30歳について
30歳になった。
つまり、私が自らの頑強たる自由意志にもとづき、この美醜たる娑婆に繰り出したこと、すなわち「産まれた」ことを嚆矢とし、それから太陽が地球を約30回公転したということであり、そのような背景がある以上、「30歳になった」と言っても決して過言ではないだろうし、少なくとも他の誰にも迷惑はかけるまい。道は自らの手と足と、何より確固たる自由意志をもって切り拓いていきたいものだ。
そういうことで、何を以って「産まれた」とするか、定義によって変わってはくるものの、医学的とか出生手続きとか、そんな感じのアレに準拠しつつ、ついでなので折角だからとグレゴリオ暦に則ると、どうやら私は30歳と自称しても嘘偽りはなさそうだ。
然しながら、医学的なのはさておき、出生手続きだのなんだのは、なんとも馬鹿らしいと思う。「人間が産まれた」とはつまり、母親の子宮から美醜たる娑婆へと繰り出したこと以上でも、ましてやそれ以下でもないわけで、それをわざわざ、顔も知らぬどこぞの連中にその旨を提出しないことには、どうやら「産まれた」ことにはならないらしい。はっきり言ってこれは馬鹿げている。
事実、なんて度し難いほどに馬鹿なことだろう、考えてもみなさい、私は私、君は君、こうして生きていることとは、「生きているという感覚があること≒この認識」が全てであって、それ以外はおしなべて些事だとは思わないか、自らを自らであるとするほかに、何が自らを自ら足らしめるというのだ、過去は過ぎ去りもうあらず、未来は来らず未だにないのだ、ときに『誰も知らない』は視聴したか、是枝裕和監督による国産映画だ、どこぞのアホな連中に「産まれましたよ」の旨を提出しなかったことによって生じた、哀しく寂しい話だ、あれは実に素晴らしい映画だが、同時にまったくクソな話だ、どこぞのアホな連中は浅薄な正義感を盾に、当事者の思いや人格を踏み躙り、生き物をシステムの、レッテルの、カテゴライズの檻に投獄する行為に耽っているのだから、これはいかにもたまったものではない、同監督作品の「万引き家族」が記憶に新しいと思うが、そちらもまた素晴らしく切なく、そしてクソな話なので、観ることをオススメする。
さて、天に唾棄したような、捉えようのない虚無感が私を苛むので趣向をガラリと変えたい。
ガラリ、なにげなく使用するこの言葉(オノマトペ)の語源は、一説によると、歌舞伎の怪談物で、戸板の前に立っていた普通の女性が、寄りかかった戸板がぐるっと回ると、恐ろしい幽霊が戸板の前に立っているように変わるという、からくりを利用する演目があるのだが、そこからの連想とされているそうで、偶にはYahoo!知恵袋も役に立つのだなと思った次第である、なにせYahoo!知恵袋といえば、普段はインターネットの片隅にてじっと息を潜めているような、まさしく魑魅魍魎というべき者どもが跋扈しており、その様相たるや、まさしく知恵の泉なき不毛の地であり、不遜こそが力(ちから)で、尚かつ力(ちから)こそが世界の理であるから、せっせと苗を植えたところで、力(ちから)を所有する者の前では無力、瞬く間に枯草と化すのである。それが故、辺り一面ぺんぺん草すら生えてこず、大地はひび割れ、おまけに日照り続きときたものだから、そのような惨たる環境下において、一粒の知恵の種を得たことについては、まったくもって僥倖と言うほかない。
兎角、ガラリとはそういう語源であるから、ここはガラリと趣向を変え、一般的に「キリが良い」とされる30歳を迎えたそんな折の、心境の変化を書き連ねようか。
これは特にないのである。
そして文頭では、あたかも自らを「自らの意思をもって母の子宮より出でし、産まれながらの勝者」とでも吹聴せんばかりではあったが、そういえば私は、出産時は帝王切開であったことを思い出した。
そんなことだから、今後とも人様の手を借り足を借り、誰かの切り拓いた道をやおら歩いて生きていこうと思った。揺り籠から墓場までな。
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