生きる意味が欲しかった。
一
意味を求めて生きてきた。
物心ついたときからなぜか、死ぬのがとても怖かった。
生きる意味が欲しかった。
人に何かを教えるのが好きだった。家に帰る幼稚園バスで、先生にイエローハットの意味を教えて褒めてもらったことをよく覚えている。
他人が見る世界を知りたかった。自分の手を広げてぐるぐると回りながら、それを横で見ている友人に訪ねた。「ねぇ、世界は回ってる?」
いまにして思えば、たしかに世界は回っている。様々な意味において。
ランドセルを投げ捨てたらむさぼるように本を読み、宇宙や宗教や生命の神秘に触れた。LEGOやロボット作りに没頭した。
ピアノや陸上は真面目に練習しなかったが、バンドの曲はちゃんと一夜漬けで仕上げた。
自分の生い立ちを知りたくて、縁戚を訪ね歩いた。
せっかく海外の大学に留学したのに、授業をサボっては美術館を巡った。
馬に乗って山々を進み、夜にはジャングルの中で喉風邪に苦しみながら寝た。
色んな国の仲間と歌をうたった。
起業をした。
計算機と感情と論理をよすがに、膨大な苦難の記録の中から希望を編み出すことで糧を得た。
データの海に溺れながら何とか作り上げた試行錯誤の帰結が、国際学術誌に載った。
自分の腕とゴムの塊の違いが分からなくなっても思考を続けた。思索の末に、雪山の頂上に主観と客観の交叉点を見つけ出し、国際特許を取得した。
毎日必ず、挫折を感じた。
ずっと以前から頭の中に、なにかのために世界中の仲間とどこかに向かう絵があった。
自分がもし別の人間だったら、どう生きるだろう。何を見てどう感じるだろう。
人生を通して、どれだけの人の幸せに貢献できるだろう。
この世の誰の人生を生きるとしても、幸せを見出せるような社会があるとしたら、それはどのようなものなのだろう。
それを目指す中で世界の平和をつくれたら、どれだけのやりがいがあるだろう。
意識の核心部が共鳴する白銀の抽象世界と、血が通う具体の世界を何度も何度も行き来した。全ての時間を費やして理想に向かった。これができなければ死のうと思って日々を過ごした。
1ミリでもいいから前に進みたかった。人知れず傷ついた数知れない孤独や、悪で身を守る凍えた心を感じ取るたびに、そこに愛や温もりを届けたいと思った。
借り物の身体で行き先も分からず嵐のなかを進むようで、手先はいつも冷たかった。
計画はいつも霧散して、夢と金の間に消えた。
誰のせいにもできない。全ての一瞬を生きると決めたのは自分だ。
そうして生み出した論理の結晶が奪われたり心ない言葉で踏みにじられたりする度に、釘や鉄筋がまた一本、呪いのように胸に突き刺さった。
何度目かの限界のあと、うつと診断された。あれだけ賑やかで鮮やかだった思考は完全に止まり、狭くて暗い部屋にたったひとり閉じ込められた。全ての意味を失った。
絶望することにも心根から辟易した。
もう終わりにしよう。
不自然に冷えきった身体を押して家を出た。
閉じていく踏み切りの中に進もうとしたとき、かすかに子どもの泣き声が聞こえた気がした。
一瞬戸惑い、途切れ途切れにゆっくりと生暖かい息を吐いた。目の前を電車が通りすぎる。
もう全部やめよう。苦しくても、生きるだけ、生きよう。
二
目指すべき方向を失い、全く動けないまま、ただ天井を眺めて過ごした。
真っ暗な狭い洞窟の中、腹から胸まで切り割かれて氷漬けにされるような孤独と虚無感だった。
世界は色を失って、あらゆる出来事が自分の無力さを証明しているように思えた。
心をなんとか奮い立たせて、指を動かすことを試みた。
毎朝、布団から起き上がることを目標にした。
茶碗一杯分だけ食べることを目標にした。
毎日必ず、外を歩くことを目標にした。
文にならない文を書き続けた。どこかにまだかすかな希望が残っていないか、ペンだけを頼りに探し続けた。
副作用に抗い、なんとか意識にしがみついた。
あと10文字だけ、本を読むことを目標にした。
力もないのに理想を掲げた自分が、心の底から恥ずかしいと思った。消えてしまいたいと思った。もうどんなに探しても、この世のどこにも、自分が求める価値を社会に生み出せる仕事はない。
少なくとも今はまだ。
友人や仲間、人生の先輩が話を聞いてくれた。昔の上司は、自分の代わりに大言壮語を吐いてくれた。大切な人が一緒に歩いてくれた。
大丈夫。できるよ。
奥歯を噛み締めながら地面を這いつくばるような数ヵ月を経て、少しずつ少しずつ、散り散りになっていた言葉が繋がりあっていった。
気がつくと、思考を組み立てるための意思の握力が戻ってきていた。
もう十年近く、取り憑かれたように書き続けてきたあらゆる出来事の記録に触れては、意味を新たに付け加えた。存在しないことにしてきた心の傷を、一つずつ癒した。
何度も作っては壊した理想への地図を、もう一度組み立て始めた。
目を閉じて、思索の平原を歩きながら直観する。このあたりが多分中心地だ。自分が学んできたものは全部きっと、もともとひとつの何かだった。
三
回り始めては止まる。その都度滑車を点検し、少しずつ着実に論理を織り上げる。
あと一歩というところでいつも、期待と恐怖の板挟みになる。
疲れきって倒れ込み、手の中の小さな窓から世界を覗く。
平和の担い手が死ぬ。絶望の中から声を届けた若者が死ぬ。子どもたちが死ぬ。科学者たちの知の結晶が、命を奪う。
自分は布団のなかにいる。ずっと目指してきたのに、いざとなったら身体がすくんで動かない。
でも、ここまで作ってきた。あとは始めるだけだ。
強く思えば思うほど、呪いの言葉が頭の中でこだまする。
お前には無理だ
どうせ伝わらない
その程度で理想を語るな
うるさい。うるさいよ。
借り物の言葉で悦に浸るな。絶望に慢心するな。心の奥底に聞いてみろ。
できない理由があるとして、自分や他人が未熟だとして、だから何なんだ?たった一人にでも伝われば、たったひとつでも変われば上出来だろ。
ふいに気づく。何かを目指しているようで、ずっと何かを恐れている。
戦ったり逃げたりしようとすればするほど、それはもっと大きく強く押し寄せて、頭の中で囁き続ける。
未熟であってはならない。成長しなければならない。こんな自分のままでいてはならない。もう二度と傷つかないために。
分かったよ、向き合おう。未熟とはそもそも何なのだろうか。
あれこれ思索を巡らせるうちに突然、何か途方もなく意味の分からないものが、どうしてもほしいと思った。
視界の隅に紙袋が見えた。
子どものために買ったものだ。
知人が営むおもちゃ屋さんで、先日大量に買い溜めた。昔は毎年、こういうおもちゃをもらって遊んだ。
適当にひとつ選んで取り出す。手のひらサイズのバスケットコート。
カチャカチャと白いレバーをはじきながら、ゴールを狙う。
あ、入った。
…だから何なんだろう。
無心になって何回もシュートを決める。コツが分かりそうで分からない。
何て意味が分からないんだろう。
でも、なぜかやめられない。
もしかして俺、これのために頑張ってきたのかな。
…そんなわけないけど、そんなわけあるかもな。
情けないようで嬉しくて、笑いと涙が同時に込み上げてきた。
まだまだたくさんあるのだ。子どものために、恩返しのためにとあれこれ意味を付けて、本当のところはよく分からないまま大量のおもちゃを買った。
ボールがクルクルとゴールの中を落ちていく。
そうだ。
世界の平和は今まさにここにあるぞ。先人たちが必死でつくって、どうにかここまで繋げてくれた平和だ。
ざまぁ見ろ、いい大人がルールを無視していがみ合ってるから、こっちのゴールはガラ空きだ。
何でそんなに一生懸命、戦うために努力してるんだ?
言葉は愛が生み出したものだろ。奪い合うためのものじゃない。
そんなペースじゃ俺には一生かなわない。もうやめろよ。もういいから、頼むからやめてくれ。
どんなに難しい言葉で語っても、きれいな未来を描いても、子どもの心が笑えないならそこに正義はないよ。
誰のなかにも未熟さや弱さはある。そうであっても、想うことは愛だよ。
もう十分だ。もう十分頑張ったよ。頭だけで絶対とか何とか、もういいよ。もう、やめようぜ。
もういいよ。大丈夫。工夫をして分かち合えば、幸せに生きていけるよ。知ってるだろ。
あたりまえや大切なものを失って、傷つくことの怖さはよく分かるよ。
大丈夫、一緒にやればできるよ。少しずつ、変わっていくよ。
一緒に考えるよ。俺はそのために向き合ってきたんだから。どんなにボロボロになっても、それは変わらなかった。
だからもういいよ。
意味のために生きるんじゃない。
考え方が逆だ。
あなたが生きていること自体に、意味がある。