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東海道NOW&THEN 49 「坂下」

関から坂下まで1里24町。約6.5km。

 関の京口を出ると、しばらくは国道1号線に沿って歩く。約10分で「転び石」。夜な夜な怪しげな音をたて街道へ転げ出るので、恐れる里人たち。弘法大師が供養をすると鎮まったといわれる石だ。そこから20分ほどで、広重が描いた筆捨山が右に見える。坂下宿までは、さらに40分。

  広重が描いた「筆捨嶺」は、国道1号沿いの歩道から見ることができる。かつては岩根山と呼ばれていた。室町時代、狩野派の著名な画家が描こうとしたが納得できる絵にならず。筆を捨てて、描くことを諦めたといわれる山だ。以来、筆捨山と呼ばれる。東海道では名高い名所で、茶屋がいくつかあり、旅人たちは一服しながらこの名高き山を眺めたという。絵の中、旅人たちの山を眺める姿があれこれあって面白い。写真は、現在の筆捨山。広重の時代から植生が変わってしまい、ごつごつとした岩肌は見えなくなった。もちろん茶屋もないので、国道沿いの歩道から民家越しに撮影した1枚。

 国道沿いにある江戸から107番目、一ノ瀬の一里塚。そこから東海道は国道1号と分かれて鈴鹿峠を目指す。坂下宿の手前に「鈴鹿馬子唄会館」。坂下宿の資料と鈴鹿の馬子唄が展示されている。箱根の馬子唄と同じ歌詞をいくつか散見。例えば「三島照る照る 小田原曇る あいの箱根は雨が降る」が「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」などがそれ。
 坂下宿は鈴鹿峠を前にして英気を養う、あるいは峠越えの疲れを癒す、かつては3軒の本陣を抱える賑わった宿場だったが、今は何もない。というのは失礼かもしれないが、これまでの各宿場は都市として発展している場合を除き、それなりに宿場らしさを保ち訪れる人のための土産物屋や食堂、商店などがあった。だが、ここには日用品を扱う商店さえない。かつて商店だったと思われる家屋に貼ってある昭和時代の宣伝看板が、妙にうら寂しい。1軒だけ開いている店がある。実は、関宿名物の餅菓子「志ら玉」を作っている「前田屋」。そこ以外に、「生きている町の空気」が感じられないのだ。もちろん、ここに暮らしている人たちはいるのだが…。
 宿場を歩くと本陣跡の小さな石標が並ぶ。それを見ると「松屋」「大竹屋」「梅屋」、3軒並ぶと松竹梅。この洒落っ気も今では物悲しく感じられる。 

 箱根と並ぶ東海道の難所、鈴鹿峠。鈴鹿の地名は、壬申の乱の折、大海人皇子が加太越えをしたとき豪雨のため山中で道に迷う。そのとき首に鈴をつけた鹿が現れ、それに乗って大海人皇子は無事に峠を越えることができた。皇子は、この地を鈴鹿と名付けたという。
 峠の登リ口に「片山神社」。東海道は、ここから「鈴鹿坂八丁二十七曲がり」の急坂といわれていた。坂を上り始める。右へ左へつづら折りの石畳が続く。やがて芭蕉の句碑「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」。さらに上り続けると「鬼の姿見」とも呼ばれる巨岩「鈴鹿山の鏡岩」。平らな岩面が鏡のような光沢を帯び、山賊がそれを磨き上げ、隠れてそこに映る旅人を襲ったのだとか。これは断層が生じるときの強大な摩擦によって岩面が鏡のような光沢を帯びるスリッケンサイド(鏡肌)というそうだ。
 鈴鹿峠の頂には「万人講常夜燈」がある。江戸時代、金毘羅参りの講中が安全を祈願して建立したもの。高さ5m半、重さ38t。近在の村人たちの奉仕により、すべて自然石を集めてできあがったといわれる。これまで東海道中で見てきた多くの常夜灯に比べて、そのスケールの大きさに圧倒される。

 万人講常夜燈から次の土山宿の手前にある「田村神社」までは、山中の一里塚を通り約6km、1時間半。

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