信じてきたけれど、矛盾している、ということが、やっとわかった。救いであるはずのその気づきが、つらい。

それで、どうやって、内側に自信を持てって言うんだ。「『ちゃんとした人間』として、『頑張れば当たり前にできる』とされていること」もできないのに。「とくべつ」って言葉が大嫌い。胸が焼けて潰れそうになる。

何を言われたって、理解されなくたって、傷つかなくてもいいのに。聞き流せばいいのに。と思うけれど。たぶん、他者を、大切な人を傷つけることがつらい。だって、どれだけ説明しても、分からない人には分からない。私が聞き流しても、その人の中には「どうしてだろう」が残る。わずらわしさが残る。「できないという概念がない」とは、そういうことなのだ。
私はもう、私に期待できない。「できるように頑張るね」と言えない。嫌われるのは、さみしいけどこわくない。傷つけるのがこわい。
友達ならいい。大きく傷つけることはない、友達ってそういうものだから。だけど、家族とか、仕事のパートナーとか、人生のパートナーとなると、傷つけてしまうかもしれない。だからこわい。(もちろん、わかってくれる人も、いるけれど。その友人たちのお蔭で、私は生きている。)

つらい。つらいつらいつらいつらいつらいつらい。つらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらい。つらい。つらいよう、つらいよ、どうしたらいいの。つらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらいつらい。わんわん声をあげて泣きじゃくっても、どうすることもできない。もう、私に期待することもできない。泣いて溶けてしまいたい。でも、この世界を生きたい、この美しい世界を一秒でも長く映していたい、感じていたい、浴びていたい。だけど、私はもう私に期待すらできない。良い意味で諦められたと思った、やっと。楽になれた、徐々に解放されると思った。毎日の自己嫌悪からも、自責からも、あの不毛な裏切りのループからも。だけど、求められると、やっぱりつらい。ごめんなさい。こんな私でごめんなさい。つらい。つらい。どう進んだらいいか分からない。私をどうやって生きたらいいか分からない。
だけど私は夢を捨てられない。
世界を捨てられない。
私は私を、どう生きればいい。

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