【人生観】『死』は3回訪れる
人間にとって『死』は、3回訪れます。
それが『精神の死』・『身体の死』・『記憶の死』です。
(専門的な用語があるのかもしれませんが、ここではぼくの言葉で述べていきます。)
精神の死
精神の死とは
簡単に言ってしまえばロボットです。
ロボットのように
感情がなく無慈悲、無感動になるということです。
その人の体は存在するし目に見える、
しかし
中身は空っぽで、表情がなかったり感情がなかったりする
というような状態です。
一般的に言われている『死』ではありません。
もちろんこのような状態は
生命という面では生きてはいますが、
上でも述べたように
ロボットとほぼ同じなので
人間という面では『死んでしまっています』。
人間には
『精神』というものがあります。
どんなに静かな人でも持っています。
喜怒哀楽やものの好き嫌い、合理不合理を判断する心理など
生きていく中で必要不可欠なものです。
そんな
『精神』をなくしてしまっては人間ではありません。
何度も繰り返しになりますが、
ロボットと同じです。
===
実は
ぼくは以前
この『精神の死』を体験しました。
軽いものでしたが
とても悲しいものでした。
世界が白黒に見えて
全てのことにやる気が起きない。
ゆえに生きる意味が分からなくなり、ただただ泣き崩れるということもありました。
ただ
今ぼくがこうやって存在するように
この『精神の死』は、回復する可能性があります。
その程度やあり方に違いはあるものの、
一般的な『死』とは異なり
回復する可能性があるというのは良いことだと思います。
なぜなら
その経験をもとに何かをスタートさせられるかもしれないからです。
現にぼくは
それをきっかけに大きく考えが変わり、
今こうやって発信を続けています。
長くなりましたが、
これが『精神の死』です。
身体の死
『身体の死』というのは
一般的に言われている『死』です。
身体が無くなるということは
存在しなくなるということですから、つまり『死』です。
このことは
1つ目の『精神の死』と違って
回復することはできません。
身体があっての人間ですから、
身体がなくなってしまっては元も子もありません。
(※『魂』が云々という話もありますが、ここでは科学に則って述べます。)
裏を返せば
身体さえ残っていれば、さまざまな可能性が得られます。
ですから
この『身体の死』は避けるべきものでしょう。
===
ちなみに
この『身体の死』が訪れてしまえば
必然的に1つ目の『精神の死』も訪れます。
精神を保持する身体が無いのですから、
当たり前でしょう。
(※同上)
記憶の死
最後に『記憶の死』です。
これは
主体的な考えではなく客観的なものです。
そして
2つ目の『身体の死』が訪れた上でのものです。
どういうことかと言うと
その人が死んでしまった(『身体の死』)際、
周りの人の記憶にその人が残っているかどうかということです。
例えば
父親が亡くなった(『身体の死』)としても
家族が父親のことを記憶していれば
『記憶の死』は訪れていないことになります。
反対に
その家族も皆死んでしまって(『身体の死』)、
父親を記憶する者がいなくなってしまえば
その父親にも『記憶の死』が訪れたことになります。
ですから
織田信長や徳川家康、
はたまたマイケルジャクソンやブルースリーなどは
亡くなってはいます(『身体の死』)が
我々の記憶の中にはいますから、『記憶の死』は訪れてはいません。
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『記憶の死』は
生きている(『身体の死』が訪れていない)時にも
訪れる可能性はありますが、
可能性は極めて低いので
やはり『身体の死』が訪れてからになるかと思います。
これが『記憶の死』です。
まとめ
要は
『精神の死』は訪れても問題ありません。
なぜなら
そこから回復できるから。
1番気をつけるべきは
『身体の死』です。
人間というのは生きてなんぼです。
生きていることが前提にあり、そこから可能性が広がっていきます。
『精神の死』、『記憶の死』は訪れてもかもいません、
そこから再起して
『身体の死』さえ訪れないようにしましょう。
===
「前を向こう」とは言いません、「頑張ろう」とも言いません。
今はだらだらしていたって構いません、
時間に身を任せていたって構いません。
生きていれば
そのうち何かが変わるかもしれません。
そのうち道が切り開けるかもしれません。
それが生きている上での可能性です。
『身体の死』が訪れてしまってはその可能性さえ無くなってしまいます。
『死』について考えることはしても
実行するのはやめましょう。
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