上一社不動産物語その1「キャンセルの理由前編」
上一社不動産店長の上野優は、デスク横に置かれたホワイトボードをチラリと見た。今月の目標数字が、力強く書かれている。
毎月のしかかるプレッシャー。店長になっても変わらない。営業の時とは違ったプレッシャーがある。
だが、今月は少しだけ気持ちが軽い。昨夜、営業スタッフの兵庫(ひょうご)が購入申込みをもらったこともあり、目標達成は見えている。あとは、どれだけ上積みできるかだ。
そこへ。
「いやいやいや……ちょっと待ってくださいよ」
声のする先には、兵庫がスマートフォン片手に早口でまくし立てる姿があった。嫌な予感がする。
間もなく、兵庫は静かになった。スマートフォンを耳から離し、うつむく。通話を終えたようだ。下唇をギュッと噛んでいる。
「どうしたの?」
「昨日建売住宅の申込みをもらった松島様。キャンセルしたいそうです」
松島様。子供の学区の関係でエリア限定。厳しい条件の中で、何年も探していたというお客様だ。
「キャンセルの理由は? 何て言っていたの?」
「今日の朝、物件まで行ったらしいんです。そうしたら、物件の出入り口前の道路が予想していた以上に渋滞することがわかって、これが毎日続くのは耐えられない、と」
兵庫の紹介した物件は、いわゆる旗竿地で、幅員八メートルの道路に間口が三メートル接している。物件の出入り口に接する道路が渋滞する理由。それは、物件を出てすぐのところに信号機があるからだ。車通りも多い道路で、確かに出入りがしにくい。通勤ラッシュの時間帯などは尚更混み合うのかもしれない。それが、価格が安い理由でもあるのだが。
「あの価格で買える物件出ないですよ。物件がほとんど出ないエリアだし。はぁ。売主さんにキャンセルの連絡するの憂鬱だなぁ。店長。松島様には、はっきり言ってもいいですか? もう紹介できる物件はないですよ、って」
兵庫は完全に投げやりになっている。物覚えがよく、コンスタントに契約を上げてくるものの、精神面ではまだまだ子供だ。申込みがキャンセルになって心が折れる、という気持ちはわからなくもないけれど。
「ねぇ、兵庫君。松島様と会えないかな。私も同席するから」
夕方。
重苦しい雰囲気の中、応接室へ松島夫妻を迎えた。
「お飲み物はいかがいたしましょうか」
上野がドリンクメニューを二人の前に置いたものの、ご主人は無言のまま小さく首を横に振った。奥様に至っては顔を下げたまま、メニューを見ようともしない。
上野はメニュー表を下げ、「失礼します」と丁寧な挨拶をして、接客テーブルを挟みご主人の向かいの椅子を引く。兵庫も頭を下げ、上野の横に座った。
「この度はご迷惑をおかけしました」
話を切り出したのはご主人だった。目を伏せたまま、話を続ける。
「私たちの希望する条件が厳しいのはわかっています。予算からみて、今回兵庫さんに紹介いただいた物件で我慢しなくてはいけない。でも、車の出入りで毎日気を遣わなくてはいけないだなんて、耐えられないんです」
「それはご案内の際に言いましたし、実際その状況を確認しましたよね? 慣れですよって笑ってたじゃないですか」
熱くなっているのか、ご主人に対する兵庫の言葉にはトゲを感じさせる。
ご主人は伏せていた目を上げ、弱々しく言った。
「昨日の夕方とは比較にならないほどに、車がびっしりと並んでいるんです。ただでさえ私も妻も、並んでいる列に入れてもらうのが苦手な性格ですし」
上野が横目で兵庫を見ると、憮然とした表情をしている。昨日、店舗で和気あいあいと商談をしていたのが嘘のようだ。
契約がキャンセルになったことについて、問い詰めるために来てもらったわけじゃないのに。
険悪な雰囲気の中、沈黙の間が流れ、時計の針だけが進んでいく。
「松島様の気持ち、わかります」
沈黙を破るように、上野は口を開いた。「店長!」兵庫はそう言って、席を立ち上がろうとした。それを制する上野。
「座りなさい。ちょっと話を聞いて」
兵庫は返事をしなかったものの、ゆっくりと椅子に座った。その姿を確認し、上野は話を続けた。
「私も苦手なの。車が並んでいる列に入れてもらうの。どこに対してストレスを感じるかは人それぞれだよ」
すると、今までうつむいたまま、一言も発しなかった奥様が顔を上げた。表情は暗い。
「兵庫さんには申し訳ないと思っています。ワガママな条件の中、ずっと情報提供してくださっていたのに。もう、家探しはやめにします。私たち、向いてないんです」
言葉に詰まりながら謝罪の言葉を述べる奥様は、口元が震えている。
上野は思った。
一方的にメールで申込みのキャンセルをするお客様もいる中で、松島様はちゃんと兵庫君の連絡に応え、店舗まで来てくれた。本当は家探しを継続したかったんじゃないかな。接客の過程で、何かが足りなかっただけかもしれない。
上野は、昨日兵庫が申込み受領する際に同席していた。その時の状況を思い出してみる。
「子供たちにも、早く自分の部屋が欲しいとせっつかれてきました。ようやく子供たちへ、お父さん決めてきたぞって言えますよ」
ご主人が、満面の笑みを浮かべながら、購入申込書へサインをしていた。だが、奥様は思い詰めたような表情で、口数は少なかった。きっと緊張しているんだろう。そう思っていたけれど、車の出入りのことに不安を持ったままだったんだ。
ご主人ばかりが話をしていたことも気になった。奥様からしたら、本音を言える雰囲気ではなかったのかもしれない。
申込みがキャンセルになる理由は、親の反対や支払い不安など様々だ。接客の場で、家族のうちの誰かが本音や不安を口にできなかった、ということもある。
住宅購入の決定権者を見極める必要はあるが、家に住むのは決定権者だけではない。家族全員への気配りは必要だ。
「松島様。もう少しだけ、おうち探しのお手伝いをさせていただけませんか?」
そう言って、上野は隣に座る兵庫を見ると、興奮から覚めたのか、バツが悪そうに背中を丸めてうつむいている。その姿は自分の態度を悔やんでいるように見えた。
誰もお客様と喧嘩なんかしたくないもんね。
上野は心の中で呟きながら、兵庫の背中をポンっと軽く叩いた。丸まった背を伸ばした兵庫は、スッと顔を上げ、謝罪の言葉とともに深く頭を下げる。
「失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした、私にやらせてください。お願いします」
その申し出に、松島夫妻は顔を見合わせた。そして、ご主人が小さくうなずき、続いて奥様もうなずいた。
「多くの不動産会社を当たりましたが、厳しい条件の中で熱心に物件を紹介し続けてくれたのは兵庫さんだけでした。こちらこそ。お願いします」
ほんの少しではあるが、ようやく松島夫妻は笑顔を見せてくれた。
上野優(うえのゆう)……二十八歳。女性。上一社不動産店長。フェアリーズのバームクーヘンがあれば生きていける。宅建主任者(現在の宅建士)。
兵庫純也(ひょうごじゅんや)……二十四歳。男性。上一社不動産営業。