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結婚式に行くことも行かないことも自由だ

結婚式に招待されたら、出席するのが当たり前だと考えられている。
「友達の結婚式に行かないなんて、そんなの友達じゃない」
――こうした考えが一般的ではないかと思うことがある。
しかし、結婚式に出席しなくとも、友達の結婚を祝う気持ちがあれば十分なはずだ。それでも、なぜ「出席」が重視されるのだろうか。
友達の結婚式への誘いをきっかけに、そんな疑問が浮かんだ。

私には友達と呼べる人が3人いる。おそらく一般的に少ない部類なのだと思う。
去年夫と上京し、今は周りに友達と呼べる人はいなくなった。
遠方に住む友達から結婚式に招待してもいいかという連絡があった。
しかしながら、私は断った。
その決断に至るまでの考えや、目にしたさまざまな意見について、ここにまとめてみる。

※注意※
以下の内容には、結婚式について否定的な意見や個人的な考えを述べた部分が含まれています。読まれる方によっては異なる感情や不快感を持たれるかもしれませんので、その点をご了承のうえお読みいただけますと幸いです。


誓いは自分自身の中にある

正直に言おう。結婚式(披露宴)に参加するのが苦手だ。
二人の思い出ムービーや家族への手紙、薄ら寒い演出で感動を強要されていると感じる。誓いのキスも本当に見たくない。
3万円に加え、交通費や宿泊費、貴重な時間を使ってまで二人の誓いを見届けることが本当に必要なのかと思ってしまう。
結婚式でゲストに向けて誓いを立てなくとも、日々の中で二人の誓いを感じることこそが大事なのだと私は考えている。
実際、私たち自身はフォトウェディングで済ませた。その写真はどでかい額に入れて、毎朝起きると必ず目に入る場所に飾ってある。
日々の生活の中で交わされる会話や支え合いには、結婚前に誓った「二人で幸せになろう」という揺るぎない思いが常に根底にあると感じている。
結婚式でゲストに誓いを立てること以上に、日々の中でその誓いを実感し、育むことが大事なのではないだろうか。

友達の結婚式断ったらあかん

とはいえ、私のような意見を持つ人は少ないのかもしれない。
「友達 結婚式 断る」などといった適当なワードで検索すると、「友達の結婚式を断ったら縁を切られました」や、「大事な友達の結婚式に行きたくありません」といった相談が出てくる。
その回答には、「あなたは友達を本当に大事に思っているのですか?」「そんな考えでは、あなたの結婚式には誰も来ませんよ」などと厳しい言葉が並んでいる。

そもそも結婚式は自由参加

私自身が結婚式に対して否定的な考えを持っているせいかもしれないが、結婚式はあくまで自由参加のイベントであり、二人の幸せを見届けさせる場に過ぎないのではないだろうか。もちろん、結婚式が本来持つ意義――神様やゲストの前で愛を誓い合い、認めてもらうための儀式であることや、親や家族、お世話になった方々に感謝を伝える場であることは理解している。

ただ、結婚式には準備やマナーなど、気を使うことが多すぎると感じることもある。ドレスの購入やレンタル、美容院の予約、遠方なら交通手段や宿泊の手配、お車代の有無まで気にしなければならない。二人の愛を見届ける場であるはずなのに、こうした負担が多いと、純粋な祝福の気持ちがかえって薄れてしまうこともあるのではないだろうか。

人生の節目は結婚だけではなく、他にもたくさんの形がある。何もそのすべてを他人に公開する必要はないのではないだろうか。また、主催者側も、結婚式への参加を「当然のこと」と考えるのではなく、「祝福の形は人それぞれである」ということを受け入れても良いのではないかと思う。

大事なのは、形式ではなく、祝福の気持ちそのものだ。
友達を祝福する心があること。それだけで十分ではないだろうか。

友達間のお金のやり取りはトラブルのもと

「友達間でのお金の貸し借り」というのは昔はトラブルのもとになるのでやるなと口酸っぱく言われていたはずなのに、何故か大人になると平然とやってしまう。
もしかして、ご祝儀もその一つに入るのではないだろうか。
「ご祝儀は純粋なお祝いの気持ちだ!」と反論が飛んできそうだが、実際にご祝儀を渡す際こんなことが頭によぎるのではないだろうか?
「また自分の結婚式のときに返ってくるから」
「○○さんはご祝儀△△円包んでくれたから、同じ金額にしよう」
「ご祝儀△△円包まないと縁が切れるかも」とか。
これって、もはやお金の貸し借りと同じではないか。
実際、ご祝儀の額や「渡したのに向こうはくれなかった」といった理由で友人関係が悪化するケースも珍しくない。

こんな文化、もうやめようや…
お祝いの気持ちは形だけではなく、もっと自由な形で示しても良いはずだ。

じゃあ自分が億万長者だったら?

これだけ結婚式を批判してきたが、結婚式をやるかやらないかは本人たちの自由であり、そこに幸せを見出す人が多いのも事実だ。ウェディングドレスを着ることに憧れる人や、「一生に一度の晴れ舞台」として結婚式を大切にする人の意見も散見される。

実際、自分が今の平凡な暮らしではなく、億万長者だったらどうだろうか?おそらく、退屈な自己満足ショーやそれなりの料理のために足を運ぶのではなく、多額のご祝儀や豪勢なプレゼントを個人的に贈るだろう。

じゃあかけがえのない存在だったら?

では、もし誘ってくれた相手が亡くなった私の大親友や特別にお世話になった大好きな身内だったら?そう考えたとき、「結婚式は本っっっっ当に苦手だけど、そんなに楽しみに企画しているのなら、少しぐらい自己満足ショーに付き合ってやるか。お金なんて返ってこなくてもどうでもいい」と思える自分がいることに気づいた。

つまり、どれほど結婚式が嫌いだとしても、「人生に深く関わり、心の支えとなるかけがえのない存在」であれば、「まあ仕方ないな」と思い、その場に足を運ぶことができるのだ。
そうした存在は、自分にとって、人生の中で迷ったり立ち止まったりしたときに、そっと背中を押してくれる人であり、その温かな存在感は、いつも心に灯る明かりのようなものだ。

今回誘ってくれた友達について改めて考えたとき、ふと気づいた。
この人は、確かに大切で、かつてはたくさんの思い出を共有した。でも、今の私にとっては、日々の暮らしの中でふと想い出す温かい記憶の一部であって、日常の中で欠かせない存在ではないのかもしれない、と。
それに気づいたとき、悲しいような、ほっとするような、不思議な感覚が胸に広がった。誰かを「大切」と思う気持ちは形が曖昧で、それがどの程度の重さを持つのかは自分でも分からない。でも、「本当にかけがえのない存在」かどうかは、こんなふうに一つの選択肢に迷う瞬間に、自分の心がそっと教えてくれるのかもしれない。

だから私は、今回の誘いを断るという選択をした。私の心が、そこまで深い絆を感じなかったからだ。それは決してその友達を軽んじるわけではなく、自分自身の心に正直でいるための決断だった。

おわりに

結婚式に対する価値観や考え方は人それぞれであり、どのように祝うかは自由であるべきだと思う。結婚式への参加は「義務」ではなく、自分の気持ちや状況に正直な選択であっても良いのではないだろうか。友達を祝う気持ちは、形にとらわれず、それぞれの関係性や事情に応じた方法で示せば十分だと感じている。

とはいえ、結婚式という場に特別な意味を込めて準備を進める主催者側の気持ちは、心から尊重したいと思う。結婚式は確かに特別な日だ。しかし、友達を祝う気持ちはその一日だけに限られるものではなく、日々の中で育まれ、形を変えて続いていくものだと思う。祝福の気持ちそのものが特別であり、それは結婚式という形を取らずとも、変わらず深いものだと信じている。

だからこそ、「結婚式への参加」だけが祝福の形ではないことを理解してもらえると嬉しい。参加するかどうかの選択が、友達としての価値や祝う気持ちを否定するものでは決してないのだ。本当に大切な関係であれば、形式にとらわれず、相手を思い、支え合うことこそが何よりも大切だと私は考える。祝福の気持ちが特別である限り、その伝え方は自由であっていいはずだ。


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