スキル追求は争いやマウント取りを生むのか?
前回は呼吸スキルについて、書きました。
今回は全般的なSCUBAスキルについて、思うことを書いて見ます。
◆スキルの追求は「争いやマウント取り」を生んでしまうのか?について「問い」を立ててみます。
スキルの研究や追求を行うと必ずアンチテーゼが発生します。アンチテーゼには内容より揚げ足取りや感情的なアンチテーゼが多いように思います。ダイビングに関して、日本ではスキルの議論は向かない文化があると云う人もいます。
果たして、そうなのか?そのことは私にも分かりません。ただ思うことは争いやマウント取りの中で、人は醜い感情が支配することがあると言えることです。その醜い感情にはスキル論とは無関係のベクトルが働き、やがて憎悪の塊になり人を攻撃したがる悪魔的人間やそれを中心とするダイビングコミュニティ(日本的村社会)が出現するのは事実です。
◆日本的村社会(ダイビングコミュニティ)とは?
社会は既成概念で思考します。個人は固定観念で思考します。社会は既成概念が違うものには反論しますが、個人は自分が支配する村社会で支配したがり、自分が支配する固定観念が違う他者に攻撃を仕掛けます。個人が支配形成する村社会は一人の強烈な固定観念に迎合し隷属的に動きます。そして形成した村社会の中で観念とは関係ない人間のヒエラルキーが出来上がり、やがて、内ゲバが始まりコミュニティの劣化が起こります。
◆村社会(日本的コミュニティ)の攻撃とは?
個人が支配する村社会には特徴があります。その特徴とは、自分の考えを強引に押し付けることです。ある特殊な人間は人を自分の考えで洗脳することでしか幸福や喜びを感じない極端な原理主義感を持っています。また自分のコミュニティへ狡猾に人を呼び込もうとすることに力を注ぎます。しかし、自分の固定観念を是としない人には攻撃を始めます。攻撃の方法は、情報を歪曲したり、論調以外の個人を攻撃する内容となります。つまり「貶めの論理」であり、その内容は揚げ足取りと感情論です。揚げ足取りと感情論の特徴は議論のすり替えと屁理屈であり、この原因は「ずれ」だと私は思っています。ずれとは視点や論点の本質がそもそも違うことです。くわえて、コミュニティリーダーには特徴があります。その特徴は「言ってることと、やってること」が違います。言葉では美辞麗句を発しますが、行動は正反対です。しかし、迎合する人の集まりの中では、それを指摘する人間は存在しません。存在しない理由は「貶められる」からなのでしょうか?今まで私は、この手のコミュニティには極力避けて生きて来たから分からないのです。今からもこの考え方は変わりません。私の理想は「群れない羊」です。理想像は岩場に佇むビッグホーン。
個が中心となるグループで観念をもつと、変化への感覚は劣化してしまう。感覚は経年により磨かれなければならない。感覚は固定されてはいけない。感覚は常に浮いていなければ意味がない。
◆スキルの追及は争うことではない。
スキルを向上するために必要なのは争いやマウント取りではない。スキル向上を別の言葉で表現して趣の幅を拡げることと思うのです。趣の幅を拡げる行為を「センスを磨く」ことであると自分勝手に定義しています。センス=感覚は心中に宿るものと考えています。自分が経験した「感覚を磨き」得た体感は誰にも奪えません。
現在、私のダイビングの楽しみ方は魚を見たりすることも無論ありますが、自分のダイビングスキルを見つめ直し、思ってもみなかった新しい発見を楽しんでいます。つまり、ダイビングポイントに拘ったり、水深に拘ったり、生物に拘ったり、手段に拘ったりしません。拘るのは人です。この人と潜ったら楽しいだろうな~。と感じるダイビングを楽しんでいます。具体的には、他人の意見に耳を傾け、受け入れる。お互いに尊重し合える関係でダイビングを続けています。
また自分の「趣」の感覚を磨くために自撮りで、動画を撮ります。後から自分では見れない自分の趣を見て振り返りが出来るからです。
今回は、この辺で・・・・。