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どうして戦う【進撃の巨人】

(丁寧に仕上げられず、身勝手な文章になっています。)

国のために、愛する人のために、未来の子孫たちのために、自分を犠牲にして戦う人の行動原理が分からない。

理解できないのは、戦争を経験したこともなければ、親しい人の死に直面したこともない有り難い人生を送っているからかもしれないけど。

色々なアニメや漫画を見てきたが、多くの漫画の根源に「愛」というものが確かにあるように思う。
恋愛だけではなくて、それは友愛であったり物愛であったりする。

特に少年漫画を見てると、「ヒロインを助けるために敵と戦う」とか「友達のために自分が悪者になる」など、自己犠牲の精神が強く描かれている。私の大好きな漫画『僕のヒーローアカデミア』の主人公もそういうタイプだ。

漫画としては盛り上がるのかもしれない。確かに、「主人公の自己犠牲ぐせに気づいてそれを阻止する為に助けてくれるライバル」なんかが出てきたら、面白い展開になるんだと思う。

それでも、自分を犠牲にしてまで大切な人(物)を守りたい/助けたい という愛が、私には理解できない。

そもそも、これは愛なのか、愛でなければ何なのか。
自分を犠牲にして守ったり助けたりした相手の側にあなたが居なかったら、それは自己犠牲として「成功」と言えるのか。
例えば、大切な人を庇って、あなたが犠牲になって、大切な人があなたのことを想っていたら、「私のせいであなたが犠牲になった」と大切な人が自責の念に駆られるという事も、あなたと精神的(肉体的)隔たりができたことで悲しみに暮れているという事も考えた上で、それでも自己犠牲を選ぶ場合、その選択は相手を守るという行為になるのか。

全然分からない。

愛の力が強いから、とか何となくの言葉を聞くと、そうなのかなって思ったりもするけど、本当にそれは、愛の力だけなの?
どうしてそんなに自分を犠牲にできるの。
どうしてそんなに自己犠牲が大切な人の幸せに繋がると信じているの。

どうして戦うの。

「私のことはいいから」と弟子を逃す師匠も
別れ話をして彼女を傷つけてまで、守ろうとする彼氏も
主人公を庇って死んでいった友達も

何でそんなことをするのか、どうしてそんなことができるのか、不思議だった。

理解できないのは、悔しい。
ただ、理解できてしまうのはもっと悔しいと思う。
「理解できない恐怖」と共に心に湧き出たのは、「憧れ」だった
自己犠牲という選択肢がない私が、自己犠牲を可能にした彼らの精神に抱いた憧れだった。
だから、理解できないのかもしれない。というより、理解したくないのかもしれない。理解してしまったら、それは憧れではなくなるから。
バケモンはバケモンのままでいて欲しい。

でも、少し考えてみた。自分から不幸になりたいヤツがいないという前提で考えてみた。
もしかしたら"そうしなきゃいけない"ように追い込んでいるじゃないか。
大切な人や物と一緒にいたい、という愛に近い何かの存在が大きいのは間違いない。
それでも、その何かを必死に必死に押し込んで、蓋をして、考え抜いた最善策が「自己犠牲」だったのではないか。
「自己犠牲」しかないと思い込まないと、他の可能性を信じてしまうと、押し込んでいた何かが溢れちゃうから。

そうであるならば、私は憧れなんて捨てて尊敬しなきゃいけない。
私には到底辿り着けない領域だ。

この記事を書いたきっかけに、諫山創先生の大作『進撃の巨人』がある。
主人公のエレンも、自らが悪役になってまで愛する大切な仲間を守った自己犠牲精神の持ち主だと考えている。

私はエレンも理解できない。
大切な人を守りたいなら自分もそこにいればいいと本気で思っていた(実際様々な事情が絡まり合っている為それがとても難しいのだが)

自己犠牲はエゴなんじゃないか。そう考えもした。自己犠牲する側は、される側の喪失感を理解しているのだろうか。

長くなってしまったが、最後に一つだけ。

テレビアニメ『進撃の巨人』には、多種のOP/ED曲があるが、その中でもずっと忘れられない歌詞がある。

骨はどうせ砂と化して消えるのに生きてる

衝撃/安藤裕子 より引用


このフレーズを聞いて、曲名通り衝撃を受けた。上手く言えないけど、今まで私が表現できなかったモヤを歌ってくれた気がした。

エレンはどうして戦うの。
「骨はどうせ砂と化して消えるのに」どうして戦ったの。

もういないエレンに、ずっと問いかけてる。


*進撃の巨人の曲の中で一番好きかもしれない