オールドタイプからニューオールドタイプへ。
日本のダイビングが変わろうとしている。いや変わらなければ、このまま衰退してしまうだろう。私が住む沖縄は、インバウンドの推進により世界中のダイバーが訪れている。そこで世界のダイビングを身近で見て感じるのは、WKPP(洞窟ダイビングから派生したダイビング技術やチームダイビングの考え方)ダイビング思想の影響を少なからず受けていると思う。では何故、日本のダイビングがWKPPダイビング思想の影響を受けていないか?を考察すると以下の課題と問題点が浮かび上がってくる。
日本はアメリカと並びレクレーショナルダイビングの歴史は古い。しかし、その歴史があるばかりに古い仕組みや習慣を捨てきれずにいるのではないか?日本のダイビングの起源であるアメリカが日本と違った進展に向かっているかは、その仕組みを作り上げたものと、その仕組みを真似たものの違いにあるのではないか。
つまりは守破離があるとすれば、そもそも「守」が違っていたのかもしれないと私は思う。守破離の守は物事の本質を守ることであるが、アメリカから入ってきたダイビングの本質を何処かで間違えて、次の「破」に向かい最後の「離」に至っては、本質とはかけ離れた歪なものに出来上がってしまったのではないかと考えてしまう。
また変えられない思考には「どこを見ているか?」つまり衰退してきている危機感はあるものの、自分たち側の環境ばかりを見るあまり、他利である消費者側を見ていないために自分たち目線の環境しか見ずに「何をどう」やればいいのか見えない。そこで安直な保守に気持ちが向き過ぎてしまう。
では、ダイビング新興国の場合はどうだろうか?を視ればその違いは一目瞭然である。まず古い守る歴史がないから古い仕組みを守ろうとする力は働かない。つまりは、新しい考えを取り入れやすい環境になっている。兎角、ダイビングも日本のガラパゴス化と囁かられるが、ガラパゴス化で通用しなくなったのならば、早く変化を起こす行動をとらなければコロナ禍が終焉のトリガーになるのかもしれない。
オールドタイプからニューオールドタイプへ。
日本的な考え方である「温故知新」を実践する時が今なのかもしれない。確実に新しい市場は「有形から無形価値」に変わってきている。
テックとかサイドマウントとかレクレーショナルなどといった表現は単なるビジネスモデル上の分断に過ぎない。
様々なカテゴリー分けされているダイビングの本質は全て同じである。
つまり、機能性や合理的に良好なるものは全てのダイバーに支持され選択できるものでなければ何の意味もないものである。古くても積み上げた合理的技術に新しいものを合わせたニューオールドタイプへのDiving makeover. が時代の流れの中で始まっているのかもしれない。