「弱さ」を誰かに打ち明けられない自分の弱さについて
「実存/生存の障害」
東大誰でも当事者研究会のホームページに、べとりんさんの書いた「実存/生存の障害」という記事が載っていた。
それによれば、大学生の「生きづらさ」は、ほとんどの場合は「実存の障害」であるらしい。この「実存/生存の障害」について考えることで、なぜ自分が弱さを開示できないのかということについて、深めていきたい。
べとりんさんによれば、障害というのは「実存/生存の障害」があるという。「生存の障害」というのは、生きるということを直接おびやかすようなものである。例えば、ガンであるとか、自殺したいほど辛いとかだ。そういった生存の障害に対して、「実存の障害」がある。これは少し説明をしなければならない。そもそも、実存とはなんだろうか。べとりんさんは、「ハサミ」と「人間」の例をあげる。
ハサミは、「紙を切る道具が必要だ」という目的にあうように作られた物だ。言い換えれば、ハサミには「紙を切らない」という可能性はない。これをサルトルは「客体」と呼んだ。世界とのかかわりかたがすでに、決まってしまっているような、定立的存在である。
一方で、人間は、最初から何かの目的をもって生まれるわけではない。自分がどういう存在であるかは、自分自身が決めるものである。これをサルトルは、「主体」と呼ぶ。「人間はみずからがつくったところのものになる」という『実存主義とは何か』の有名な一節がある。自分自身の在り方を、自分自身が選び取るのが、人間というのもなのである。
だからこそ、我々は悩むし、生きづらさを感じてしまう。最初から、「自由」がなければ迷ったりはしない。生まれた瞬間に、自分の生き方を、神様が決めてくれていたなら、悩むこともないだろう。サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、自由はつらいものだと思う。
ここで一つの命題が考えられる。
【命題1】 実存を希求するならば、人は弱さを抱える。
どうすれば生きられるのかを考えずにいられる社会
ぼくたちは、日本という究極に合理化された社会で生きている。換言すれば、「どうすれば生きられるか」を直接に思考することなく生きていくことができる。合理化された社会の中では、社会のルール(法)さえ守れば生きてはいけるのだ。例えば、社会のルール通りに、勉強を頑張って、大学に行って、それなりの会社に入れば、死ぬことはない。どうすれば生きられるかという問い、つまり、Realismから離れても、法さえ守れば生きていける。ここではそのようなありかたをUnrealismとよびたい。
Unrealismの中で生きるぼくたちは、「生きる」ことから疎外されている。なぜなら、法の中では、「弱さ」を他者に開示することはタブーであるからだ。すくなくとも、ホモソーシャルな関係にあるような、男性集団のなかでは、「弱さ」の開示は禁忌である。自分が弱くて、どうしようもない存在で、クソであるということを開示してしまうことはできない。
生きているならば、弱さは自分のものである。誰のものでもない自分自身の弱さを、社会はなかったことにする。それどころか、「専門家」に、その弱さを取り上げられてしまったりもする。
実存しようとするならば、必ず弱さを抱えるものである。これが【命題1】だった。しかし、合理化された現代社会においては、弱さを開示することが許されない。
弱さを開示しようとするならば、法の中から、外へと逃れなければならない。一方で、法外へと逃れるためには、ルールに従うことを放棄しなければならない。ルールから離れされすれば、そこで、「自分が生きている」ことを実感できる。つまり、Realismの中で生きることができるのだ。
【命題2】 弱さを開示するためには、法外へと逃れなければならない。