二宮翁夜話 第八章
第八章 分度の巻
四十六 分度を守るは我が道の第一なり
翁曰く、凡そ事を成さんと欲せば、始めに其の終りを詳かにすべし。
譬えば木を伐るが如き未だ伐らぬ前に、木の倒れる處を、詳かに定めざれば、倒れんとする時に臨んで如何共仕方無し。
故に、予印旛沼を見分けする時も、仕上げ見分けをも、一度にせんと云いて、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり。
相馬候、興國の方法依頼の時も、着手より以前に百八十年の収納を調べて、分度の基礎を立てたり。
是れ荒地開拓、出来上がりたる時の用心なり。
我が方法は分度を定むるを以て本とす。
此の分度を確乎と立てて、之を守る事厳なれば荒地何程あるも、借財何程あるも、何をか懼れ何をか患えん。
我が富國安民の法は、分度を定めるの一つなればなり。
夫れ皇國は、皇國丈けにて限れり。
此の外へ廣くする事は決してならず。
然れば十石は十石、百石は百石、其の分を守るの外に道はなし。
百石を二百石に増し、千石を二千石と増す事は、一家にて相談はすべけれども、一村一同に為る事は決して出来ざるなり。
是れ安きに似て甚だ難事なり。
故に分度を守るを我が道の第一とす。
能く此の理を明らかにして分を守れば、誠に安穏にして、杉の實を取り苗を仕立て、山に植えて、其の成木を待ち楽しむ事を得るなり。
分度を守らざれば先祖より譲られし大木の林を、一時に伐り払いても、間に合わぬ様に成り行く事、眼前なり。
分度を越える過恐るべし。
財産ある者は、一年の衣食、是れにて足ると云う處を定めて、分度として多少を論ぜず分度外を譲り、世の為めをして年を積めば、其の功徳無量なるべし。
釋氏は世を救わんが為めに、國家をも妻子をも捨てたり。
世を救うに志あらば、何ぞ我が分度外を、譲る事のならざらんや。
【本義】
【註解】
四十七 分度は自分を折りかがめるの道なり
嘉永五年正月、翁おのが家の温泉に入浴せられる事数日、予が兄大澤精一、翁に随って入浴す。
翁湯桁にいまして論して曰く、夫れ世の中汝等が如き富者にして、皆、足る事を知らず、飽きるまでも利を貪り、不足を唱えるは、大人のこの湯船の中に立ちて、屈まずして、湯を肩に掛けて、湯船はなはだ浅し、膝にだも満たずと、罵るが如し。
若し湯をして望みに任せば、小人童子の如きは、入浴する事あたわざるべし。
是れ湯船の浅きにはあらずして、己れが屈まざるの過ちなり。
能く此の過ちを知りて屈まば、湯忽ち肩に満ちて、おのずから十分ならん。
何ぞ他に求める事をせん。
世間富者の不足を唱える、何ぞ是れに異ならん。
夫れ分限を守らざれば、千萬石といえども不足なり。
一度過分の誤りを悟りて分度を守れば、有餘おのずから有って、人を救うに餘りあらん。
夫れ湯船は大人は屈んで肩につき、小人は立ちて肩につくを中庸とす。
百石の者は、五十石に屈んで、五十石の有餘を譲り、千石の者は、五百石に屈んで五百石の有餘を譲る。
是れを中庸と云うべし。
若し一郷の内一人、此の道を踏む者あらば、人々皆分を越えるの誤りを悟らん。
人々皆の誤りを悟り、分度を守りて、克譲らば、一郷富榮にして、和順ならん事疑いなし。
古語に一家仁なれば、一國興るもいえり。
能く思うべき事なり。
【本義】
【註解】
四十八 富貴を求めて止まる所を知れ
翁曰く、世人、富貴を求めて止まる事を知らざれば、凡そ俗の通病なり。
是れを以て、永く富貴を持つ事能わず。
夫れ止まる處とは何ぞや。
曰く、日本は日本の人の止まる處なり。
然れば此の國は、此の國の止まる處、其の村は其の村の人の止まる處なり。
されば千石の村も、五百石の村も又同じ。
海辺の村山谷の村皆然り。
千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る。
是れ天命、正に止まるべき處なり。
然るを先祖の余䕃により百石、二百石持ち居るは有難き事ならずや。
然るに止まる處を知らず。
際限なく田地を買い集めん事を願うは尤も浅間し。
譬えば山の頂に登りて猶、登らんと欲するが如し。
己れ絶頂に在りて、猶、下を見ずして、上のみを見るは、危うし。
夫れ絶頂在りて、下を見る時は、皆眼下なり。
眼下の者は、憐れむべく惠むべき道理自らあり。
然る天命を有する富者にして、猶、己を利せん事のみを欲せば、下の者如何ぞ貪らざる事を得んや。
若し上下互いに利を争わば、奪わざれば飽かざるに到らん事必せり。
是れ、禍の起こるべき元因なり。
恐るべし。
且つ海辺に生まれて、山林を羨み、山家に住して漁業を羨む等最悪なり。
海には海の利あり。
山には山の利あり。
天命に安んじて其の外を願う事勿れ。
【本義】
【註解】
四十九 分度定まらば必ず繁栄来る
矢野定直来りて、僕今日在じ寄らず、結構の仰せを蒙り有難しと云えり。
翁曰く、卿今の一言を忘れざる事生涯一日の如くならば、益々貴く益々富み繁栄せん事、疑いあらじ。
卿が今日の心を以て、分度と定めて土台とし、此の土台を踏違えず、生涯を終らば仁なり。
忠なり孝なり。
其の成る處計る可らず。
大凡そ人々事就りて、忽ち過つは結構に仰付けられたるを、有り内の事にして、其の結構を土台として、蹈み行うが故なり。
其の始めの違い此の如し。
其の末千里の違いに至る必然なり。
人々の身代も又同じ。
分限の外に入る物を、分内に入れずして、別に貯え置く時は、臨時物入不慮の入用などに、差支えると云う事は無き物なり。
又、売り買いの道も、分外の利益を分外として、分内に入れざれば、分外の損失は無かるべし。
分外の損と云うは、分外の益を分内に入るればなり。
故に我が道は分度を定めるを以て大本とするは、是れを以てなり。
分度一たび定まらば、譲施の功徳、勤めずして成るべし。
卿今日存じ寄らず、結構に仰つけられ有り難しとの一言、生涯忘れる事勿れ。
是れ予が卿の為に懇祈する處なり。
【本義】
【註解】