【座談会】イエデイヌ企画メンバーと語る『エリカによろしく』(前編)
2023年11月24日(金)~26日(日)、三鷹・SCOOLにて上演された『エリカによろしく』。イエデイヌ企画3年ぶりの新作は、ロイヤルコート劇場×新国立劇場の劇作家ワークショップへの参加経験を持つ劇作家・魚田まさや氏が初の書下ろしを担当。圭一(重山知儀)と仁(平山瑠璃)ふたりの別れと旅立ちを、シーンのループやアクションの反復などを通じて、独特な時間感覚のもと表現した。
今回の座談会では、イエデイヌ企画代表/演出・福井歩と作・魚田まさやに加え、これまでイエデイヌ企画に俳優、スタッフとして携わってきたメンバーとともに、今作『エリカによろしく』からこれまでのイエデイヌ企画の歩みについて振り返っていく。
>後編はこちら
プロフィール
福井 歩(イエデイヌ企画代表/演出)
1992年関東生まれ。2016年立教大学映像身体学科卒業および2018年同大学院現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程前期課程修了。2014年にイエデイヌ企画を旗揚げし、上演を通じて現代社会における既存の価値観や感覚をみつめ直し、言語化し難いものを捉えることを目指している。2016年、マレビトの会『福島を上演する』(フェスティバル/トーキョー16)に演出部として参加。2017年にはフェスティバル/トーキョー17「実験と対話の劇場」に演劇計画・ふらっと、の演出として参加した。現在は一般企業で働きつつ、創作を行っている。
魚田 まさや(劇作家)
劇作家。別役実やアーサー・ミラーの影響を受け、人物の会話でおりなされる劇空間に悪夢や奇妙なイメージが混交していく作風の戯曲を創作している。
重山知儀
1994年生まれ。2016年立教大学現代心理学部映像身体学科卒業。松田正隆ゼミにて演劇を学び、卒業制作として福井歩演出『東京ノート』に出演。一般企業で働く傍ら、イエデイヌ企画に俳優として参加『左ききの女』、『エリカによろしく』などに出演。
平山瑠璃
1995年生まれ、立教大学現代心理学部映像身体学科卒業。合同会社イマジン・クリエイト代表。舞台俳優、道化師。大学では古代中国思想を専攻。荘子のテキストから身体が脳に先駆けて持つ知性と呼べるような身体性「身体知」を見出し、身体表現を通じて身体知を思想する。
瀬崎元嵩
1992年生まれ。2018年立教大学大学院現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程前期課程修了。修士論文は「ロベール・ブレッソンの〈モデル〉論――映画における『人物』の問題について」。現在は古流剣術や絵を通じて、身体と感覚、それらの潜在性について探究している。イラストレーション青山塾24、25期在籍。
石渡愛
1993年生まれ。青年団所属。大学在学中は松田正隆のもとで演劇を学び、ゼミの同期である福井歩演出の『午後の光』『東京ノート』に出演する。卒業後は俳優として舞台を中心に活動。舞台では、マレビトの会『福島を上演する』(2017/2018)、ぱぷりか『きっぽ』(2018)、犬飼勝哉『ノーマル』(2019)、イエデイヌ企画『左ききの女』(2019)、コンプソンズ『何を見ても何かを思い出すと思う』(2021)、ムニ『つかの間の道』(2024)、その他青年団、青年団若手自主企画の作品に多数出演。
米倉若葉
1993年生まれ。立教大学現代心理学部映像身体学科卒業。松田正隆ゼミで演劇を学び遠藤幹大監督の映画作品『ジャンヌの声』、福井歩演出の『東京ノート』に出演。 卒業後は一般企業に就職しながら映像作品や演劇創作に携わり、マレビトの会『福島を上演する』(2018)、イエデイヌ企画『左ききの女』、『イマジナリーピーポー イン トーキョー』などに出演する。
野中知樹
1993年生まれ。立教大学現代心理学部心理学科卒業。大学在学時よりクラウン(道化師)のパフォーマンスをはじめ、イエデイヌ企画『左ききの女』、『イマジナリーピーポー イントーキョー』に出演。2023年4月より大阪に拠点を移し、ライター・広報支援業務を行いながら、コーポリアルマイム舞台芸術学校tarinainanikaにて勉強中。
(以下、敬称略)
「エリカによろしく」STORY
クリニックの事務員として働く圭一は、恋人の仁との旅行中、彼が自分の元から去るに違いないと唐突に感じる。
言葉にできない不和を抱えながら2人は圭一の実家へとやってくる。今は誰も住んでいないこの家の掃除が旅の目的だった。
その夜、停電が起きて家全体が暗闇に包まれてしまう。
先の見えない暗闇の中、2人はブレーカーを探しながら会話を続けるが、やがて圭一の声は闇の中からかえってこなくなる。
それから4年後。空港で2人は偶然再会する。圭一は以前とほぼ変わらない暮らしをしているが、仁はイギリスに移住し、新しいパートナーとの間に子供が生まれるのだという。
国際線への道を歩きながら、4年前には言葉にできなかったお互いの気持ちを表す。2人の恋人はそれぞれの未来を祝福して、ついに別れるのだった。
行為の面倒くささと日常のささやかな時間
野中:まずは、今作『エリカによろしく』について。イエデイヌ企画にこれまで関わられてきた皆さんはどのような感想をお持ちですか?
石渡:時間の感覚が特徴的で、なかでも「銭湯で髪を洗っているシーン」が一番印象的でした。髪を洗う時間って、「その時間ってめんどくさいよな」っていう、行為の面倒くささ。でも、例えば妊娠・出産の時間ってドラマとかだと3行くらいのシーンで描かれることも多いですが、「いやー、その間がめっちゃ大変なんよ」みたいな、「なんでそんな簡単に終わらせるの?」ってことを最近思っていて。そんな思いでお風呂で洗っているシーンの割とリアルな長さを見て「そうだよ、そういう時間があるんだよ」みたいな、そこをちゃんと拾ってくれているんだというのをこのシーンを観て感じました。
魚田:その感想はすごく嬉しいです!「プロットに従って時間が流れている感じが嫌だな」と思い、試行錯誤を重ねていくなかで考えついたシーンだったので…。そのシーンを戯曲に描けてから、他の場面で描写するべきシーンの方向性も明確になったように感じています。
福井:銭湯のシーンは私も好きです。日常のささやかな時間が存在していることを表現する上で、とても重要なシーンでした。省略されてしまう行為・出来事については、「そこに時間を使ってられない」という判断や、文脈によって「みせることが難しいシーン」と判断されるからじゃないかな。銭湯のシーンも服を着た状態で上演していますが、物語としては”裸のシーン”なので、ある種暴力的でもあります。その反面、本来見せられないものが晒されることによって、何か効果があったのではないでしょうか。
「人生で初めて戯曲を買いました」
米倉:普段こういった感想や考察が苦手なのですが、ありのままをお話しすると、すごく衝撃を受けて、人生で初めて観劇後に戯曲を買いました。先ほどの「髪を洗うシーン」もそうですが、マイムで長い時間「握手をするシーン」など印象的だった演出が「戯曲ではどのように書かれていたのか?」と、細かい動作を思い返しながら読みたくて購入しました。本当は帰りの電車ですぐにでも読みたかったのですが、一度頭の中で上演を再現しながら、家に帰って落ち着いてから戯曲を読み返しました。その上で改めて、「魚田さんの戯曲の力が強い」と感じました。
野中:実際に戯曲を読んでみて印象が変わったところはありましたか?
米倉:同じことを繰り返すループについて「あれが何だったのか?」が戯曲にも書かれていないことにビックリしました。1回目と2回目で異なる小道具の使い方をするなど、戯曲と上演を比べることでそれを福井さんがどう解釈して演出に落とし込んだかという制作過程も浮き彫りになって、シンプルに「すごいな」と。戯曲を読み返すことで、改めて演出の妙にも触れられたようにも思います。
瀬崎:私も上演を観て「戯曲が面白そうだな」と思い、購入しました。繰り返し要素をはじめ、“謎要素”が多いからこそ、「戯曲には違うことが書かれているのだろう」と思い、買いたくなりますよね。
魚田:今回初めて物販をしましたが、動員のなんと4割くらいの方が買ってくれて、すごく「物を売るって楽しい」って思いました(笑)。それはさておき、戯曲の力に言及してくださる方も多いこともあり、ありがたい一方で「戯曲の力とは…?」という気持ちもありました。
米倉:普通に質問してもいいですか?(笑)。戯曲を書きながら、どの辺りで「恋人と分かってくれたらいいな」と計算していましたか?私が上演に惹きこまれていった部分として、「この人たち本当にカップルなのかな?」という疑問がありました。先の山﨑さんとの対談では前半の「別れましょう」というセリフで確定的になったという話もありましたが、私は後半の老人に「恋人なんです」と話すシーンまでは確信できなかった。「もしかしたら恋人同士なのかも?」くらいで。
魚田:今回に関しては、「お別れしましょう」というセリフで大体のお客さんにわかってもらいたいと考えて書いていました。戯曲なので基本どのセリフにも意図があって。米倉さんが挙げてくれたセリフは、付き合っているのか別れてしまうのかという状態に耐えられなくなるという根拠で書いていました。結果的に現れた行為はアウティングという人権侵害ですので、お客さんには「あー」と、その行為の重みや衝撃を感じて欲しいなと思っていました。
米倉:私にとってはそのシーンがとてもショッキングでした。前後のやり取りや圭一が一人声を出して笑う演出も相まって、エモーショナルに感じて泣きそうになりました。
魚田:ありがとうございます。大まかには、①「お別れしましょう」まで、②アウティングまで、③停電まで、④停電、⑤4年後、という5部構成を思い描いて作ってます。書き始めからハッキリきまってた訳じゃないんですが…ふたりの関係性が極限まで行った後に消滅してやり直しになるような全体像だけは描いていました。今回は演出家と俳優さんからフィードバックをもらいつつ改稿作業を繰り返す中で、構成が5つの大きなピースになっているのだと確かめ、それに対して大きすぎたり弱すぎたりするディテールを整理して行く感じでした。
福井:戯曲に細かく戦略が織り込まれていたからこそ、演出上で「このふたりがカップルですよ」とわかりやすく提示しないように注意していました。それが「アウティングまで恋人であることがわからない」という原因になっていたのかもしれないけど、むしろそういった観客がいても問題はなかったのではないかと。もちろん劇作家の考えた戦略通りに上演されるのがベターですが、そうでなくても破綻しない上演だと感じていました。
魚田:それこそ、戯曲の戦略や「伏線がここにあったのか」というような観方をしてほしいわけではなく、いま、舞台を観てくれているお客さんの中で起こることが僕にとっては全てです。だから、戯曲を書いている時は、大まかにお客さんにどういった気持ちになってほしいのか、どんな効果を与えたいかという点だけがあるという感じです。
福井:そこは演出も同様で、仕組みやロジックを明示しないようにやっていたのは共通していたかな。
魚田:そういった痕跡が見えないように校正していたように思います。ある種自然な会話に見えるように「これがリフレインになっている」というようなことをどんどん分かりにくくさせていくような作業が校正には含まれていたように思います。
米倉:初めて上演を観た時と、電車の中で思い返している時と、家で戯曲を読んだ時と、やはりどれも少し違ってきていて。「このシーンはこう思ってくれ」というような押しつけがましさのようなものがなく、余白があったからこそ私も色々な考えや心情で味わうことができたのだと思います。
宗教儀式的な繰り返しの効果
瀬崎:余白という話だけど、この作品の魅力はその“狙いのなさ”で、「真面目に、変なことをしない」というのが、劇作と演出でかみ合っていたところがとても良さだと思います。福井の演出で好きなところは、歩いているところ。序盤のふたりがひたすらグルグル歩き回っていて、さらにリピートすることによってあらわれてくる効果が演出上とても面白かった。若干、魔術的というか、スーフィー(イスラム教の神秘主義者)のような宗教儀式的なところがありましたよね(笑)。観ている人は誰も感じていないだろうし、それは狙いではないだろうけど、僕個人にはそう見えていた。
魚田:福井さんは戯曲の中の動作に一番注意を向けたんだなぁと感じました。演出家の中に動作に対する偏愛があるというか…。グルグル歩き回ったりが繰り返されていくうちに、観客も動作に注目し、動作を通して時間を感じる効果が生じていたように思います。確かにそれは、ある種魔術の入り口というか、宗教儀式の持っている機能でもあるというのは、言われてみるとそうだなと感じました。
福井:実生活の中で動作は無意識に繰り返されていて、日常の習慣として根付いている、ということを見せる意図はあったかな。大きな部分だと空港や山道、暗闇などで同じ動線を使って、細かい動作だと「手を差し出す」行為を随所に散りばめました。
魚田:先ほどの「髪を洗うシーン」にも通じることだけど、舞台上において「やる」ということは「わざわざやる」ということじゃないですか。漫画でたとえると、コマに縦線1本描けば壁という事にはなるけど、そこにリアルな亀裂とか染みをわざわざ描き込むと、それは単なる情報以上の何かを描写するという態度になるというか。演劇も「わざわざやる」時、その作品が「そういうものを描写する」という態度を観客に向けて表明しているんだと思います。「髪を洗うシーン」あってもなくても物語上は別に変わらないし、この戯曲そういうシーンばっかりだし…(笑)でも今作は、そうした些細な動作の繰り返しをいくつもいくつも拾い上げて表現することで、「そういう時間にこそ何かがある」という核のようなものを表現していたように思います。
魚田:個人的にそのことが一番印象的だったのはラストのキスシーンで。歌うことと接吻はト書に書かれているんですが、上演で握手が追加されてて。握手しながら歌ってキスしてたんです。中盤にも不意に握手するシーンがあるので、確かに繰り返しという点では効果的なんですけど、リアルにイメージすると手順がかなりごたごたしてシーンにしづらいんですよね。実際執筆中、僕も握手して歌って接吻すると書いてみた後にごたごたするなぁと思って消してて…。でもそんな一連の動作(握手、歌、接吻)も、福井さんの動作への眼差しが態度として上演全体を貫いていたからこそ、時間の繰り返しによる感動が生じていたように思いました。
福井:接吻に関しては、魚田さんが書いたから「絶対に大事にしないといけない」と思いつつ、一回逃げようとしたんだけど…。結果的に、魚田さんが元々やろうとしていたことを復元していたのは嬉しいですね。
『左ききの女』に生じていた“何かわからないモノが動きだしている”感覚の正体
瀬崎:一方で、コンテクストを共有した相手にだけ了解される<実験的な>作品というか、あまり人に見せる作品ではないかなとも思ったんだよね。これは“大衆受けしない”ということを言いたいのではなくて、立教大学の“ロフト(教室)の匂い”がするというか、大学院の授業とかで発表するならいいけど、ちょっと強度がないのではないか、と。
魚田:強度って?
瀬崎:2回見れる強度が上演になかったというか…。僕は上演を2回観たんだけど、1回目は戯曲の伏線が仕掛けとして効果的で、演出も働いていた。でも戯曲を読んだうえで2回目をみると、戯曲を知らないからこそ働いていた効果がなくなって、何かが起きていなかった。そこに演出上のぬるさを感じます。演出的表現が“戯曲をなぞってしまっている”だけで、そこを超える何かがない。動作的なフェチズムや歩くこと、照明の感じなど、演出は成功している。けれどもずっと音程が一緒というか、リズムがない。それは何なんだろうと。
魚田:個人的にリズム感は上演と戯曲で一番違うと感じてました。例えば、「銭湯のシーンは沈黙を見せたいから、そこまではリズミカルにできるようにしとこう」みたいに、戯曲は、ある緩急を織り込んだ構成をしていました。でも、上演見てみたら「全部めっちゃゆっくりやるんだ⁉」っていう…(笑)福井さんは僕と違う時間感覚で表現されていたので、あまり戯曲そのものをやっているようには感じなかったです。
瀬崎:うーん、“戯曲をなぞってしまっている”というのは戯曲をそのままやっているというよりも福井が戯曲を読んで感じたことをそのままやっている感じがして…。写真家のヴィヴァン・マイヤー(1926-2009)を引き合いに出すと、マイヤーは生前に写真集などを発表しておらず、後世に彼女の写真が発見されて高く評価されたんだけど、その“何も編集されていない生写真”を見せられているような気分がした。作者がおもしろいと感じているのは伝わるし、作品の素材としては申し分ないけれど、作品として駆動していないものをみても何ともいいがたい。福井の演出における日常の動作や歩行などの良さはわかるけれど、戯曲のそのままを説明しているだけにもみえてしまった。演出家が感じているおもしろさほど、観客はおもしろいと感じていないのではないでしょうか。もちろん、今のままでもこういったタイプの演劇を観慣れている人たちはよさを感じる。でも、やはり何らかの形で編集された方が多くの人にとって観やすいし、作品としてもいいものになると思っています。
こうした最低限の批評的なメタ視点がないと、ロフトで行われていた立教生の演劇、つまり、実験的で観客を想定しない、自己満足でも成立してしまうんじゃないかな。
石渡:演出と劇作の感覚が合いすぎたがゆえに、生じたことなのかな?
瀬崎:色々な要素で内部に閉じてしまっていたということもあると思うんですよ。俳優と演出家、演出家と戯曲家の関係も含めて、合っている反面、分かりやすすぎるともいえる。
『左ききの女』(2019年3月上演)の時は、何かわからないモノが動きだしているようにも思えたのだけれど、それはペーター・ハントケの戯曲が、年代も違えば言語も違っているから、必然的にズレが生じていたんじゃないかな。それが良かったのかどうかは、僕自身も出演していて、観客として観れていないから確かなことはいえないけれど、“何かわからないモノが動く”余地があったと思う。もちろん、今作でも停電のシーンはそれを象徴的に表しているんだけど、想定の範囲内というか…。
魚田:確かに、今作は日本語話者かつ共通回路を持つ知り合いが書いた戯曲で、舞台も現代。その一方で、『左ききの女』は年代も言語も異なれば、戯曲ではなく小説という未知なる題材で、演出家にもわからない何かを掴もうと思索する跡や運動のようなものは、無意味なものも含めて、『左ききの女』の方にずっと多く存在していたような気がしますね。
福井:私も話を聞いて腑に落ちた部分があるように思います。『エリカによろしく』は「とにかく演劇をやりたい」という想いから戯曲を魚田さんに依頼したところからスタートしたので、自分の中に最初から明確な課題はありませんでした。今回の上演では戯曲の持つ問題提起や世界観を尊重した演出を重視していたこと、以前と比べて演出としての課題感が減っていたことも一因かもしれません。『左ききの女』の時は、北千住・BUoY(劇場)の地下空間の使い方にも実験精神があったし、また「小説の言葉をどう舞台に上げるか?」などの試行錯誤もあった。その様な差が今作とあったんじゃないかな。
瀬崎:多分、それが言いたかった。
魚田:でも、瀬崎さんの言っている“何かわからないモノが動く”上演というのは、逆にわかりにくさへの扉を開くとも思ったよ。
瀬崎:そうね、僕の話は「もっと演出が面白くしろ」という切り口から入ったはずなんだけど、出口は「もっとわからないことをやれ」になってるね(笑)。「最低限の批評的なメタ視点」をもつことも、「何かわからないモノが動きだす」ことも、それが観客であれ、演劇的な潜在性であれ、外部に開く感覚が重要なんだと思います。まったく反対の要素にみえるけれど、質的に連続している気がしています。せっかくいい作品ができたので、今後そういう方向も期待したいです。
俳優と役、遊びを持たせた距離感
野中:次に今作に出演された俳優の方にもお話をお伺いしたいのですが、個人的な感想を言うと、改めてイエデイヌ企画の作品はすごく身体的であるな、と。俳優同士の距離感や移動、細やかな動作まで、とても精密に計算されて、上演が積み上げられていることを実感したのですが、演じられてみていかがだったでしょうか?
重山:感想として言わしてもらいますけど、すごく大変でした(笑)。同じ動きが多いように見えるけど、ちょっとずつ違っているので、動きに関しては超難しかったです。舞台面が前と後ろで入れ替わったりするので、動き始めが右か左かわからなくなったり…。運転のシーンもいきなり逆車線に変わるようで、急にアメリカでドライブしているような感覚でした(笑)。
魚田:戯曲だと繰り返しのシーンとか完全に同じテキストだけど、演出ではカメラが切り替わるみたいに、演者の立ち位置が変わっていたよね。
野中:特に演じていて、印象的だった動作はありますか?
重山:特に難しかったのは「『違う』のシーン」でした。缶を投げながら、後ろに缶を転がさないといけないし、戻る方向もわからなくなる。しかも、大事な場面だから瑠璃との空気感も感じないといけない。すごく大変なシーンでした。
魚田:そもそも空気感とかどのくらい感じていたんですか?イエデイヌ企画の作品はどれも基本的にそうだけど、あまり感情とか内面の充実は意識していない、抑制してというよりはそもそも意識していないように感じるんだけど、その辺ってどういうバランス感覚なのかな?
福井:今回はかなり内面の話をしたよね?
重山:内面の話、したね。
一同:へーーーーー
福井:同性愛のカップルだから「手癖や偏見で稽古が進むとまずい」という想いもあって、俳優がわからないシーンについては説明をしていたかな。例えば、最後の「子供ができる」というセリフに対して、ゲイだからという視点ではなく、圭一としてどんな気持ちが起こるのかみたいなことを一緒に考えていました。
重山:「軽すぎる」とか「重すぎる」とか結構色々ありましたね。やり方の話だけど、山中を運転しながら、話題がなくなりしゃべり始めるシーンでも、「カップルでこういう状況になった時に、これくらい気まずいと思ったらしゃべり始めて」というような内面に関する指示もありました。そういう意味でも、“付き合っているふたりの感覚”というのは意識していたかな…。そもそも俺は圭一という人物とは仲良くなれないと思っていたけど(笑)。だからこそ「圭一になりきってやった時の方がうまくいくんじゃないかな」と思っていた時もありました。それを3公演目でやってみたら福井さんから怒られちゃった(笑)。“圭一チック”になりすぎて、寄りすぎてしまったみたいです。
福井:うん、「これはイエデイヌ企画がやることではないな」と思って。その時に、役との緊張関係について話しました。
魚田:3公演目は単純に観やすかったので戯曲としては一番わかりやすい上演だったとも思う。だけど同時に「これは戯曲をやっているだけでは?」とも感じて、福井さんのやりたいこととは違うんだろうなと思いました。
石渡:さっきの話に出ていた、気まずくなるまでの間は秒数で決めていたの?それとも俳優に起こる身体感覚の間で?
福井:まず俳優に「気まずくなるまで間を取ってみて」とお願いして、その時間を数字に変換していました。でもそれは時計の秒数に合わせていく作業ではなくて、「重山の感覚で7秒、瑠璃の感覚で5秒経ったら」と同じ時間を俳優それぞれのカウントに置き直すようなやり方でしたね。
魚田:リアリズムの会話劇だと、相手が怒ったり喜んだりするエネルギーを受け取れるから、そこから演技を作っていけるみたいなことがあると思うんですけど、それが素直にやりにくい演出なんじゃないかと思います。相手のことはあまり考えずに、セリフを淡々と紡いで行く、みたいな感じだったんでしょうか。
重山:俺の場合は話しかけても返事のない場面が多いから、「まだ返ってこないのかな」と感じながら、自分で時間を作っていたかな。瑠璃は違うかもしれないけど
平山:私は作品全体を通して、ある程度バランスをとることを心掛けていました。今回のお芝居において、没入型の演技はふさわしくないと思う一方で、相手の反応を完全にシャットアウトするのも違うな、と。私自身の演技プランは、自分と役の距離、セリフや感情の強度などを、「このセリフは3くらいで」「このセリフは役との距離は2くらいで」とイコライザーのように調整する手法でした。そうやって自分の頭の中で計算した上で、自分の中で想定しきれない圭一のセリフやアクションに対して「どう返していくか?」というところを自分の体に任せることで演技の幅を持たせていました。稽古や本番を通じて福井さんの指示を受けつつ、体の気持ちの良さというか、「自分の体が求めている感覚で返事をしよう」という気持ちでしたかね。
福井:瑠璃の言った気持ちよさは、イエデイヌのキャスティングの仕方に由来しているかも。「この人にこのセリフや役をお願いしたら無理しているように見えちゃうな」という役はあまり振らないようにしてる。もちろん、「この人にこれを言わせたら面白いな」と思ってキャスティングをすることもあるけど、普段のその人の佇まいや振る舞いも、キャスティングを考えるうえで重視してるかな。
石渡:これずっと疑問だったんだけど…、重山ってどうやって演技しているの?(笑)。瑠璃は何となくわかるんだけど…。特にお鍋のシーンが印象的で、すねる芝居がすごくリアルでビックリしたんだよね。あれは全力で「すねるお芝居をするぞ!」と思っていたのか、それとも半分動きの事を考えていたのか?
重山:あまり深く考えていないのはある(笑)。でも、「このキャラクターはこういう感じだから、このくらいの力を持っていて、このぐらいの力強さでこういうことを考えているんだろうな」っていうことは考えているかな。その上で、俺の身体だったらこう動かすしかないだろうなみたいな。
お鍋のシーンは「圭一にすねる芝居をやらせるぞ」というように思っていて、自分は動きのことを考えているというのがちょうどいい距離感かなと思っていた。操り型というか、自分は一歩後ろから離れて台本を見ながら、圭一に「これをやれ、あれをやれ」と言っているようなイメージだった。
一同:へーーーーー!
石渡:すごく納得。長年の謎が解けた(笑)。
福井:瑠璃はどう?すごく冷静な視線で役との距離感を測っていると思うけど。
平山:これは俳優としての私自身の課題でもあるのですが、何でもかんでも自分の頭の中で計算していると当然凝り固まった芝居になってしまいます。「私」は今どこに立っているのか、役の後ろなのか役の中なのかは把握しつつ、最終的な判断は相手役の芝居に応じることで遊びを持たせているつもりです。多分重山さんとは真逆のアプローチですね。
魚田:役との距離感、今作では割とシーンによって変動があるようにも感じていて、そのバラバラさが独特だと思っていました。そういう距離感って上演全体を通じて揃っている方が良いとする演出の方が多いと思うんですが、福井さんはどのようにバランスを取っているんですか?
福井:すごく雑な言い方をすると、観たときに成立していればいい。もちろん俳優と役の距離や「セリフをどう読んで欲しいか」については伝えますが、破綻していなければ「演出と俳優の解釈が違っていてもいい」と思っている。演出の提示した理論を守ってもらうことに現段階はあまり興味がなくて、むしろバラバラだけどなぜか成立してしまっている面白さを求めているのはあるかな。もちろん、あまりにも違う方向の場合は修正させてもらうけど、“遊び”を持たせることは一応心掛けてる。
演劇に対する温度感もメンバーによって違うし、時間を使って参加してもらっているから、演出の理想を叶えるために犠牲になってもらうような、ガチガチな縛り方はしない方がいいんじゃないかな、と。
魚田:なるほど。今っぽいなぁ。
>>後編へ続く
(文/進行・野中知樹)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?