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先祖供養やお盆についてのAlchemist的見解。

さて、お盆であった。

巷の皆々様においては、絶賛里帰りシーズンであったことだろう。

諸々の修羅場を経て家族と絶縁している身としてはオールスルーイベントであるが、このあたりは日本人の潜在意識に深く根を張り、ある意味で縛られがちなところなので、今日はそれについての見解を語ろうと思う。

お盆とそれに伴う帰省圧力、先祖供養について。

なるほどこういう節目に家族や親せきのもとに顔を出して、絆?とかつながり?とかを確認したりするのも必要なことかもしれない。

それが楽しくて、心満たされるイベントであるなら、ぜひとも参加していただきたい。

が、それがストレスだったり、げんなりするのであれば無理にすることでもないと思う。

なぜならば。「生きている人間が幸せに暮らすこと」が先祖に対する最大の恩返しであり、そこが損なわれるのは本末転倒だからだ。

また、すでにこの世にない人間に対して感謝をささげたいというのなら、ぶっちゃけどこでもできる。

物理的な制限に縛られるのは我々だけだ。

家でも、海外でも、どこでも、彼らを思い浮かべて祈りをささげれば、それは届く。

お盆は先祖の霊が返ってくるといわれているイベントだが

魂はそこにここに。あそこに。時空の概念を超えてどこにでも存在するので、わざわざ出向くことに気が進まないならしなくてもOK!家で祈ろうな!ということである。

もちろん一種の礼儀として!会いに行きたいんだよ!という方々においてはぜひそうしていただければいいと思う。


個人的な話をすると、自分の死後は葬儀もいらないし墓もいらない。

なぜって生きている人に手間もお金もかけさせることになるから。

生きている人のエネルギーは彼ら自身のために。

彼らのお金もまた彼ら自身のためにある。

そこでどんだけ高価な柩やら仏壇を買うかによって、どれだけ豪華な葬儀を行うかによって故人がどれだけ愛されていたかが、決まる!

そして死後の世界の待遇の如何が決まる!!なんて言われることもあるらしいけれど。

個人的には「んなわけあるかいな。」と思っている。

葬儀も、仏壇も、墓参りも、究極的にはすべて生きている人の自己満足のもとに行われればよくて

生きている人がそれをすることによって心が慰められたり、加護を感じられるならそうすればいいけれど

そうでないなら、死んだ人間のことはとっとと忘れて、自由に楽しく生きてほしいと思う。

だってちゃんと生きてきた人なら、死んだあとそんなにその場にとどまらないよ?

「あ~終わった終わった。次々!」

て感じて、とっとと死後の世界を満喫するなり、次の生に向けて準備したりするよ。

場合によっては人とは異なる存在(視えない存在)として人のサポートに回るかもしれないし、やることはいっぱいあるしね。


そんなわけで、いろんな義理や人情やら、こうせねばならんのでは…!みたいなプレッシャーは感じると思うけれど

まずは自分が幸せに、心地よく在るために心を砕いていいのだと思う。

想いはいつでもどこからでもとどけられるのだから。






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