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わたしの紹介(人生ざっくり)

今回のページは2021年7月に改めて私の人格形成に影響を与えた出来事と人生観についてザックリ(でも約10000文字w)編集したものです。あまり興味のある方は多くは無いかと思いますが、「どんな人?」の判断材料にしてもらえればと思います。

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※2020年に始動していた「イエナカ」活動ですが、ひとり娘の不登校問題が発生し、正直それどころではなかった為(笑)、全経済活動を停止してその解決に取り組んでいました。(現在娘は無事、青春を謳歌中w)

当時読んでくださって、更新を楽しみにしてくださっていた方々には改めてお詫び申し上げます。

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不動産に係る自己紹介はこちらです↓

https://note.com/preview/n4a35e5fbc773?prev_access_key=958f960d21728ed868184663f12116e1


■孤独と豊かさが入り混じる幼少期・父の影響

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 私は、東京23区にある大きな商店街が独特なことで有名な、とある町で商売人の家の長女として生まれました。


両親は共働きの商売人でしたから日々が大変忙しく、その時代に兄弟の居ない子供というのは、まだとても少なかったのですけれども、私はいったん「ひとりっ子」として生まれ、家と親を背負う長男のように教育されました。(のちにとても年齢差のある弟が誕生する)


したがって、私の幼少期は空想して自分の世界に浸るようなタイプの「おとぎ癖」が付きました。遊ぶ相手は自分以外に居なかったからです。


 また、時代が「おしん」全盛期だったこともあって、私は毎晩のように父に殴られて叱られ厳しく育てられていたので、子供なりの現実逃避だったのか?妖精や神さまの存在やお月様、太陽、ご先祖様などと交信ができているような感覚がする幼少期を過ごしています。



 一方、現実世界では父親がサラリーマンではなかったことで、私たち家族は毎晩、食卓を家族で囲むという事が「普通」に出来る家庭でした。それが「ぜんぜん普通のことではなかった」と強烈に知ることになったのは、なんと私が結婚した後になります。


 また、父親が会計士のゼミを出て商売人をしていた為、(次男であることから、母方の稼業を継ぐことを運命づけられており、会計士になればその檻から逃げられると思って挑戦したものの叶わなかったという父の挫折の経歴)



今思えば、お金や経済についての何となくの「価値観」というのは幼少期から夕飯での会話などを通して、つけて貰っていた気がします。それに父が零細企業の経営者だったことで、外側の社会では最大の名誉である「肩書」というバッチに対する敬意のようなものは、私の中に育まれることはありませんでした。


信頼できるかできないかは「バッチ」ではなくて「人間性」。


 この判断基準は何もおかしいことではないと、今でも思いますけれども、現実の社会に出てからは「バッチ第一主義」の組織におけるバランス感覚や器用な立ち回りを鈍らせ、あまり私の社会人としての働きには貢献しなかったとも思っています。(幸運だったとも言うのかもしれません。)


 そして、父は商売人でしたから「安く買って高く売る」という事が人生全体の基本指針でした(不動産以外w)。ですからお金を稼いでも「メンテにいくらかかるか分からないカッコイイ外車に乗る」というような感性は皆無でした。とてつもなく質素倹約で自分で使うものには実質的価値投資価値のあるものにしか1円もお金を使いたくないという人でした。

その代わり、教育や人のためなら、比較的お金を使う人でした。


■生家はネズミが住んで雨漏りする木造2階建てのボロ忍者屋敷

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 今でこそ、3棟の収益不動産を持つことになった父親ですが、私が生まれたころには事業も全く軌道に乗っておらず、私の祖母と祖母の姉妹名義の土地の上にあった店をどのように経営していくかで頭を悩ませていました。


 私の生まれた生家は、その土地上にいつ建てられたのかも分からない店と倉庫が長屋のように連なっている建物の2階部分でした。私が生まれたばかりの当初は風呂場もなく、それはすぐに祖母の援助で増築したものの、小学校低学年の時まではあちこちで雨漏りがしており、雨が降るたびに家族三人で洗面器やバケツを並べました。


 私の寝ていた部屋の屋根裏にはネズミ(軍団)がおり、夜中にネズミの運動会が夜な夜な開催されているようなザ・ボロ家で、ただのボロ屋というよりも、ホント座敷童がフツーに居そうでしたし、構造もおかしかったので忍者屋敷のような家でしたw


 子供の頃の私は、自分の家を「なんとなく貧乏な家」だと思いながら育っており、でも、そんなことは自分のしあわせには全く関係ないという感じで、今思えばとても豊かな情感あふれる幼少期でもありました。


 父親はその後、時代の後押しもあって、私が小学校高学年になるころまでには商売を軌道に乗せ、その忍者屋敷があった地に、RC7階建ての賃貸居室を持つ不動産を建てました。子供だった私にとってはボロネズミ小屋から、シンデレラ城に引越したようなびっくりする出来事でした。


 けれども父はというと、大家業と自営業を持っても、ネズミと共同生活をしてた頃と変わらない経済水準で我が家を維持していきました。多額の借金をして建てたその城の返済は、私が離婚して出戻るまで何十年も続いていたからです。


 そんな父を中学生や高校生の頃の私は「ちょっとケチ」だと思っており、「煌びやかでお洒落でカッコイイ生活」をする友人宅のご家族が、羨ましくて仕方ありませんでした。でも今思うと「大切なものを守りきるための戦略」だったのだと痛感します。


■「女の子」だけの世界にいた女子校6年間


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 暫くして私は、両親の理想と投資という意味で、小学校時代から猛勉強をさせられ、中高一貫のそれなりに難易度の高い私立女子校へ進学します。


両親としては、その線路上でおいおい、それなりの有名な大学に入って、同じような属性の男性と娘を結婚させるのが正攻法だろうというのがあって、女の子の親なりの戦略がそこにはあったようでした。(後に私が美術大学を選んでしまい、親は失意で立ち直れない日々を暫く暮らしました。)


 その女子校では、当時から「女性の社会的自立と活躍」ということを大きく掲げており、学校側がそれを大きく掲げるのには「実際は、それがとてつもなく実現困難な社会というものが実際にあったから」という背景があっての事だったのだと今なら分かるのですけれども、


そこもまた、人生経験0に近い脆弱10代の私には、背景など考える必要などなかったため、女性が社会で男性並みに活躍することなんて「普通のこと」と思って女の子だけの世界で暮らしてしまっていました。


男女は生まれながらに、当然等しく扱われているものだと思っていました。だって、そう教科書も書いてありましたし憲法の授業でもそう習ったからです。ホントそんな平和ボケな感じでした。

 同時期に私の家には「本当の長男」が誕生し、私からすべてを奪っていくことになりました。


弟には何の悪気もないわけで、今思うと申し訳ない気持ちも色々湧きますが、余裕のない父親に殴られながら育った私とは違い、成熟した精神の両親の元育った弟は、殴られることもなく、叱られることもほとんどなく、愛情だけをひたすら浴び、元々生家はシンデレラ城、というわけで、私とは精神的にも経済観念も全く違った感性を持って育ちました。


 私はというと現実社会とは隔離された、「女性だけの環境」で過ごした多感な6年間が、後に社会適応に対する大きな困難を、さらに増幅することになります。(女子校特有の大きな財産も今回は書きませんが、実際はあります)


私の人生をこの年齢になって振り返ると、最初から社会不適合者になるべくして育った感が否めない経歴が多いことに気が付きます。


夢を諦めた美大生時代。


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 「社会不適合者になるべくして育った感」でいうと、美術大学で私の所属していた学科は就職に有利なデザイン系ではなく、「ファインアート系(芸術)」の専攻だったため、


私の学年できちんと就職活動をしていたのはと教員志望者、あるいは学芸員になりたい人たちだけでした。あとの大半は「作家活動」という名の無職の道を選ぶのが普通のようになっていました。チョット、今の時代では考えられない事です。


 私がその中で例外的に就職活動をしていた理由は、美大進学にそもそも大反対していた父から「お金を使って粗大ゴミをつくり続けるなんて、学生の時間が終わったら二度と人生にないと思え。」と言われたことがとても大きなショックだったからでした。


序盤にも書いたように、父の「安く買って高く売る」という商売人の理念からすると、娘が行っている「お金を使って、粗大ゴミをつくり続ける活動」人でなしの生き方にしか見えなかったようです。


同時に、私も大学三年生の頃になると美術大学の校内の雰囲気、「個性的という言葉をはき違えた奇をてらう作品の数々」「自分を表現する」とか「アーティスト」というような言葉に対して、ちょっとしたアレルギーのような反応が出てくる感覚が起こりました。


 そして、「身を立てられるように稼ぐ」「誰かの役に立つことで」という事の方が、私にとっては「作家」として食べていけるようになるまでの道のりよりははるかに実現可能性も高く、幸せなのかもしれないという結論に達しました。


そう思ったのは、弟の誕生以降、家にとって「厄介者」でしかなかった女の子の自分を、どうにか守りたかった想いもあったと思います。


居場所のなさ、存在の希薄さを埋めてくれていたのが美術の世界でもありました。けれどもそれすら、両親にとっては汗水たらして稼いだ金銭をドブに捨てるような「人でなしの活動」に過ぎなかったわけで、本当に今すぐ私を消してくれと20代の私は思って生きていました。


 そうして私は、芸術への興味や憧れよりも、「経済」「精神的健康」を大学卒業時に取ったのです。夢を諦めたのは社会に出る前という事になります。


このことは、正直今でも「もし、あの時に・・・」とたまに思う、ひとつの後悔が残るシーンでもあります。


ただ、当時の世界は数年前までMS-DOSの世界であり、ようやくiMacが話題になっていて、私はケータイなんか持っていない、自宅でチャットしてたら通信費(ダイアルアップ接続w)に2万円の請求が来て、母がビックリ!という状態だったので、


もし今だったら。と思うと、
お金を稼ぎながら作家を目指せる生き方がいろいろ選択肢として考えられ、「廃人」にならない人生として実現するのかな?するだろうな、と思います。

だから世界はきっと、これでもいい方へ向かっているのだと。私は思っています。


■結婚出産で、「女の子」の人生は一気に過酷になっていく。離婚でレベチな蛇の道へ。


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新卒後から結婚に至るまでに属した会社や職業も、たくさんあったのですが、色々複雑で困難な道だった為、そこまで入れると相当混乱するはずなので、思い切って割愛します(笑)。


とりあえずそこまでだって、女の人生は蛇の道でした(笑)


細かなお話はご縁があったら話すこととして、そうして紆余曲折があって、


私は結婚し、出産し、絶望し、シングルマザーとして離婚後再出発をし、子供との健全な未来を過ごしていくために社会復帰という激動の滝行時代を通っていくことになりました。


子供の頃から女の子が誰しも夢に描いていた「花嫁さん」。私もようやく結婚相手を見つけることができたと(そこまでも生死をさまよう大変なドラマだったw)


変な話、もともと「おとぎの国系妄想族」だった私としては、結婚という事実に対して就職することなんかより100万倍、子供の頃の目標地点へ到達したような気持ちがしていました。


第一、20歳くらいというと、当時の女性社会の流れはバリキャリ旋風が吹いていた時期でしたけれども「早く子供を持ってお母さんになりたい。」と思っている女の子でした。今となっては絶滅危惧種なのかもしれません。


けれども、結婚生活はそんなに夢に描いたようなスウィートなものではなかった。

その後の離婚劇。。。

さらに離婚後の人生の再構築は、もっと大きな過酷さを増すばかり・・・。


レベチとは正にこのこと。


 私は、それでもシングルマザーの貧困率などと睨めっこして、「正社員」でなければ子供の未来を守り切ることはできないという考えから、そこにこだわり続け、

子供との未来を健全に運行するという目的のために必死で履歴書を書き続けました。

離婚後に5社正社員で所属し、派遣社員も含めると6社に所属しました。(離婚後だけでですw)


■既存社会で「正社員」として生きていくことを諦める。

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 けれども、2018年の秋に私は会社員という生き方を今世では完全に諦めることにしました。ブラック企業の雑木林を次々分け入って、ぜったいに倒れるものか!と培った不動産の経歴。



それがようやく開花するはずだった最終目的である企業で、私は最後の最後に強烈なパワハラを受け続けていたのでした。それは結局3年間にも及びました。ただ、その1点を除けば、条件としては最も恵まれていた職場でもありました。でも人生って、こういうことが起こり得るのです。

 ガンは中間管理職の直属上司1人だけで、その企業は不動産業界で言えば珍しく純白のホワイト企業といってもいい会社でした。他の幹部にはシングルマザーであることも理解して貰っており、これ以上ないと言える条件を貰って、大事にして貰っていました。


だからこそ、この会社を辞めても、もう他には絶対にない、と腑に落とせたという事もあったろうと思います。辞める時にも、シングルマザーであるにもかかわらず、私に可能性を与え続けてくれた幹部の方々へ恩を十分に返せていないままの退社となることに対して、本当に申し訳ない気持ちと自分の無力さを感じました。


 それに、就業していた期間は薄々感じてはいたものの、自分の中ではこれを「パワハラ」だとは思わないようにしてきていました。そう思っても、他にこれ以上の会社はないのだから、そこを考えても無駄、としていたからです。でも、退社してからはやっぱりどう考えても酷いパワハラだったよな、と思います。


 会社を辞める直前期の私には、会社を辞めた方がよいのかもしれない、という様々な考えが集結してきていました。そこへ、3年間に及ぶパワハラのホディブローがじわじわ効いてきて、昼休みに外をブラブラしていると、知らず知らずの間に「あの建物は飛び降りやすそう」とか普通に想像するような心理状況になっていました。

梅核気という、離婚時にも発症したストレス性の症状も出てきて、「ああ、本当に限界に居るんだな」と自覚をしました。


娘の未来を守っていきたいから会社員をやり続けてきたのに、会社員であることにしがみついて死にたくなっている場合ではないので、会社員の方を辞めることにしました。


 後に時間が経ってみると、私は彼女(パワハラ上司)のようなどうにもならない人間との出会いがあったからこそ、「自力で生きて行く」という道をようやく選ぶことが出来たのも確かで、

これはきっと幸運な出会いだったのだと、今は思っています。快適な就業環境であったら、私は今の道を確実に選択できませんでした。


 これは、ちょっとスピった話にもなってしまいますが、神様がずーっと投げ続けていたメッセージでもあったのだろうと今では思います。


「子育てと会社員は実にもろもろ合わなすぎる。」「会社を辞めたい」と思ったのは離婚後直ぐだったので(本当は新卒の時から)、まさに8年間も、その「決意まち」でした。(おそいw)


神様は、そのたびに「そっちじゃない。」「そっちじゃないんだ。」っていって、それが分かってもらえるように、色々な困難を投下して知らせてくれていたんだなと今は思います。


たくさんの成熟した企業が、女性と男性の共生が可能な経営を現在も懸命に模索されている状況ですが、正直、私としては

「私の人生には、もう今の社会は間に合わない」と思っていました。

 そして、そこから1年半後の2020年春、世界はコロナ大流行によって一変しました。先取りのステイホーム状態をしていた私でしたが、この時、

ああ、やっぱり、
あの時にたとえ渾身の力を振り絞って、しがみついていたとしても
いずれ私はココで、どうしたってあの会社には居られなかったんだ。

と確信しました。


私はそういうわけで、2018年の秋に、最後の会社を辞職し、自分たちで生きて行くだけのお金を生み出すという方向転換をしています。


■一人娘の高校受験とコロナ禍での不登校問題

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 手ぶらで会社を辞めてからの約1年半、私は娘と2人で生き残るために、0出発で金銭をつくることをしていました。それはそれで、爪で火を起こすほど過酷でしたが、希望が描ける分、会社員よりはマシでした。


 退社当時、私の念頭にあったのは2年後の2020年であり、その年は娘が受験生となる年でした。そこまでの2年間に娘との生活を軌道に乗せて、私は来たるべき娘の「女の子としての最初のクライマックス」である思春期を一緒に寄り添って暮らす、そして受験も一緒に戦う。そう心に誓っていました。


なぜなら、会社員であり続けることにこだわった私は、娘の二度と戻ってこない幼少期やその成長を殆どを記憶に残すことはできず、「娘のため」と言いながら、会社員として戦い続けることにエネルギーの大半を使ってしまっていたからです。


会社で働き続けることを何よりも優先し、娘が発熱すれば娘の心配よりも、何日後に保育園へ預けることが出来るかを心配していました。娘の成長を見守るという母親の私にしかできない事を「できていない」という状況を、私は自分に看過し続けてきていました。

けれども、このまま思春期までも超えてしまったら、私は母親としていつか必ず後悔をすることになると感じたのも同時期でした。


幸い、奇跡的に退社から半年ほどで会社員の頃の給与に達し、1年半後の2020年3月は最高益を出すことになりました。


私は、激闘の結果、娘との闘いに間に合ったのだと思っていました。




ところが、ホッとする隙もないくらい間髪入れずにコロナショックが今度は私たちを襲います。


 私は退社後の1年半で築いた事業基盤が崩れていくのを早々に察知し、焦りを感じていました。このままではこれまでの全てが無くなる。そういった危機感でした。


 そうした私の焦りと余裕のなさは、娘にもダイレクトに伝わることになり、それだけでなく、コロナ大流行で中学校や進学塾も大混乱の中でのリモート授業の開始、部活も修学旅行も運動会も無くなる、という状況が起こりました。


新学期が9月になるかもしれないだとか、受験がどのようになるのかも分からないというパニック状況の中で、何を信じて、何についていけばよいかもわからずに娘の心は悲鳴を上げて、リモート授業が終わっても中学校へ行けなくなるという状況に陥りました。


 大人ですら、色々な恐怖心や焦り、恐れ、怒りなど、コロナ大流行には翻弄されていたわけですから、まだ心に耐性のない子どもたちがどれほどの大きなショックを受けていたかなんて、言うまでもないことだと思います。


大人たちはその時、自分の仕事のことで頭がいっぱいでしたから、子供たちの事は後回しにもなっていました。


不登校の話については、とても長くなるので、自己紹介では詳細については書きませんが、本当に、離婚以来の最大重量の問題となりました。自分がこれまで泥水を飲んでも生き続けてきた意味すら見失うような、本当に母親としても個人としても死の淵を見るような経験でした。


 けれども、こちらの問題も、運良くすでに私が退社して自宅で暮らしていた為に、約10か月後には奇跡的な結末を迎え、娘はそこから輝かしき高校生活をリスタートさせることが出来ました。現在では青春を謳歌することが出来ています。


私自身も娘の不登校問題をきっかけに、幼少期から抱えて蓋をしつづけてきた「ある種の問題」について消化をしていくきっかけを与えられましたし、母親としてこの問題を娘と一緒に乗り越えた経験は、かけがえのない記憶、私が母親として存在した意味を見出してもくれました。


今まで、娘は私をいつも暗闇から救い出してきてくれてきましたが、今回は私が娘を地獄の底から引っ張り出したと思える出来事でした。娘が生きて、元気に笑っているという事が、私にとっては何よりも大事な宝物だという事も知ることになりました。



全てが「この闘い」に向けたメッセージだったのだと思うと、本当に人生は数奇で神秘的なもの、そして甘美なものだと感じます。


■わたしの人生観まとめ

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 司法書士を目指して法律を学んでいたとか、都市銀行で不動産担保評価をしていたとか、やり手イケイケスーパー不動産営業マンと結婚していたとか、リノベ再販不動産業者でゴリゴリ満室化活動をやっていた、という経歴を並べると、私がとても合理的なバリキャリ女性だと思う方がいるかもしれません。


 でも、本質的には私自身は真逆の性質だと自分を思っていて、未だに「ガラクタばっかりつくっていた美大生」の延長線上に生きています。人生を振り返ると、いかにエモい足跡を残して生きていくかみたいなことしか考えていなかったかもしれない、と思います。


 なので、それだけでは生きていけない時代だったからこそ、(仕方なく)合理的で再現性のある現実的な経済活動みたいなものをやってきたという気持ちです。


それは肉体として神様から与えられた生命と時間を全うして、いつか神さまの前に立つときに「恥をかかないように」生き続けるための手段であって、自分自身の芯のような部分、ほんとうは全くお金になりそうもない「美術」とか「思想」の方にあります。


ここまでの社会では「再現性のあるもの」がいつもお金になりました。でも本当は、「再現性のないもの」こそが本当の価値のすべてだと私自身は未だに信じているところがあります。人の命や時間、人生、思い出、感情なんて言うものはその最たるものです。


 長生きにも、お金を稼ぐことにも、効率合理性お得に生きたい何が買いたいどこかへ行きたい、などということにも、私はある時から多分殆ど興味がなくなってしまったのですけれども(笑)



きっとそれは団塊ジュニアという施された教育と生きた現実が全く噛み合わない絶望世代に生きたからだと思います。


 それに私の生きた家は家父長制が未だに根強い家なので、父親が3棟の不動産を持っているからといって、その半分が子供の私に自動的に譲られるわけでもなく、大半は私の弟が男の子だからという理由で相続することが決定しています。



そして、それに対して私は出来ることなら、私は自分の相続分についても全て放棄できる未来を夢見ていたりもします。


これは「日本の女の子をバカにすんなよ。マジで。」という誰に向けてか分からない最後のパンチであり、私の人生最後の野心の全てです。実現できるかどうかはまだ分からないですけどね(苦笑)。


残ったのは

せっかく与えられた
人生というドラマを
楽しみたい気持ち。


人間にとって最大の誇りは
いかに透き通った美しい魂を残して
食いしばって
与えられた命を全うしたかということ。


感動という体験で
自分の人生に
生きた爪痕を残したい気持ち。


母親としては
娘をちゃんと精神面と経済面で自立させること。


それが終わったら、だいぶ自分の人生は丸かなと思っています。相続放棄までを達成できたことなら、私は自分の人生をバラ色だったと思って死ぬことになるでしょう。

 こればっかりは時間との闘いなので、両親には出来るだけ長生きして、私の野心の達成のために貢献して頂きたいと思います。


 父親に対しては、離婚後に出戻りした母子を仕方なく迎え入れてくれ、心中していたかもしれない私たち母子の絶望的未来を阻止してくれたという生涯、感謝し続けても尽くしきれない感謝と同時に、

けなげでひたむきな「子供から親への無償の愛情」を幼少期から粉々にされ続けたという憤り、


それでもここまで家族を安全運転で守り続けてきてくれてきたのだという事への感謝、


大家として商売人として「お金の価値観」と「土地に還元する」考えを若年期から持っていたことへの尊敬、


明治を引きずった昭和初期の常識から一向にアップデートされない価値観への失望…と色々な想いが娘としてはあるのですが、


ひとつだけ、それでもとても大事な宝物を貰ったという思いでいることがあります。

「立ち直りが早いことが、お前の一番いいところだ。」

 幼少期、毎晩のように「教育」の名のもと私を平手打ちして殴っていた父は、よく私にそう言って聞かせていました。私はいつもひとりでしたから、両親の仲間に入れて欲しくて、殴られた後であっても父が遊んでくれれば、目を輝かせて喜んでいたのです。

今考えると、本当にあの当時の少女の私大人の私は抱きしめてあげたい気持ちになるわけですが、父がこうして私に刷り込んでくれた「立ち直りのはやさ」は本当にあった能力かどうかは別として、


ここまでの結構過酷な人生を、いつも最後に支えてくれる言葉でした、というのを最後に残しておきたいと思います。


みんな、見えない背景を背負って、一生懸命生きている。そのことを知ることが出来た私の人生は、そのことを知る前よりもエモいし、甘美であることは間違いありません。それに、豊かでもあると。


『家で泣かない。』相談窓口~ 岩カキコについて
『家で泣かない。』note 自己紹介(不動産)
『家で泣かない。』note 自己紹介(人生全般)






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